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残飯の女神ノコリ  作者: 久保田ルカ


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第8話 空虚なるフルコース

 高層階の窓の外に広がるのは、宝石を散りばめたような東京の夜景だ。

 天井まで届く特注のガラス張りのリビングルームには、最新のデザイナーズ家具が隙間なく並び、生活感というノイズは一切存在しない。ここは、港区の象徴であるタワーマンションの一室。そしてそこは、現代のネット社会における「理想郷(ユートピア)」として、数百万人ものフォロワーから崇拝されている空間だった。


 料理研究家にしてトップインフルエンサー——『妃美華(みみか)』の聖域。


「よし、完璧……」


 純白の調理台の前で、妃美華はスマートフォンを構え、満足げに息を吐いた。

 画面の中に収まっているのは、フランス製のアンティークの皿に盛られた、極上のローストビーフのカルパッチョ。彩り鮮やかなエディブルフラワーが散りばめられ、特製のトリュフオイルが繊細な輝きを放っている。その隣には、焼き立てのブリオッシュと、琥珀色に澄んだコンソメスープ。

 それは、富とセンスと「丁寧で優雅な暮らし」のすべてを視覚化したような、あまりにも美しい晩餐だった。


 シャッター音が、静寂な部屋に心地よく響く。

 妃美華は手際よくフィルターを選び、キャプションに文字を打ち込んだ。


『今日も愛する息子のために。心を満たす、温かなディナーをいただきます』


 投稿ボタンを押した瞬間から、通知音が止まることはなかった。

〈今日も美しすぎる……〉

〈こんなお母さんが欲しかった〉

〈料理のクオリティがプロを超えてる〉

〈憧れの暮らしです!〉


 秒速で跳ね上がっていく「いいね」の数と、絶賛のコメントの嵐。

 その文字の奔流を眺めているときだけ、妃美華の胸の奥にある、底の抜けたような空洞がピタリと塞がる気がした。自分は愛されている。自分はこの世界で圧倒的な価値を持つ、選ばれた人間なのだと実感できる。


 だが——。

 トマホークのように華やかな歓声の泡が消え去ると、リビングには再び冷たい静寂が戻る。


 妃美華は、スマートフォンをテーブルに放り投げた。

 先ほどまでの慈愛に満ちた表情は嘘のように消え失せ、その美しい顔立ちは、ひどく冷淡で、乾いた疲労の色に歪んでいた。


 彼女は振り返り、調理台の上に並べられた極上のフルコースに目をやった。

 ローストビーフに、ブリオッシュに、コンソメスープ。

 撮影が終わった瞬間、それらは彼女にとって「役目を終えたゴミ」でしかなかった。


「……ふう」


 妃美華は大きめのステンレスボウルを引っ張り出すと、ためらうことなく、その中にローストビーフを放り込んだ。そして、サクサクのブリオッシュを無造作に手でちぎり入れ、上から冷めきったコンソメスープをドボドボとぶっかけた。

 美しい皿の上の芸術は、たった数秒で、ぐちゃぐちゃの泥のような塊に変貌する。トリュフの香りは消え失せ、ただの「ドメスティックな生ゴミ」の匂いが鼻をついた。

 ボウルの底や側面には、取り切れなかったローストビーフの繊維やスープの残り、ちぎれたパンくずが、ドロドロの残飯としてべっとりとこびりついたまま調理台の上に放置されていた。

 

 妃美華はその混ぜ合わせた塊の大半を汚れたプラスチックの容器に移し替えると、リビングの奥にある、窓のない小さな部屋のドアノックを二回叩いた。


「蓮(れん)、ご飯よ」


 低く、抑揚のない声。

 ガチャリと、厚く重い扉が開く音がして、ドアがわずかに開いた。

 そこに姿を現したのは、十五歳になる息子の蓮だった。


 だが、その容姿は同世代の少年とは似ても似つかなかった。日光を長年浴びていない肌は驚くほど青白く、痩せこけた体にはサイズの合わないボロボロのシャツがぶら下がっている。彼の目は、母親の顔色を怯えたように窺うだけで、生気という光を失っていた。


「……お母さん、ありがとうございます」


 蓮は両手でプラスチックの容器を受け取った。中身がどれほど無惨にかき混ぜられ、冷え切っていようとも、彼はそこに疑問を抱いたことがなかった。

 これが、お母さんの愛の形だから。SNSで世界中が羨む「素晴らしい母の料理」の、自分だけに分け与えられる聖餐(せいさん)なのだから。


「残さず食べなさい。それが、私の愛に対するあなたの義務よ」


「はい……いただきます」


 蓮が部屋へ戻ろうとした瞬間、冷たい足音が背後から響いた。

 ガチャリ、と重い鍵が外側からかけられる。

 カチリ、と確実に施錠される音が、蓮の逃げ道を完全に断ち切った。このタワーマンションの密室において、彼は完全に母の管理下に置かれた囚人であり、同時に、母の承認欲求を処理するための「ゴミ箱」だった。


 部屋の隅の薄暗い明かりの下で、蓮はスプーンを手に取り、ぐちゃぐちゃに混ざり合った冷たい残飯を口に運んだ。

 味がどうこうではない。それを飲み込むことでしか、自分はこの世界に存在していていいのだと確認できなかった。



「——ひどい有様だねえ」


 静まり返ったタワーマンションの一室。

 完璧に装飾されたリビングの窓枠に、いつの間にか一人の少女が腰掛けていた。


 山吹色と若草色のリボンをあしらった、時代錯誤なほどフリルが重なるドレス。外の景色ははるか下方の夜景であるはずなのに、彼女はまるで自分の庭の柵にでも座っているかのように、ふんわりと足をブラブラさせていた。

 残飯の女神——ノコリ。


 彼女は誰もいないリビングへと舞い降りると、先ほど妃美華が料理を混ぜ合わせた調理台のボウルへと歩み寄った。その底や側面に、ドロドロとした残飯の残りが生々しくこびりついている。 ノコリは、その調理台のボウルに残された残飯の残骸に、そっと白い指先を触れさせた。


 ——魔法『残響』。


 ノコリの瞳の奥で、金色の光が微かに揺らぐ。 ボウルの残飯にこびりついた、この部屋の主である妃美華の心に巣食う、過去の記憶の断片が視界に流れ込んできた。


 映し出されたのは、今から二十年以上前の古いアパートの一室だった。

 幼い日の妃美華が、テーブルの前に座っている。彼女の目の前には、手作りの誕生日ケーキがあった。しかし、当時の彼女の母親は、一切の家事を放棄しガラケーの画面や鏡ばかりを見つめ、娘の手料理に目を向けようとはしなかった。

『こんな見栄えが悪く不味そうなケーキ、気持ち悪くて食べられない。お前は本当に役立たずだ。誰に似たのか、何の取り柄もない』

 母親から投げつけられた冷酷な言葉。

「お前は使えない、存在価値がない」と徹底的に否定され、誰からも愛されなかった幼少期の飢餓感。


 それが、妃美華の原点だった。

 彼女は誓ったのだ。何が何でも他人に認められ、賞賛され、自分という存在を巨大な光で包み込まなければ、生きていけないと。

 SNSの「いいね」は、かつて母親にもらえなかった愛の代用品。そして、その華やかな表舞台を維持するために生じる「見栄えの悪い失敗作」や「撮影の残りカス」は、すべて自分の醜い過去と一緒に、誰にも見えない密室へ押し込めなければならなかった。


 その掃き溜めの受け皿として選ばれたのが、実の息子である蓮だった。


「……なるほどね」


 ノコリは指を離し、フッと冷ややかな息を吐いた。


「お母さんも、昔は愛されなかった子供だったんだ。だからって、今度は自分が子供を『ゴミ箱』にして、承認欲求の燃料にするなんて……人間って生き物は、本当に呪いを連鎖させるのが上手だね」


 ノコリは同情などしなかった。ただ、あまりにも滑稽で、あまりにも救いのない人間の業に、冷ややかな興味を抱くだけだった。



 それから数日が過ぎた。

 タワーマンションの密室には、相変わらず完璧な偽りの日常と、ドロドロの残飯の配給が繰り返されていた。


 だが、その歪な歯車に、ほんの小さな亀裂が入る事件が起きた。

 その日、特製の食材を届けるためにやってきたフードデリバリーの配達員が、エレベーターホールで誤って、街の一般的な「家族向けレジャー施設」のパンフレットを、蓮の部屋へと繋がる玄関の隙間に挟み込んで行ったのだ。


 夜、妃美華がリビングで次の撮影の準備に没頭している隙を突き、蓮はそっと玄関のドアを開け、床に落ちていたその紙切れを拾い上げた。


 そこには、青い空の下で、笑顔の家族がバーベキューを楽しんでいる写真が印刷されていた。

 網の上でジュージューと音を立てて焼ける、分厚いステーキ。皿に盛られた、色とりどりの野菜。そして、何よりも連が目を引いたのは誰もが笑い合っている温かい食卓。


 蓮の胸が、激しく疼いた。

 自分たちが食べているのは、冷めきった残飯だ。誰とも目を合わせず、薄暗い部屋で一人で飲み込む、ドロドロの泥のような食べ物だ。

 ——もしかしたら、本当の世界には、あんな風に誰かと笑い合いながら、温かい料理を食べる場所があるのだろうか?


 蓮の手が震えた。

 ふと見ると、自分が開けた玄関のドアが、ほんの数センチだけ外へと開いていた。

 配達員の不注意か、それとも鍵の締め忘れか。

 外の世界への扉が、今、目の前でぽっかりと口を開けていた。逃げようと思えば、  いつでもこのタワーマンションを飛び出し、あのパンフレットのような光の中へ行けるかもしれない。


「……れん?」


 背後で、冷たい声がした。


 ハッとして振り返ると、リビングの入り口に妃美華が立っていた。

 彼女の手には、撮影用のスマートフォンが握られている。その画面には、リビングの防犯カメラの映像がリアルタイムで映し出されていた。息子が玄関の隙間から外を覗き見している姿が、すべて監視されていたのだ。


 妃美華の顔から、インフルエンサーとしての美しい笑顔が完全に消え去っていた。

 その瞳に宿っていたのは、狂気に満ちた執着と、すべてを支配下から逃がすまいとする猛毒の怒りだった。


「どこへ行くつもりなの、蓮」


「お、お母さん……ぼく……」


「外の世界なんて、あなたを汚すゴミクズしかいないわよ。あんなものを見たら、あなたが壊れてしまう。……いいえ、私を捨てるつもりなの? 私があげた愛が、そんなに不満だったの!?」


 妃美華の声が、恐怖に満ちた絶叫へと変わる。

 彼女は狂ったように駆け寄ると、蓮の手からパンフレットを奪い取り、目の前でビリビリに引き裂いた。


「違う、違うよお母さん! ぼくは、ただ……!」


「出ていきたければ、行きなさいよ! でもね、覚えておきなさい。私以外の人間は、誰もあなたを必要となんてしない! あなたを生かしているのは、この私だけなのよ!!」


 妃美華の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。

 それは息子のための涙ではない。自分が「誰からも必要とされなくなるかもしれない」という恐怖に震える、哀れな女王の自己愛の涙だった。


 その圧倒的なまでの狂気と、母の腕の中に漂う強烈な執着の匂い。

 蓮の足を動かしかけていたはずの「外の世界への憧れ」は、ほんの一瞬で恐怖へと塗りつぶされてしまった。


 ——もし外に出て、母に見捨てられたら?

 ——もし、誰からも愛されなくなったら?


 蓮の足は、もう一歩も外へ進めなくなっていた。

 彼はガタガタと震えながら、自ら後ずさりし、開いていた玄関のドアをバタンと乱暴に閉め、内側からガチャリと鍵をかけた。


 そして、母の足元へと這いつくばった。


「ごめんなさい、お母さん……ごめんなさい……! ぼくはどこにも行かない! お母さんのそばにいる! だから、捨てないで……!」


 蓮は、母のスカートの裾にしがみつき、泣き叫んだ。


 妃美華は、足元で怯える息子を見下ろすと、ふっと息を吹き返し、再び完璧な「聖母の微笑み」をその顔に貼り付けた。


「いい子ね、蓮。あなたは私の可愛い人形よ。ずっと、ずっと一緒にお母さんの愛を食べて生きましょうね」


 母子は、再び完全に閉ざされた密室の中で、固く抱きしめ合った。

 外の世界への脱出口は、永遠に失われた。



 タワーマンションの窓の外。

 夜風に揺られながら、ノコリはその一部始終を静かに見届けていた。


「……馬鹿だなあ」


 ノコリは小さく吐き捨てると、懐から古びた『日記帳』を取り出した。 パチンと表紙を開き、夜景の光を頼りに、小さなペンを走らせる。


「外の世界の光よりも、自分を縛る毒のほうが安心できるなんてね。人間って生き物は、救いがないほどに、自分が作り出した檻が好きなんだ」


 彼女が綴ったのは、華やかな映え料理の裏で消費された、世界で一番歪な「残飯」の記憶。


「一番美味しいごちそうより、一番歪んだ残飯のほうが……人間にとっては、手放せない味なのかもね……なんて哀れな親子」


 ノコリはパチンと日記帳を閉じると、ふわりと空中へ体を預けた。 残飯の女神の姿は、冷たい夜風とともに、高層ビルの群れの中へ音もなく溶けて消えていった。


 タワーマンションの密室では、今日もSNSのための完璧な照明が点灯し、その影で、血の繋がった二人が互いの傷を貪り合うような、甘美で残酷な夕食の時間が始まろうとしていた。

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