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残飯の女神ノコリ  作者: 久保田ルカ


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第9話 汚れた肉

 都心の夜は、綺麗に分断されている。

 一歩足を踏み入れれば、絢爛たるシャンデリアの光と、数万単位のワイングラスが触れ合う高雅な音色が満ちる世界。そして、ほんの少し裏手に回れば、アスファルトの冷たさと、重く澱んだ生ゴミの匂いだけが支配する暗渠のような路地裏。


 超高級会員制レストラン「Sillage(シラージュ)」の裏口。 その漆黒の大型ゴミ箱の前に、一人の青年がうずくまっていた。 名は海斗(かいと)。夜間に行われる産業廃棄物回収のアルバイトをこなす彼は、誰にも見られない深夜の静寂の中で、震える手で黒いゴミ袋の口をこじ開けた。


 中から放たれたのは、あまりにも場違いな芳香だった。 トリュフの官能的な土の香り、芳醇なバター、そして最高級の黒毛和牛が纏う香ばしい脂の匂い。 袋の底から取り出されたのは、政財界の重鎮やセレブリティたちが舌鼓を打つはずだった美食の数々。しかしそれらは、ほんの少しソースが崩れているという理由で、あるいは「コースの後半で客が手をつけなかった」という理由だけで、一粒の傷もないまま「ゴミ」として捨てられていた。


 黒毛和牛のフィレ肉を用いたロッシーニ、キャビアをあしらったアミューズ、一口だけフォークがつけられた極上の温野菜。 海斗は息を呑み、周囲に誰もいないことを確認すると、その手付かずのご馳走の包みを抱え込むようにして、自分のボロアパートへと持ち帰った。


 薄暗い四畳半の部屋。蛍光灯のひび割れた光の下で、海斗は拾ってきた折箱の蓋を開けた。 高級店のロゴが箔押しされた紙箱のなかで、冷めきった高級食材が無惨に並んでいる。 海斗は乾いた唾を飲み込み、誰も居ないその場所で、冷えた和牛の塊を口へと放り込んだ。


「っ……!」


 言葉を失うほどの旨味が、舌の上でとろけた。 極上の肉汁が染み出し、鼻腔を贅沢なスパイスの香りが満たしていく。金持ちたちが「当然の権利」として消費し、ほんの気まぐれで残した食の残骸。それを、底辺で飢える自分が貪り食っている。


 美味しい。信じられないほど美味しいのに、腹の底からこみ上げてくるのは、どうしようもない惨めさだった。 自分の命を繋いでいるのは、富裕層たちが吐き捨てた「命のカス」なのだという動かぬ現実。 海斗は豪華なご馳走を口いっぱいに頬張ったまま、とめどなく溢れる涙を拭うこともせず、一人静かに咽び泣いた。


 ——その姿を、アパートの窓の外の暗がりから、金色の瞳を揺らす少女が見つめていた。 山吹色と若草色のフリルドレスをまとった残飯の女神・ノコリ。彼女は、人間の見栄と格差が凝縮されたその「残飯」の匂いを嗅ぎつけ、面白そうに細い唇を持ち上げていた。



 事件が起きたのは、その数日後のことだった。

 深夜の冷たい雨がアスファルトを叩く中、海斗はいつものように「Sillage」の裏路地で廃棄の回収作業を終え、足早にアパートへ戻ろうとしていた。


 その途中、薄汚れたビルの隙間の暗がりに、ぐったりと倒れ込んでいる人影を見つけた。 近づいてみると、それは一人の女だった。 水たまりの中に倒れている彼女は、ブランド物の高価なコートを泥まみれにし、顔面は青白く、呼吸すらかそかだった。過酷な体型管理と極度の栄養失調の果てに力尽きた、かつては華やかな世界に生きていたであろう元モデルの葵(あおい)だった。


「おい、しっかりしろ!」


 海斗は声をかけ、葵を自分のアパートへと抱え込んだ。 布団に寝かせ、濡れた髪をタオルで拭う。彼女の体は驚くほど軽く、まるで折れそうなほど細かった。冷蔵庫には何もなかったが、海斗の手元には、今夜「Sillage」の裏口から回収したばかりの、手付かずの極上コンソメスープと和牛の煮込みがあった。


 ——この人は、飢えている。自分と同じように、何かを失い、救いを求めている。


 海斗は純粋な善意から、その高級残飯を丁寧に鍋にあけ、コンロの火にかけて温め直した。 部屋の中に、再びあの絢爛たるレストランの香りが立ち込める。


「……よかったら、これ、温かいから。食べてくれ」


 海斗はマグカップに注いだ極上のコンソメスープを差し出し、葵の体をそっと起こした。

 うわ言のようにうめいていた葵は、鼻腔をくすぐるその芳醇な匂いに導かれるように、かすかにまぶたを持ち上げた。彼女の乾いた唇が、温かいスープの湯気を見つめる。


 葵は震える手でマグカップを受け取り、一口だけ口に含んだ。


 瞬間。

 葵の全身が、電流が走ったように硬直した。


 その味は、彼女にとってあまりにも馴染み深く、そして、人生のすべてを狂わせた「呪いの味」そのものだった。


「これ……どこで、手に入れたの……?」


 葵の瞳から、恐怖と屈辱の色が浮かび上がった。

 それは、彼女が数日前まで通いつめ、そして「太る」「お前のプロパティでは価値がない」とスポンサーの男になじられ、狂気的なダイエットの末に追い出された、あの会員制レストラン「Sillage」の味だった。


「ふざけるな……っ!」


 葵は叫び声を上げ、手元にあったマグカップを力任せに床へと叩きつけた。 パリン、とガラスが割れる高い音とともに、黄金色のコンソメスープが汚れた床一面に飛び散り、最高級の肉の欠片が転がり落ちる。


「なっ、何すんだよ……!」


「私を……私を誰だと思ってるのよ!」


 葵は顔を真っ青に染め、狂ったように頭を振り乱した。 彼女の目から、大粒の涙が溢れ出ている。それは感謝の涙ではない。自分の尊厳の残骸を目の前に突きつけられたことへの、耐え難い侮蔑と怒りの涙だった。


「私に、アイツらの食い残しを食えって言うわけ!? 恵まれない乞食だと思って、私のプライドを笑いに来たの!?」


「ち、違うんだ! 俺はただ、君が飢えていたからさ……温かいもので元気を出してほしくて……!」


「お前のその親切が一番気持ち悪いんだよ!!」


 葵は激昂し、布団を蹴飛ばすと、裸足のままアパートのドアを激しく開け放った。


「二度と私に関わらないで!」


  そう叫び声を残し、彼女は冷たい雨の降る夜の街へと飛び出していった。追いかけようとした海斗の足は、その場に凍りついたように動かなかった。



 静まり返ったアパートの部屋。 そこには、割れたマグカップと、床に無残に飛び散ったコンソメスープ、そして転がり落ちた高級和牛の破片だけが残されていた。


 海斗は、その場に立ち尽くしていた。

 自分が良かれと思って差し出した「救いの手」は、相手の最も触られたくないプライドをズタズタに切り裂く刃でしかなかった。温かい食事で誰かを救いたいというささやかな願いは、相手にとっては最も受け入れがたい屈辱の押し付けだったのだ。

自分がしていることの滑稽さと、他人の心を全く理解できていなかったという事実が、海斗の胸を重く締め付ける。温かいスープの代わりに、冷たい絶望が足元から這い上がり、彼の自尊心を完全に押し潰していた。言葉を失い、ただ呆然と床のシミを見つめる海斗の背後に、いつの間にか小さな足音が近づいていた。


「おや、せっかくの親切が逆効果だったみたいだねえ」


 振り返ると、部屋の隅の影から、山吹色と若草色のドレスをまとった少女——ノコリが姿を現していた。 ノコリはトコトコと床のシミと飛び散った肉の欠片へ歩み寄り、その場にしゃがみ込んだ。そして、床に無惨にこぼれ落ちたコンソメスープの染みと、最高級和牛の破片(残飯)に、そっと白い指先を触れさせた。


 ——魔法『残響』。


 ノコリの指先から淡い金色の光が弾け飛び、海斗の視界を強制的に染め上げた。

 そこに映し出されたのは、数日前——あの超高級会員制レストラン「Sillage」の個室で起きた出来事だった。


 贅を尽くした空間の中で、葵は震える手でフォークを握っていた。周囲の冷ややかな視線と、「モデルならこれ以上贅肉をつけるな」というスポンサーの冷酷な言葉が脳裏をよぎり、極度のプレッシャーから一皿の料理にどうしても手をつけられない。彼女は恐怖に駆られ、周囲の目を盗むようにその場から逃げ出し、自分が「要らないもの」として店に切り捨てさせたのだった。


 その、彼女が生涯で最も傷つき、挫折を味わった「逃亡の記憶」の残骸。

 それを、いま海斗は「善意の救い」として彼女の目の前に差し出してしまったのだ。


 光がスーッと消え、現実の部屋に戻る。


 海斗は息を呑み、自分の膝から崩れ落ちた。

 ——自分がしたことは、救済などではない。彼女が必死に隠そうとした最大の傷口を、何も知らずに自らの手で抉り開き、その惨めさを改めて思い知らせるだけの行為だったのだ。


「……っ……俺は、なんてことを……」


 海斗の喉から、掠れた嗚咽が漏れた。

 他者を救うことで自分の存在価値を確認したかっただけの、あまりにも身勝手なエゴ。その刃が、傷だらけだった彼女をさらに追い詰めてしまった。救うどころか、彼女の最後のプライドを踏みにじったのは自分自身なのだという現実が、重く重くのしかかる。


 ノコリはゆっくりと立ち上がり、その様子を冷ややかに見下ろした。 彼女は懐から古びた『日記帳』を取り出し、ペンを開く。


「お腹が空いているなら食べればいいのに、人間は命より『プライド』という目に見えないゴミを優先するんだね」


 ノコリはサラサラとペンを走らせ、今回出会えた人間たちの交錯する業と、すれ違う痛みをそこに書き留めた。 特権階級の誇りと、底辺の生存欲求。そのどちらが欠けても人間は生きられないというのに、二人は互いの傷を抉り合うことでしか繋がりを持てなかった。


 やがて、ノコリはパチンと日記帳の表紙を閉じた。 海斗は打ちひしがれたまま、動かない体を引きずるようにして床に這いつくばった。 彼は泣きながら、床に散らばった高級和牛の破片を、震える手で一つずつ拾い上げた。 救いなどない。誰かを救う資格など自分にはない。それでも、この冷たい現実の中で生きていくためには、この「残飯」を胃の腑に収めるしかなかった。海斗は涙の味しかしない肉を、自嘲の色を浮かべながら、生きるために必死に咀嚼した。


「……うまいよ……こんなの……」


 その絞り出すような呟きを最後に、ノコリはふわりと身を翻した。 夜風がアパートの窓をすり抜け、残飯の女神の姿は、街の暗闇の中へと音もなく溶けて消えていった。


 格差の冷酷さと、純粋な善意が時に人を深く傷つけるという容赦のない現実だけを残し、東京の夜は、相変わらず冷たく静かに更けていくのだった。

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