第10話 不器用な味噌汁
朝の光が静かに差し込む台所に、金属が鋭くぶつかり合う音と、鈍い水音が響き渡った。
「こんなまずい味噌汁、飲めるか!」
声を荒らげたのは、義母の美代だった。
食卓の真ん中に置かれていたお椀が乱暴に押しやられ、中身の温かい味噌汁が台所のシンクへと容赦なくぶちまけられる。湯気がふわりと立ち上り、出汁の香りが虚しく流し台の排水口へと吸い込まれていった。
息子の修二は眉間にしわを寄せ、ぐっと拳を握りしめた。
「母さん、いい加減にしてくれよ! 佳奈子が毎朝、あんたのために身体を考えて作っているんだぞ。それを毎日毎日、一口もつけずに捨てるなんて……!」
「文句を言うな、修二。お前は引っ込んでろ」
美代は車椅子の肘掛けを力なく叩くと、ひどく冷ややかな、澱んだ目を向けた。その横顔には、老いてなお衰えない頑迷さと、周囲を寄せ付けないトゲトゲしい拒絶の色が貼り付いていた。
妻である佳奈子は、シンクの縁に両手をついたまま、しばらくうつむいていた。
数日前、足腰の弱っていた美代が浴室で転倒し、腰椎を痛めて下半身の自由を完全に奪われてから、家の中の空気は一変していた。自宅での介護は想像を絶する過酷さで、トイレの介助、着替え、ベッドからの移乗と、日夜問わない世話に佳奈子の体力と精神はすでに限界を迎えていた。
夫の修二も「もう限界だ。母さんの我儘に付き合っていたら、佳奈子が壊れてしまう」と苦渋の決断を口にし、美代を専門の老人ホームへ入れることを提案した。佳奈子も、これ以上は共倒れになってしまうという恐怖から、その提案を受け入れざるを得なかった。
しかし、施設への入所が決まってからも、美代の態度は軟化するどころか、ますます棘を増していった。
介護の負担に苦しむ佳奈子に向かって、「役立たずのくせに」「早く私をこんな家から追い出してくれ」と、容赦ない罵声を浴びせ続けた。
そして、老人ホームへと旅立つ当日の朝。
それが最後になると分かっていながら、佳奈子はいつものように心を込めて温かい味噌汁を用意した。しかし、美代はそのお椀を一瞥すると、「最後までまずそうな面をして……こんなもの、飲む気にもならないね」と吐き捨て、その場でスプーンごと床へと叩き落とした。
お椀が割れ、黄金色の汁がフローリングの床に無惨に広がっていく。
美代はそれ以上一言も発さず、迎えに来た福祉タクシーの職員に促されるまま、一人で車椅子を進め、振り返ることもなく家をあとにしてしまった。
静まり返ったリビング。
床に飛び散った味噌汁の染みと、転がった割れたお椀の残骸を前に、佳奈子は力なくその場に膝をついた。
張り詰めていた糸が、プツリと音を立てて切れた。
あんなにも酷い言葉を投げつけられ、拒絶され続けたのに、なぜか胸に広がるのは解放感ではなく、どうしようもない空虚さと自責の念だった。
——私がもっとうまく介護できていれば。あんなふうに罵られる前に、何か違うやり方があったのではないか。
彼女を施設へ送り出したのは自分だ。これ以上壊れないための、仕方のない選択だったはずなのに、置き去りにされた冷たい床を見つめていると、自分の選択がすべて間違っていたのではないかという泥のような後悔がこみ上げてくる。
佳奈子は顔を覆い、こらえきれずに声を上げて泣き出した。
その泣き声が響く部屋の隅に、いつの間にか一人の少女が立っていた。
山吹色と若草色のリボンをあしらった、時代錯誤なほどフリルが重なるドレスの少女
——残飯の女神ノコリ。
彼女は一歩一歩と足音を立てずに歩み寄り、床にこぼれ落ちて冷めきった「味噌汁の残りカス(残飯)」の脇にしゃがみ込んだ。そして、その汚れた汁の染みに、そっと白い指先を触れさせた。
——魔法『残響』。
ノコリの瞳の奥で金色の光が瞬き、その食べ物に刻まれた人間の記憶と感情の断片が、静まり返った部屋の中に鮮烈に立ち上がってきた。
映し出されたのは、夜な夜な暗い自室で車椅子に座る美代の姿だった。
誰もいない空間で、美代は一人、ボロボロと涙を流しながらこう呟いていた。
『……ごめんよ、佳奈子。私なんかが生きているせいで、お前たちの時間が削られていく。早く施設に行かなくちゃいけないのに、私があまりにも足手まといだから……。だから、嫌われなきゃ。あの子たちに嫌われて、厄介払いしてもらうような、意地悪な姑にならなきゃ……!』
——嫌がらせなどではなかった。
美味しくないと言って味噌汁を捨てたのも、冷たい罵声を浴びせ続けたのも、すべては「これ以上息子夫婦の荷物になりたくない、早く自分を施設へ追い出してくれ」と願う、あまりにも不器用で身を切るような自己犠牲の演技だったのだ。
光がスッと消え、現実の部屋に戻る。
佳奈子は、脳裏に焼き付いたその真実の残響に、胸を引き裂かれるような激しい痛みを覚えた。
すべては美代の優しさだったのだ。自分たちを解放するための、偽りの悪役を演じていたのだ。
だが、知ったところでどうなるというのだろう。
美代はもう施設へ行ってしまった。佳奈子がどれほど後悔し、彼女の真意を理解したところで、もうこの家に美代はいない。自宅で介護を続ければ自分たちの心が壊れ、かといって施設に入れれば、美代に「嫌われて追い出された」という孤独と痛みを抱かせたまま引き離してしまうことになった。
どちらを選んでも、後悔と痛みが残る。
介護を続けても、老人ホームへ入れても、人間のどうしようもない無力さと不器用さの前では、何もかもが手遅れで、何一つ美しく解決などしない。佳奈子の胸に広がったのは、あまりにも深く、冷たい「やるせなさ」だった。
ノコリは立ち上がり、その絶望に打ち震える人間を見下ろすと、小さく息をついた。
「優しさを伝えるために、わざと憎まれるような嘘をつくなんて、人間って本当に回りくどくて不器用な生き物だねえ。どちらを選んでも、お互いに傷つくことしかできないなんてさ」
ノコリは懐から古びた『日記帳』を取り出し、そこに小さなペンを走らせた。
パチンと表紙を開き、今回出会った人間たちのすれ違う愛と、どうしようもない救いのなさを、一文字ずつ丁寧に書き留めていく。
「言葉にしなくても、温かいスープのなかに隠された想いはあるけれど、それが届いたときにはもう、手遅れになっていることもあるんだね」
ノコリはパチンと帳面を閉じると、冷たい風とともに夜の闇へと溶けるように消えていった。
それから数日後のこと。
静まり返った佳奈子の自宅に、一通の封筒が届いた。
差出人は、郊外にある民間老人ホームに入居する美代からだった。
震える手で封を開けると、中から一枚の便箋と、折りたたまれた小さな紙片が出てきた。
便箋には、見慣れた少し震えた文字で、こう綴られていた。
『佳奈子さんへ。
急に出て行くような形になって、本当にごめんね。
お前と修二には、これ以上苦労をかけたくなかった。ただそれだけが、私の我が儘でした。毎日美味しいご飯を作ってくれたこと、私の面倒を見てくれたこと、本当は嬉しかったし、感謝しきれないほどでした。口うるさい姑でごめんね。どうか、これからは二人で身体を大切に、仲良く暮らしてください。』
涙で滲んだ文字の最後には、そっと「ありがとう」と結ばれていた。
そして、もう一枚の折りたたまれた紙片。
それは、美代が亡き母から受け継ぎ、誰にも教えず大切にしまっていたという、特製「お味噌汁の隠し味」のレシピが記されたメモだった。出汁の引き方から、絶妙な味噌の合わせ方まで、美代の文字で丁寧に書き記されていた。
すれ違い、傷つけ合い、もう二度と元には戻れないという冷たい現実のなかで、その手紙とレシピは、凍てついた佳奈子の胸の内にぽっと小さな灯りをともすようだった。
言葉の裏に隠された真実の愛は、形を変えて、確かに佳奈子の手へと届いていた。
佳奈子は涙を拭うと、美代から託されたレシピのメモを握りしめ、ゆっくりと台所へ歩み出した。
もう二度と同じ食卓を囲むことはできなくても、そのお椀のなかには、あの日の温もりが永遠に残っている。佳奈子は一人、教えられた通りの隠し味で、静かに新しいお味噌汁を作り始めるのだった。




