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残飯の女神ノコリ  作者: 久保田ルカ


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第6話 実らない野菜

 月明かりすら乏しい深夜。湿った土の重い匂いが立ち込める畑の隅で、ドサリ、ドサリと鈍い音が響いていた。


 三十代半ばの男。修(おさむ)は、一切の表情を浮かべることなく、リヤカーに山積みになった野菜を、深く掘られた廃棄用の穴へと投げ落としていた。


 大根のように白く肥大したひび割れた根菜。表面が黒く変色し、奇妙にねじれ曲がった葉物。およそスーパーマーケットの棚には絶対に並ばない、グロテスクで不格好な「失敗作」たち。それらが、修の泥だらけの分厚い手によって、次々と土の底へと帰されていく。


「全然、美味しくなさそう」


 唐突に、静寂を切り裂くような声が響いた。

 可憐な声なのに、そこには温度のない冷ややかさがあった。


 修が手を止め、ゆっくりと顔を上げる。

 廃棄穴の縁に、一人の少女がしゃがみ込んでいた。山吹色と若草色のリボンをあしらった、時代錯誤なほどフリルが多いドレスを着ている。彼女は泥の上に転がった奇形の大根を、真っ白な指先でつまみ上げていた。


「虫食いだらけだし、水分は抜けてるし、形もめちゃくちゃ。こんなの、家畜だって食べないよ」


 ——残飯の女神ノコリは、呆れたようにため息をついた。

 深夜の畑に突然現れた奇抜な服装の少女。普通なら幽霊か不審者だと騒ぎ立てる場面だが、修の濁った瞳には驚きも警戒の色も浮かばなかった。ただ、ノコリの手にある野菜と、彼女の顔を交互に見比べただけだった。


「なんでこんなもの作ってるの? 結局捨てるなら、最初から作らなければいいのに。時間と労力の無駄でしょ」


「……才能が、ないからさ」


 修は低く掠れた声でぽつりと呟くと、ノコリから視線を外し、再びリヤカーの野菜を穴へ投げ捨て始めた。

 ノコリは目を丸くした。普通、自分の作ったものを貶されれば怒るか、あるいは「いつか立派なものを作るんだ」と見栄を張るものだ。だが、この男からはそんな熱は微塵も感じられない。


 ただひたすらに、自分が育てたものを自らの手で捨てるという、不条理で狂気的な徒労の反復。


「ふーん。変な人間」


 ノコリはつまみ上げていた大根を穴へ放り投げると、ドレスの裾を翻して闇の中へ溶けるように消えた。

 修は彼女が消えたことにも気づかないかのように、ただ黙々と、夜明けまで野菜を捨て続けていた。



 翌日の昼下がり。

 刺すような日差しの中、修は土まみれになって鍬を振るっていた。

 彼の畑は、村の端にある先祖代々の土地だ。しかし、周囲の農家が整然とした畝を作り、青々とした作物を育てているのに対し、修の畑はどこか雑然としており、育っている野菜も不揃いで弱々しいものばかりだった。


 そこへ、真新しい軽トラックが砂埃を上げて乗り付けてきた。

 降りてきたのは、修の十歳上の兄である浩一と、親戚の男たちだった。彼らは仕立ての良いシャツを着て、泥だらけの修を冷ややかな、あるいは見下すような目で見つめた。


「おい修。またそんなゴミみたいな草を育ててるのか」


 浩一が、呆れ果てたというように鼻で笑った。

 修は鍬を下ろし、無言で額の汗を拭った。


「いい加減にしろよ。お前が農業を継ぐって言い出してからもう十年だぞ。まともに金になる野菜を一つでも作れたか? 毎日毎日、泥んこ遊びして、結局全部捨ててるだけじゃねえか。近所の連中も笑ってるぞ、『あそこの次男坊は頭がおかしい』ってな」

「兄さんの言う通りだぞ、修。お前には親父さんみたいな土をいじる才能なんて欠片もないんだ」


 親戚の男が同調し、顎をしゃくった。

 彼らが手にしているのは、一枚の分厚い契約書だった。


「この土地、業者に売ってソーラーパネルにしちまえよ。今ならいい値段がつく。お前みたいな無能が耕すより、よっぽど世の中の役に立つし、金にもなる。お前も無駄な苦労をしなくて済むんだ。悪い話じゃないだろ?」


 浩一が契約書を修の胸元に突きつけた。

「お前のその『努力』とやらはな、結果が出なきゃただの徒労なんだよ。無意味だ。無価値だ。さっさと現実を見ろ」


 修は、突きつけられた契約書を見つめた。

 そして、泥だらけの手でそれを押し返すと、再び無言で背を向け、鍬を持ち上げた。


「……っ、この馬鹿が! いつか痛い目見ないと分からねえのか!」


 浩一は忌々しげに地面に唾を吐くと、親戚たちを引き連れて軽トラに乗り込み、乱暴に走り去っていった。

 その後ろ姿を見送ることもなく、修はただ土を打ち据える。


(結果が出なきゃ、ただの徒労……か)


 修の胸の奥で、その言葉が重く響く。

 痛いほど分かっていた。自分のやっていることが、社会の生産性という物差しから見れば、完全に無価値であることなど。

 それでも修は、鍬を振るう手を止めることができなかった。



 数日後。

 修が肥料を買いに町へ出かけ、夕暮れ時に畑へ戻ってきた時だった。


「……あ」


 修の手から、肥料の袋が滑り落ち、地面にドサリと落ちた。

 彼の目の前に広がっていたのは、無惨に破壊された畑の姿だった。


 キャタピラの太い轍が、修が苦労して整えた畝を縦横無尽に踏み荒らしていた。大切に育てていた苗は土ごと掘り返され、泥にまみれてちぎれている。畑の半分以上が、重機によって物理的に蹂躙されていた。


 遠くの畦道に、浩一たちの姿があった。彼らは建設業者の腕章をつけた男たちと談笑しながら、こちらを指差して笑っている。


「これで目が覚めただろ、修! 諦めてハンコ捺せ!」


 浩一の叫び声が、夕風に乗って届いた。

 実力行使だった。才能のない修に「現実」を分からせるための、身内による親切という名の暴力。

 地獄の賽の河原で、石を積み上げる亡者の塔を、鬼が金棒で打ち崩すように。修が十年かけて積み上げてきた無駄な努力の結晶は、たった数十分の重機の暴力であっけなく崩れ去っていた。


 修は膝から崩れ落ちた。

 土にまみれ、千切れた野菜の苗を両手で掬い上げる。その指先が、微かに震えていた。


「ひどいことするねえ」


 背後から、あの声がした。

 修が振り返ると、ノコリが夕日を背にして立っていた。彼女は同情するでもなく、ただ面白そうな観察者の目で、荒らされた畑を見渡していた。


「まあ、あんたのお兄さんたちの言うことも一理あるよ。食べられない野菜を作る畑なんて、人間社会じゃ何の価値もないしね」


 ノコリは修の隣にしゃがみ込むと、キャタピラに完全に踏み潰され、汁を流している奇形の野菜の残骸に、白い指先をそっと触れさせた。


「でも、こいつらがどんな思いで踏み潰されたのか、少しだけ気にならない?」


 ——魔法『残響』。


 ノコリの指先から淡い光が弾け、夕暮れの空気が歪んだ。

 修の視界に、自分が全く知らない、いや、知るはずもなかった「野菜たちの記憶」が濁流のように流れ込んでくる。



『ごめんな、今日も不格好にさせちまって』


 映像の中で、修が土にまみれながら、不揃いな大根に語りかけていた。

『俺は手際が悪いし、土の配合も下手くそだ。親父みたいに、お前たちを綺麗に育ててやれない』


 ノコリが見せたのは、修の「過去」だった。

 幼い頃から、修は何をやらせても不器用だった。勉強も、運動も、人付き合いも、要領の良い兄の浩一とは比べ物にならなかった。いつも周囲から笑われ、期待されず、自分自身でも「俺には何もない」と絶望しきっていた。


 そんな修に、生前の父親だけが、一度だけ言ってくれた言葉がある。


『修。世の中は結果ばっかり気にするがな。結果が出なくても、お前が泥だらけになって土に向き合った時間は、絶対に嘘をつかない。それだけは、誰にも奪えないお前だけのものだ』


 父が死に、畑が残された。

 修は、ただその言葉だけをすがりつくように信じて、畑に出た。


『こんな俺に育てられたばかりに……美味しくなれなくて、悪かったな』


 修の不器用な手が、野菜についた虫を一つ一つ丁寧に取り除いていく。

 真夏の炎天下も、凍えるような冬の朝も。誰も見ていない場所で、ただひたすらに土を触り、野菜に話しかけ、そして自らの手で捨てるという儀式を繰り返した。


 野菜たちに刻まれていた記憶。

 それは、「立派に育たなかった悲しみ」でも、「捨てられる怨み」でもなかった。

出来損ないの自分たちを見捨てず、毎日毎日、不器用な手で触れ、汗を落とし、無駄な時間を注ぎ続けてくれた修の、ひどく泥臭くて温かい体温の記憶だった。


(……俺の時間が、残っていたのか)


 修は息を呑んだ。

 自分がただ捨てていた「ゴミ」の中に、自分の十年間の徒労が、確かな温度を持って保存されていたことに。



 映像が途切れると同時に、ノコリが立ち上がった。


「あんた、バカなんだね」

 ノコリは呆れたように肩をすくめた。

「いつか美味しい野菜ができるなんて、最初から夢見てなかったんだ。自分には才能がないって完全に絶望した上で、それでも『無駄な努力を続ける』っていう苦行を自分に課してた。……石を積んでは崩される、賽の河原の鬼ごっこを、自分からやってたんだね」


 修は答えなかった。ただ、泥にまみれた両手を見つめていた。


「あんたのお兄さんたちが、どうしてあんたを笑うか分かる?」

 ノコリが意地悪く目を細める。

「心配してるからじゃないよ。あんたが不気味だからさ。彼らはね、効率とか結果とか、金になるかどうかでしか自分の価値を測れないの。だから、損得勘定を完全に捨てて、ただ純粋に何かを信じて無駄なことを続けられるあんたの存在が……目障りで、怖くて仕方ないんだよ」


 彼らは、修の純粋な努力を嘲笑し、踏みにじることでしか、「要領よく生きている自分たち」を肯定できないのだ。


「さあ、どうするの?」


 ノコリが問う。

 遠くから、浩一たちが歩み寄ってくる足音が聞こえる。

「ほら、これで諦めがついただろ。ハンコを出せ」という勝ち誇ったような声が響く。


 畑は崩され、作物は死んだ。

 契約書にサインすれば、この無間地獄から解放される。周囲の嘲笑も止み、ある程度の金も手に入り、楽な生活が待っている。


 修は、地面に落ちていた契約書を見下ろした。

 そして、その隣に転がっていた、泥だらけの鍬を見つめた。


「……修。いい加減にしろ。現実を見ろ!」

 浩一が苛立ちを含んだ声で怒鳴り、修の肩を掴もうとした。


 その手を、修は無言で振り払った。


 修は契約書を破り捨てることすらしなかった。兄たちに怒鳴り返すこともしなかった。

 ただ、ゆっくりと腰をかがめ、泥の中から重い鍬を拾い上げた。


「なっ……おい、何やってる!」


 浩一が後ずさる。

 修は振り返らず、キャタピラに深く抉られ、固く踏み固められた重機の轍の上へと歩み出た。

 そして、夕日を背に大きく鍬を振りかぶり、力任せに轍へと打ち下ろした。


 ガンッ! と、火花が散るような硬い音が響く。

 重機で踏み固められた土は石のように硬く、鍬の刃を跳ね返した。修の手は痺れ、虎口が裂けて血が滲んだ。


 それでも修は、表情一つ変えずに再び鍬を振りかぶり、打ち下ろした。


ガンッ!

ドンッ!

ガンッ!


「き、気味の悪い野郎だ……狂ってやがる!」

 親戚の一人が、恐怖に顔を引き攣らせて叫んだ。


 彼らの目には、修が完全に発狂したように見えただろう。

 全てを破壊され、結果が出る見込みなど万に一つもない状況で、なおも無言で土を打ち据え続ける男。それはもはや、人間の理解を超えた、ある種の崇高な狂気だった。


「……勝手にしろ! いつか野垂れ死ぬぞ!」

 浩一は恐怖を誤魔化すように怒鳴り捨てると、親戚たちを連れて逃げるように軽トラへと戻り、猛スピードで走り去っていった。


 残されたのは、夕闇に包まれる荒れ果てた畑と、ひたすらに土を耕す音だけ。


 状況は何一つ解決していない。

 修には依然として才能はなく、野菜は明日からも育たないだろう。親戚たちとの溝は決定的なものになり、経済的な保障もない。


 それでも、修の背中には一切の迷いがなかった。

 結果という果実を得るためではない。ただ、自分が泥まみれになって土と向き合う「時間」そのものを信じ抜くこと。

 何度鬼に崩されようとも、何度他人に嘲笑されようとも、自分だけは自分の無駄な徒労を信じ続ける。


 それこそが、才能を持たない男が世界に対して突きつけた、最大の反逆だった。



 夜明けの光が、紫色の空から静かに降り注いでいた。


 冷たい朝霧の中、修は一晩中かけて耕し直した畝に、生き残っていた不格好な苗を、一つ一つ丁寧に植え直していた。

 そのシルエットは、まるで祈りを捧げる僧侶のようだった。


 遠く離れた畦道で、ノコリはその光景を黙って見つめていた。


「本当に、人間って馬鹿だね」


 ノコリは呆れたように呟きながら、懐から自前の古びた『お弁当箱』を取り出した。

 パチンと留め具を外し、蓋を開ける。

 彼女の手の中には、昨日の夕方、キャタピラに踏み潰されて完全に商品価値を失った、奇形の野菜の破片が握られていた。


 ノコリはそれを、まるでものすごく価値のある宝石でも扱うかのように、そっとお弁当箱の中にしまい込んだ。


「結果が出なくても、ただ信じて続ける。……そんな無駄な時間が刻まれた残飯なんて、普通の人には絶対に味わえないもんね」


 パチン、と蓋を閉める音が、冷たい朝の空気に響いた。


 修の狂気にも似た徒労は、これからも永遠に続く。

 彼が作る野菜は、きっとこの先も誰の口にも入ることはなく、腐って捨てられていくだけだろう。

 しかし、その捨てられた野菜たちの中に、彼の尊い意志の結晶が確かに存在したという証を、ノコリだけが持ち帰っていく。


「さて、次はどんな『残飯』が、私を待ってるのかな」


 残飯の女神は、楽しげに口角を上げると、お弁当箱を抱えて朝霧の中へと溶けていった。

 後に残されたのは、朝日を浴びて泥だらけで笑う、ひどく不器用な男の背中だけだった。



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