↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
残飯の女神ノコリ  作者: 久保田ルカ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
6/23

第5話 旅するクッキー

 放課後の教室には、西日が部屋を淡く染めながら差し込んでいた。

 文化祭実行委員の作業で一人残っていた麻衣は、目の前の机に置かれた小さな包みを見下ろしたまま、石のように硬直していた。


「先輩、これ差し入れっす。甘いもんでも食って頑張ってください!」


 そう言って、顔見知り程度の一年生の男子生徒が置いていったもの。

 透明なフィルムの袋に、赤いサテンのリボン。ただし、フィルムは何度も手で握られたようにシワシワに曇り、リボンは無惨にヨレて結び目が解けかかっている。

 そして何より、中に入っている「それ」は、度重なる衝撃で原形をとどめておらず、プレーンとココアの生地が混ざり合った、ただの粉と欠片の山に成り果てていた。


 麻衣は震える指で、その袋に触れた。

 間違いない。今朝、自分が徹夜で焼き、可愛くラッピングして渡した手作りクッキーだ。

 よりによって、麻衣がずっと片思いをしていた幼馴染の優斗の誕生日に、勇気を振り絞って渡したものだった。


『は? クッキー? うわ、形悪っ! お前不器用すぎだろ』


 朝の教室。優斗は麻衣からクッキーを受け取ると、照れたような、それでいてひどく意地悪な顔で笑った。周りにいた男子たちが「おっ、優斗愛されてんなー!」と冷やかすと、優斗の耳は真っ赤になり、彼はとっさにその包みを隣にいたクラスメイトの健太に投げ渡したのだ。


『俺、甘いもん食えねーし。あ、健太、これやるわ!』

『マジで? わりぃ、もらうわー』


 麻衣の目の前で、徹夜で作った想いの結晶は、他人の手に渡った。

 ショックで息が止まりそうだったが、幼馴染という関係上、「ふざけないでよ!」と冗談めかして怒るのが精一杯だった。


 それがなぜ、一日が終わるこの放課後に、まったく見知らぬ後輩の男子から「差し入れ」として自分の手元に返ってきたのか。


「……意味、わかんない」


 麻衣の口から、掠れた声が漏れた。

 どんな経路を辿ったかは知らない。だが、確かな事実が一つだけある。

 このクッキーは、今日一日、誰の口にも入らず、ただひたすらに邪魔者としてたらい回しにされ、粉々に砕け散って、麻衣の元へ「ゴミ」として帰ってきたのだ。


 みじめさと、恥ずかしさと、どうしようもない悲しみが、胃の奥からせり上がってくる。

 麻衣はボロボロになった袋を鷲掴みにすると、教室の後ろにある燃えるゴミのゴミ箱へと歩き出した。

 もう嫌だ。こんなもの、跡形もなく消してしまいたい。


「捨てるの?」


 唐突に、教室の静寂を破る声が響いた。

 澄んだ高い声なのに、不思議と人を遠ざける冷たさがあった。


 麻衣がハッと顔を上げると、開け放たれた窓の桟に、見知らぬ少女が腰掛けていた。

 山吹色と若草色のリボンをあしらった、時代錯誤なほどフリルの多いドレス。年齢は麻衣と同じ高校生くらいに見えるが、その金色の瞳には、何百年も人間を観察し続けてきたような底知れぬ深みがあった。


「……誰?」


「沢山の人の思惑を吸い込んだ、すごく面白そうな食べ物なのに。もったいないねえ」

 ——残飯の女神を名乗るノコリは、麻衣の問いには答えず、ゴミ箱の上で止まった麻衣の手元を見つめて、くすくすと笑った。


 麻衣が何かを言い返そうとした、その時だった。


 バンッ! と、教室の後ろのドアが乱暴に開け放たれた。

「麻衣……っ!」

 そこに立っていたのは、肩で激しく息をする優斗だった。制服のネクタイは緩み、額には汗が張り付いている。彼は教室中を見回し、麻衣の手に握られたシワシワの袋を見ると、絶望したように顔を歪ませた。


「優、斗……なんで」

「麻衣、ちがうんだ! それは……俺が健太にやった後、あいつが勝手に……!」

「作った人と、最初に捨てた人が揃ったね」


 言い訳をしようと駆け寄る優斗の言葉を遮り、ノコリが窓枠からふわりと飛び降りた。

 ノコリは音もなく二人の間に滑り込むと、麻衣が握りしめるクッキーの袋に、白い指先をそっと触れた。


「そのクッキーがどんな旅をしてきたのか、見せてあげる」


 ——魔法『残響』。


 ノコリの指先から淡い光が弾け、夕暮れの教室の風景が歪んでいく。

麻衣と優斗の視界に、自分たちが知らない「今日一日のクッキーの記憶」が、強制的に流れ込んできた。



『マジで? わりぃ、もらうわー』

 朝の教室。優斗からクッキーを受け取った健太の視点。

 だが、健太の心中には全く違う感情が渦巻いていた。


(うわ、だっる……。俺、他校に彼女いるのに、他の女の手作りとか持ってるの見られたらマジで面倒なんだけど。しかも幼馴染の激重感情入りじゃん。キッツ……)

健太は表面上はヘラヘラ笑いながら、クッキーをすぐにカバンの中に押し込んだ。


 場面が切り替わる。昼休みの渡り廊下。

 健太は、部活のマネージャーであるリナを呼び止めていた。

『リナ、これやるよ。購買のパン売り切れて腹減ってんだろ?』

『えー、なにこれ。サンキュ』


 しかし、リナが袋を受け取った瞬間、彼女の内心の舌打ちが響く。

(は? なにこのラッピング。明らかに手作りじゃん。他の女からもらって困ったから、私に押し付けたわけ? 私をなんだと思ってんの。マジで舐めてる)

 リナの顔は笑顔のままだったが、彼女のプライドはひどく傷ついていた。


 さらに場面は飛ぶ。放課後の階段の踊り場。

 不機嫌なリナが、部活の後輩である一年生の大輔を捕まえる。

『大輔、これあげる。練習前にしっかり食べなよ』

『えっ、リナ先輩からっすか!? ざざざ、あざっす!!』


 顔を真っ赤にして喜ぶ大輔。だが、リナが去った後、手元のクッキーの袋をまじまじと見つめる彼の心には、冷や水がかけられる。

(……なんか、すげぇ形いびつだな。素人の手作りか? これ食って腹壊したら、明日のスタメン落ちるかもしれねえ。やめとこ……)


 そして、大輔はクッキーをブレザーのポケットに突っ込み、委員会で一人残っていた麻衣を偶然見つける。

『あ、ちょうどいいや。文化祭実行委員の先輩だ』

 大輔はホッとしたようにポケットから粉々に砕け始めたクッキーを取り出し、麻衣に向かって差し出した。

『先輩、これ差し入れっす。甘いもんでも食って頑張ってください!』



 光が収まり、再び夕暮れの教室に戻ってきた。


 麻衣は呼吸の仕方を忘れたように、口を半開きにして立ち尽くしていた。

 優斗もまた、顔面を蒼白にして、床にへたり込みそうになるのを必死に堪えていた。


 ただの偶然のたらい回しなどではなかった。

 このクッキーに関わった人間は、誰一人として麻衣の想いを汲み取ろうとはしなかった。優斗が手放した瞬間から、このクッキーは「見栄」「嫉妬」「保身」という、人間の薄汚いエゴのバトンとして扱われ続けたのだ。

 厄介払いの連鎖の果てに、中身を粉々に砕かれ、作り手である麻衣のもとへ「ゴミ」として帰ってきた。それが真実だった。


「……あはは」

 麻衣の口から、空虚な笑い声が漏れた。

「私の気持ち……誰にとっても、要らないゴミだったんだね」


「ちがう、麻衣、俺は……!」

 優斗が血を吐くような声で叫んだ。

「俺は、お前を傷つけるつもりなんてなかった! ただ……あいつらに冷やかされるのが恥ずかしくて、つい……っ!」


「あんたのその、ちっぽけな照れ隠しと見栄のせいで、こうなったんでしょ」

 ノコリが氷のような声で、優斗の言い訳を一刀両断した。


「これが旅の記録。……でもね、出発地点の記憶もあるんだよ。それも見ないで捨てるのは、不公平でしょ」

 ノコリは再びクッキーに触れ、光を放った。


 今度は、深夜のキッチンの映像だった。


 エプロン姿の麻衣が、オーブンの前で格闘している。

『あちゃー、また焦げちゃった……』

 ゴミ箱には、黒焦げになった失敗作がいくつも捨てられている。麻衣の指先には、天板に触れてしまった小さな赤い火傷の痕があった。


 それでも麻衣は、何度も何度も生地を練り直し、型を抜き、焼き続けた。

彼女の脳裏に、一つの記憶が反響している。


 ——中学生の時、部活の人間関係で孤立し、公園のブランコで一人泣いていた夕暮れ。

 ずっと離れた場所でサッカーをしていたはずの優斗が、いつの間にか隣のブランコに座り、何も言わずに温かいココアの缶を麻衣の膝に押し付けてきたこと。

『泣き顔ブッサ。……ほら、飲めよ』

 ぶっきらぼうで、口が悪くて、でも誰よりも早く麻衣の異変に気づいて、ずっと隣にいてくれた。


『優斗、いつも文句ばっかり言うけど……本当はすごく優しいから。お誕生日、おめでとう』


 映像の中の麻衣は、ようやく焼き上がった不格好な市松模様のクッキーを、一つ一つ、割れないようにそっと丁寧に、赤いリボンの袋に詰めていた。

彼女の顔には、優斗がこれを受け取って笑ってくれることへの、無垢な信頼と愛情があふれていた。


 

 映像が途切れた。


 優斗は、息ができなかった。

 麻衣がどんな思いで、あのクッキーを焼いたのか。

 火傷を作りながら、過去の自分の優しさを信じて、あんなに大切に包んでくれたものを……自分は、周りの目を気にするという、世界で一番くだらない見栄のために笑い飛ばし、他人に放り投げたのだ。


 麻衣の無垢な信頼を、自らの手で「残飯」に貶めた。

 その取り返しのつかない罪悪感が、優斗の心臓を鷲掴みにし、激痛を走らせた。


「もう……やめてよ」

 麻衣が顔を両手で覆い、ポロポロと涙をこぼした。

「もう見せないで……お願いだから……っ!」


 麻衣は、粉々になったクッキーの袋を握りしめ、今度こそゴミ箱の奥底に叩き捨てようと腕を振り下ろした。


「——させねえよ!!」


 怒号が響いた。

 優斗が床を蹴って飛び出し、ゴミ箱に落ちる寸前のクッキーの袋を、力ずくで奪い取った。


「……優斗?」

 涙で視界を滲ませた麻衣が、呆然と優斗を見つめる。


 優斗は何も言わなかった。

 ただ、震える手でヨレヨレの赤いリボンを引きちぎり、シワシワになった透明なフィルムの口を乱暴に開けた。


 中に入っているのは、四人の人間の悪意と厄介払いを吸い込み、粉々に砕け散った残飯だ。

 だが優斗は、一切の躊躇なくその袋を口に当てると、粉々になったクッキーを喉の奥へと直接流し込んだ。


「え……っ、ちょっと、優斗!? なにして……!」


 口の中の水分を一瞬で奪われ、優斗は激しくむせ込んだ。

「ゴホッ……! ゲホッ、ケホッ……!!」

 気管に粉が入り、涙と鼻水が吹き出す。顔は真っ赤に充血し、無様なことこの上ない。クラスの女子が憧れる「クールな優斗」の面影など微塵もなかった。


 それでも優斗は、絶対に吐き出さなかった。

 口からこぼれそうになる欠片を手で押さえ込み、必死に顎を動かして噛み砕き、強引に喉の奥へと飲み込んでいく。


 他人の悪意と、自分の見栄によってゴミにされた想い。

 それを、自分の腹の中におさめて消化すること。それが、今の優斗にできる唯一の、そして最大の責任の取り方だった。


「……んぐっ……」

 最後に残った粉を飲み下し、優斗は荒い息を吐きながら、袋を握りしめて床に膝をついた。


「バカ……っ、何やってんのよ……誰の口にも入らないまま一日中持ち歩かれてたんだよ!? お腹壊したらどうするの!」

 麻衣が泣き叫びながら、優斗の背中をバンバンと叩いた。


 優斗は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を上げ、麻衣を見た。


「……美味しいよ」


 掠れた、情けない声だった。


「不格好で、粉々で……でも、すげぇ甘くて、美味しかった。……ごめん、麻衣。俺がバカだった。お前の気持ち、逃げて踏みにじって……本当に、ごめん……っ」


 その泥臭く、一切の見栄を捨て去った謝罪を聞いて、麻衣の目からせき止めていた涙が一気に決壊した。


「……ボロボロじゃない。粉々で、水分もなくて……不味いに決まってるでしょ、バカ……っ」


 麻衣は悪態をつきながら、優斗の胸に顔を押し付けて泣き崩れた。

 優斗もまた、麻衣の背中にそっと手を回し、涙をこぼしながら何度も「ごめん」と繰り返した。


 クッキーはボロボロになり、悲惨な旅をした。

 けれど最後に、自分の想いはちゃんと「届けたかった相手」の腹の中に収まったのだ。麻衣の心に空いていた巨大な絶望の穴が、不器用な少年の泥臭い行動によって、少しずつ温かく埋められていくのを感じた。


 ノコリは、夕陽に染まる教室で抱き合って泣きじゃくる二人を、窓枠に座ったまま静かに見下ろしていた。


「……本当に、人間って面倒くさい」


 ノコリは自前の古びた『日記帳』を取り出し、膝の上でページを開いた。

 そして、小さなペンを走らせる。


「素直に受け取れば、綺麗なまま美味しく食べられたのにね」

 呆れたように呟きながらも、ノコリの顔には、どこか柔らかな微笑みが浮かんでいた。


 ノコリは日記の新しいページに、『粉々の残飯を飲み込んだ少年の見栄と、不器用な嘘の味』と書き記し、パチンと表紙を閉じた。


「でも、不味いクッキーを美味しいって泣きながら食べる嘘は……ちょっとだけ、綺麗だったかな」


 残飯の女神の姿は、秋の夜風が教室を吹き抜けるとともに、夕闇の中へ音もなく溶けていった。

 後に残されたのは、不格好な恋の始まりと、空っぽになったシワシワのクッキーの袋だけだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。