第4話 石になったチョコレート
カラカラに乾いた秋風が、すきま風となって古いアパートの窓を揺らした。
蛍光灯の白けた光の下、絵美はフローリングの床に座り込み、目の前に置かれた段ボール箱を無表情に見下ろしていた。
箱の側面には『遺品整理業者』の無機質なスタンプが押されている。中に入っているのは、数日前に孤独死した姉・香織の部屋から回収された、ごくわずかな私物だけだった。
「……馬鹿みたい」
絵美の口から、乾いた声が漏れた。
かつて、若き天才ショコラティエとしてメディアを持て囃され、華やかな世界で生きていた姉。絵美にとって自慢であり、憧れであり、世界の中心だった人。
その姉が、自分と同じような家賃五万円の古アパートで、誰にも看取られずに死んだという。十二年間、一度も連絡を取っていなかった絵美の元に警察から電話が来た時、最初に湧き上がったのは悲しみではなく、冷たい嘲笑だった。
遺品の中に、めぼしいものは何一つなかった。通帳の残高は数千円。衣服も安物ばかり。
ただ一つだけ、異彩を放っているものがあった。
美しい漆黒の小箱。高級ブランドのジュエリーボックスのようなそれに、絵美は見覚えがあった。
絵美が二十歳の誕生日を迎えた日、姉が「プレゼントだ」と言って突き出してきた箱だ。
絵美は冷え切った指先で、十二年ぶりにその蓋を開けた。
中には、黒く硬い、歪な形の「石」が一つ転がっていた。
「……何これ」
意味が分からなかった。宝石でもない。ただの黒い石ころだ。姉は死ぬ直前まで、私への嫌がらせのためにこんなゴミを大事に取っていたというのか。
どこまでも嫌な女。自分を完全に見下し、冷酷に捨てた姉の底意地の悪さを見せつけられた気がして、絵美は腹の底から黒いヘドロのような怒りが湧き上がるのを感じた。
「ふざけないでよ……っ」
絵美は小箱を乱暴に掴むと、部屋の隅にある燃えるゴミの袋へ向けて、その黒い石を放り投げようと腕を振り上げた。
「——待ちなよ。それ、石じゃないでしょ」
唐突に、部屋の空気が切り替わった。
静まり返っていたはずの室内に、場違いなほど鈴を転がすような少女の声が響く。
絵美がハッと振り返ると、開け放たれた窓の桟に、見知らぬ少女が腰掛けていた。
山吹色と若草色のリボンをあしらった、時代錯誤なほどフリルが重なるドレス。十七、八歳に見えるが、その瞳には年齢とは不釣り合いな、何百年も世界を見つめ続けてきたような深い色が宿っている。
「……誰? なんで勝手に……」
「泥みたいに不格好だけど、一応は食べ物。しかも、十二年も放置されて化石みたいになっちゃってる。……すごいね、これ。人間の執念の塊みたいな匂いがする」
——残飯の女神を名乗るノコリは、絵美の警戒など意に介さず、ひらりと床に降り立った。
ノコリが細い指先を向けると、絵美の手に握られていた「黒い石」から、微かに、本当に微かにだが、酸化したカカオの甘苦い匂いが漂ってきた気がした。
絵美の息が止まる。
忘れるはずがなかった。十二年前のあの日、この箱に入っていたものの正体を。
「……チョコレートよ」
絵美は震える声で呟き、手の中の黒い塊を睨みつけた。
「天才ショコラティエ様が、たった一人の妹の二十歳の誕生日に作ってくれた、世界で一番不味いチョコレート。……異常に塩辛くて、泥みたいにジャリジャリしてて。一口食べて吐き出した私に、あの人は言ったの」
『才能のないお前は目障りだ。私の視界から消えろ』と。
絵美の目に、生々しい憎悪の炎が宿った。
優しかった姉が、なぜ急に狂ったようにそんな仕打ちをしたのか、当時の絵美には全く理解できなかった。パニックになり、泣き叫ぶ絵美を、姉は冷酷な目で見て、アパートから叩き出したのだ。
「私、あの時、ドア越しに叫んだのよ。……『最低よ。お姉ちゃんなんて、死んでしまえばいい』って。それが、あの人との最後の会話。そこから十二年間、一度も会ってない」
絵美は自嘲するように笑った。
「本当に死んじゃったわね。バチが当たったのよ。私の人生を滅茶苦茶にして、自分だけ華やかな世界で生きていこうとしたから、才能も名声も失って、こんな惨めな孤独死を迎えたのよ。当然の報いだわ。……だから、こんなゴミ、もう捨ててやるの」
絵美は再びゴミ袋へ腕を向けた。
だが、ノコリはため息を一つ吐くと、絵美の手首をそっと、しかし絶対に動かせない力で掴んだ。
「あんたさ、本当にそう思ってる?」
「……え?」
「あんたは姉さんを憎むことで、自分を保ってきただけ。でも、この『石』は違うって言ってるよ。十二年間も誰にも食べられず、捨てられもせず、ずっとここに残され続けた食べ物にはね、作った人間の『本当のこと』がこびりついてるんだよ」
ノコリの瞳が、不思議な金色の光を帯びた。
彼女の指先が、絵美の握る石化したチョコレートに触れる。
——魔法『残響』。
食べ物に強く刻まれた記憶の断片を読み解く力。
次の瞬間、絵美の視界から古びたアパートの風景が吹き飛び、強烈なカカオの香りと熱気が渦巻く、十二年前の厨房へと引きずり込まれた。
「……お姉、ちゃん?」
幻影の中で、絵美は呆然と声を漏らした。
そこには、白いコックコートを着た二十代の香織がいた。だが、絵美の知る「完璧で凛とした天才」の姿ではなかった。
香織は、足元をふらつかせながら、手探りで調理台の上をまさぐっていた。
ガチャン、とボウルが落ちる。彼女はそれに反応するどころか、虚空を見つめたまま、必死に手を伸ばして湯煎の鍋を探り当てた。
焦点の合わない目。
絵美は直感で理解してしまった。見えていないのだ。姉の目は、光を失いかけている様子が伺えた。
「嘘……」
幻影の香織は、湯煎にかけているチョコレートの温度を確かめようと指を入れた。だが、その指先は誤って熱湯を張った下の鍋の縁に直接触れてしまう。
「ジュッ」と肉が焼ける嫌な音がした。
だが、香織は悲鳴を上げなかった。ただ、ギュッと唇を噛み締め、真っ赤に焼け爛れた指で、無理やりスパチュラを握り直したのだ。
『……絵美』
香織の口から、掠れた声がこぼれる。
『絵美……ごめんね。ごめんね……っ』
香織の目から、大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちた。
それは頬を伝い、顎から滴り落ちて、練り上げている途中のチョコレートのボウルの中に、何度も何度も落ちていった。
香織は、出来上がったチョコレートの端を指で掬い、自分の口に入れた。
しかし、彼女の表情には何の感情も浮かばない。彼女は視力と同時に、ショコラティエの命である味覚すらも完全に失っていたのだ。
味が分からない。テンパリングの状態も見えない。
それでも彼女は、火傷だらけの手で、妹の二十歳の誕生日のために、不格好なチョコレートを必死に丸め、あの美しい小箱に詰め込んでいた。
なぜ、あんな不味いチョコを作ったのか。
なぜ、異常に塩辛かったのか。
それは悪意などではなかった。
突然の重病で視力と味覚を奪われた暗闇の中で、愛する妹のために作ろうとした最後のプレゼントだった。そしてあの塩辛さは、彼女が流した絶望と、深い愛情の涙の味だったのだ。
才能にあふれた二十歳の妹の未来を、全盲で味覚を失った自分の介護で縛り付けてはならない。
だから香織は、自分を憎ませるためにわざと悪役を演じ、絵美を突き放した。
すべては、妹を自由な世界へ逃がすためだった。
「……あ、あぁ……」
幻影が弾け飛び、現実のアパートの部屋に戻ってきた絵美の喉から、ひゅっと空気が漏れる音がした。
絵美は床にへたり込み、ガタガタと全身を震わせていた。
手の中にある「黒い石」が、恐ろしいほどの重量と熱を持って感じられた。
「嘘よ……そんなの、嘘だ。だって、あの人は私を……!」
「嘘かどうか、最後まで自分で確かめなよ」
ノコリが、冷酷なまでに静かな声で言った。
「その箱の中。本当にそれだけ?」
絵美は弾かれたように、空になったジュエリーボックスを見つめた。
震える指で、底に敷かれたベルベットの布の端をつまみ、無理やり引き剥がす。
そこには、四つ折りにされた小さな便箋が隠されていた。
絵美はそれを開き、息を呑んだ。
ミミズが這ったような、枠を大きくはみ出した、ぐちゃぐちゃの文字。目が見えない人間が、手の感覚だけで必死に書いたであろう、震える筆跡。
『絵美へ ごめんなさい。』
たったそれだけの言葉だった。
その紙の表面には、乾いて変色した涙の染みが、いくつも斑点になって残っていた。
「ああ……あああ……っ!」
絵美の口から、獣のような嗚咽が漏れた。
最悪の悪意だと思い込んでいたものは、自分を守るための、痛切な自己犠牲だった。
姉は、たった一人で暗闇の世界に落ちていきながら、妹の幸せだけを祈ってこの手紙を隠し、十二年間、妹に嫌われたままひっそりと生きて、そして死んだのだ。
そして、絵美は思い出す。
あの日、自分が姉に叩きつけた最後の言葉を。
『最低よ。お姉ちゃんなんて、死んでしまえばいい』
自分が吐き捨てたその呪いの言葉を、姉はどんな気持ちで受け止めたのだろう。
誰にも頼れず、光も味もない世界で、たった一人の妹からの「死ね」という言葉を胸に抱きしめたまま、この硬くなったチョコレートと一緒に、十二年間、どんな孤独の中で息絶えたのだろう。
「ごめんなさい……っ! お姉ちゃん、ごめんなさい、ごめんなさい……っ!」
絵美は、石のように硬くなったチョコレートと手紙を胸に掻き抱き、床に突っ伏して泣き叫んだ。
もう謝ることはできない。姉はこの世のどこにもいない。永遠に取り消せない後悔が、鋭い刃となって絵美の心をズタズタに切り裂いていた。
ノコリは、床で泣き崩れる絵美を、ただ静かに見下ろしていた。
「……残酷だったかな」
ノコリは誰にともなく呟く。
「でも、見ないふりしてゴミ箱に捨てる方が、よっぽど残酷だよね」
しばらくして、絵美の嗚咽がしゃくり上げるような泣き声に変わった頃。
ノコリはしゃがみ込み、絵美の顔を覗き込んだ。
「ねえ。……それ、どうするの? ゴミ袋、そこにあるけど」
絵美は、真っ赤に腫らした目を上げ、胸に抱え込んだ黒い石をきつく握りしめた。
「……捨てない。捨てるわけないじゃない……っ」
絵美の声は枯れ果てていたが、その響きには確かな意思があった。
「こんなの、一生食べることはできないけど……私が、一生持っていく。お姉ちゃんが私を愛してくれた証拠だもの。私が一生かけて背負う、罰だもの……!」
それを持ち続ければ、絵美は一生、姉への罪悪感と後悔に苛まれるだろう。
姉を恨むことで得られていた、被害者としての安っぽい心の平穏はもう二度と手に入らない。
それでも彼女は、真実の痛みを受け入れることを選んだのだ。
絵美は、石になったチョコレートを愛おしそうに頬にすり寄せると、そっと元の小箱の中に戻し、手紙と一緒に自室の最も高い棚の上に、祈るように飾った。
ノコリはそれを見届けると、小さく口元をゆるめた。
「……そっか。あんたがそう決めたなら、それがこの『残飯』の正しい最後だよ」
ノコリがふわりと立ち上がると、窓から吹き込んだ秋風が部屋の中を駆け抜け、次に絵美が振り返った時、そこにはもう誰の姿もなかった。
夕暮れの街。
オレンジ色に染まる電柱の上で、ノコリは自前の古びた『日記帳』を開いていた。
膝の上でページをめくり、小さなペンを走らせる。
そこに記録するのは、人間の愚かさと、愛おしさの痕跡だ。
「……味覚を失って、火傷しながら作ったチョコレートかぁ」
ノコリはペンを止め、遠くの空を見つめた。
捨てられずに化石になった食べ物。そこに込められていたのは、憎しみではなく、大きすぎて不器用な自己犠牲の愛だった。
「本当に人間って、面倒くさい。素直に『助けて』って言えばいいのにさ」
呆れたように呟きながらも、ノコリの顔には、どこか優しげな微笑みが浮かんでいた。
ノコリは日記帳の最後の行に、『塩辛い涙と、永遠の後悔の味』と書き記し、パチンと表紙を閉じた。
「さてと。次はどんな『残飯』が、私を待ってるのかな」
残飯の女神は、夕闇が迫る街の喧騒の中へ、軽やかな足取りで溶けていった。




