第3話 初恋のオムライス
ガラガラと音をたてスライドドアが開くと、夜の冷気とともに鶏ガラと煮干しの匂いが混ざり合った店内へ、カツカツと硬いヒール音が踏み込んできた。
小田急線の線路沿いに佇む小さなラーメン屋『幸』。
時刻は夜の九時四分前。暖簾を下ろす準備をしていた店主の良夫は、入口に立ったその人影を見た瞬間、背筋をわずかに強張らせた。
「……いらっしゃいませ」
低く抑えた声で迎え入れる良夫の視線の先、カウンターの最前列に腰掛けたのは、三十前後の整った顔立ちの女性だった。質の良いスプリングコートを羽織り、髪を後ろで隙なく束ねている。爪は短く切り揃えられ、どこか調理場に立つ人間特有の凛とした緊張感を纏っていた。
彼女はこの一ヶ月間、毎週土曜日のこの時間になると必ず現れる。
「特製醤油、ひとつ」
「かしこまりました」
良夫は一度も彼女と目を合わせようとせず、黙々と麺カゴを振り、平ざるで湯を切った。澄んだ醤油スープに自家製の細ストレート麺を泳がせ、低温調理のチャーシュー、メンマ、九条ネギ、煮卵を丁寧に盛り付ける。
ドン、と湯気の立つ丼がカウンター越しに差し出された。完璧な一杯だった。少なくとも、町の中華屋やチェーン店では逆立ちしても出せない、手間暇の込められた仕上がりだった。
しかし、女性は箸を取ろうともしなかった。
丼の上に視線を落としたまま、氷のように冷ややかな声を落とす。
「ネギの切り方が不揃い。それに、スープの表面に余計な鶏油が浮きすぎてるわ。素材の誤魔化し。これで特製を名乗るなんて、職人としてのプライドがないんじゃない?」
「……申し訳ありません」
良夫は反論しなかった。ただ深く、深く頭を下げた。
女性はため息をひとつ吐くと、バッグから千円札をバタンと荒々しく卓上に叩きつけ、丼には一口も手をつけないまま、カツカツと音を立てて店を出て行った。
残されたのは、湯気を上げながら伸びていく、誰も食べなかった特製醤油ラーメン。
「——相変わらず、嫌な食べ残し方だねえ」
静まり返った店内に、場違いなほど軽やかな少女の声が響いた。
カウンターの一番端、いつの間にか座っていた少女
——ノコリが、小皿に載せた煮卵の端切れを箸でつまみながら、クスクスと笑っていた。
見た目は十七、八のどこにでもいる少女に見える。山吹色と若草色のリボンをあしらった不思議なフリルドレスを着ていなければ、の話だが。常連客でもなければ近所の学生でもない。だが良夫は、彼女がいつからそこにいて、なぜ勝手に厨房へ入り込んでいるのかを問いただす気力すら湧かなかった。
ノコリは人間ではない。人間の「残された食べ物」に宿る記憶や感情を漂う超越的な存在
——『残飯の女神』などと名乗っていたが、良夫にとってはどうでもよかった。
「ねえ店主さん。あの女の人、あんたのラーメンの味なんて最初から見てないよ」
ノコリは呆れたように肩をすくめ、丼を指差した。
「それ、本当に捨てるの? もったいないって言葉で済ませるつもり?」
「……いいんだ。俺が悪いんだから」
「ふーん。『俺が悪い』ねえ」
ノコリは口角をキュッと上げると、意地悪そうに目を細めた。
「でもさ、あんたの手癖は誤魔化せないよ。ラーメン屋のくせに、スープの仕込みでコンソメみたいにアクを徹底的に引いて、鶏の血抜きもフレンチの技法を使ってるでしょ。丼の温め方も洋食屋のスープ皿と同じ。……あの女の人も、それと同じ匂いがしたよ」
良夫の体が、ピタリと止まった。
ノコリはカウンターを滑るように移動すると、誰も手に取らなかったラーメンの丼のふちに、白い指先をそっと触れさせた。
「残した理由、見せてもらうよ」
ノコリが囁くと同時に、触れた指先から淡い光の粒子が弾けた。
——魔法『残響』。
食べ物に強く刻まれた、人間の記憶と感情の断片を読み解く能力。ノコリの瞳の奥で、スープの湯気が歪み、十年前の光景が色鮮やかに立ち上がっていく。
——「美味しい! ねぇ良夫、すっごく美味しいよこれ!」
十年前の夕暮れ。駅前の古い洋食屋のテーブル席。
セーラー服を着た少女
——若き日の春奈が、とろとろの半熟卵に包まれたオムライスを一口食べて、目を輝かせていた。向かいに座る学ラン姿の良夫も、照れくさそうに笑いながら自分の分のオムライスを頬張っている。
二人は放課後、アルバイトで必死に貯めた小遣いを出し合い、毎週土曜日にこの洋食屋に通っていた。
「私、絶対に調理の短大に行って、シェフになる! それでね、いつか二人で、こんな風に食べた人を幸せにできる洋食屋さんを建てようね!」
「ああ……約束だ。俺も最高のシェフになって、お前と一緒に店を持つよ」
二人は夢を語り合い、未来を信じて疑わなかった。
だが、画面は冷酷に切り替わる。
高校を卒業し、厳しい調理師専門学校へ進んだ良夫。そこにあったのは、圧倒的な才能の壁と、現実の厳しさだった。仕込みの失敗、先輩からの罵倒、膨らむ学費と家賃の圧迫。バイトを掛け持ちし、眠気と絶望の中で包丁を握る日々。
一方、大学へ進学し、順調に夢への階段を上っていく春奈。
スマホの画面に表示される『春奈』からの着信。良夫は震える指で、それを拒否した。自分の不甲斐なさと惨めさに耐えかね、彼は春奈の前から姿を消した。夢を捨て、洋食の道を諦め、逃げるように辿り着いたのが、この小さなラーメン屋だった。
「……なるほどね」
ノコリは指を離し、息を吐いた。
「あんた、逃げたんだ。夢からも、あの女の人からも」
良夫は拳を強く握り締め、潰れたような声で漏らした。
「……あいつの顔を忘れたことなんて、一日もなかった。一ヶ月前、最初に店に来たときから分かってたよ。春奈だってことも、何のために来てるのかも……」
「春奈さんは今、都内の有名洋食店で働いてるよ」
ノコリは静かに告げた。
「でもね、あの子の作るオムライス、ちっとも幸せそうじゃなかった。毎日怒鳴られて、売上の数字ばかり気にさせられて、昔二人で食べたあのオムライスの味なんて、どこにもなくなってた」
だから春奈はここへ来るのだ。
二人の約束を破り、勝手に夢を諦めて小さなラーメン屋に収まっている良夫を許せなくて。自分だけが苦しい思いをして夢にしがみついている現実が悔しくて。良夫のラーメンに難癖をつけ、一口も食べずに捨てることで、「お前の選んだ道は間違っている」と突きつけようとしていたのだ。
「あんたはどうするの?」
ノコリが尋ねる。
「来週もまた、あの残飯を作るの?」
良夫は答えなかった。ただ、冷めきったスープを静かに見つめていた。
翌週の土曜日。
店内には重苦しい沈黙が満ちていた。カウンターの端には、いつものようにノコリがちょこんと腰掛け、お椀に注いだお茶を啜っている。
九時少し前。ガラガラと引き戸が開き、春奈が入ってきた。
「特製醤油」
いつもの冷ややかな声。良夫は無言で麺を茹で、丼を仕上げた。
だが、この日の良夫の手元はわずかに震えていた。
丼が春奈の前に置かれる。いつもと同じ、完璧な仕上がりのラーメン。
春奈は箸を持たず、冷酷な口を開こうとした。
「スープの表面に——」
「……春奈」
良夫が、初めて彼女の名前を呼んだ。
春奈の言葉が途切れる。息を飲み、目を見開く。
「もう……やめろよ。お前が俺を憎んでるのは分かってる。俺が約束を破って、夢から逃げ出して、こんなラーメン屋やってるのが許せないのも分かってる! でも……もう来ないでくれ」
良夫の声には、情けないほどの哀願が混ざっていた。
その言葉が、春奈の中で張り詰めていた糸を断ち切った。
「——なによそれ!」
春奈が立ち上がり、甲高い声を張り上げた。整っていた顔が、激しい感情で歪む。
「逃げたのはあんたでしょ!? 私はあの日から一日だって休まず、あんたとの約束のために必死で包丁を握ってきたのよ! なのにあんたは……なんでこんな狭くて汚いラーメン屋で『幸』なんて名前つけて満足してるのよ!? どうしてオムライスじゃないの!? どうして私を置いて逃げたのよ!!」
春奈の叫びが店内に響き渡る。10年分の屈辱、孤独、嫉妬、そして執着が、濁流となって良夫に浴びせられた。
良夫は言い返せなかった。春奈の言う通りだったからだ。自分は挫折し、逃げ出し、妥協してここにいる。
だが、その時だった。
「——申し訳ありませんっ!」
厨房の奥の暖簾をくぐって飛び出してきた女性が、勢いよく床に膝をついた。
良夫の妻、恵子だった。買い出し用の大きな袋を抱えたまま、彼女は春奈の足元で、額を床に擦り付けるようにして土下座をした。
「申し訳ありません……っ! 夫が、夫が過去にあなたを傷つけたのなら、私が代わりに謝ります! だから……どうか夫を許してあげてください……!」
「え……?」
春奈は絶句した。恵子の買い物袋から、ネギやもやしがゴロゴロと床に転がり出る。その泥臭く、不恰好で、生々しいまでの「生活」の匂い。
次の瞬間、店の奥の住居スペースから、甲高い泣き声が響いた。
オギャア、オギャア、と元気に泣き叫ぶ赤ん坊の声。
良夫の顔がサッと変わり、慌てて恵子の肩を抱き起した。「恵子、いいんだ、立つんだ! 拓海が起きちゃったろ、見てきてやってくれ!」
「でも、あなた……」
「いいから! 俺がちゃんと話すから!」
良夫の手が、優しく妻の背中を叩く。その眼差しには、間違いなく家族への深い愛情と、守るべきものがある人間の強さが宿っていた。
春奈は、その光景をぼう然と見つめていた。
赤ん坊の泣き声と、夫婦の生々しいやり取り。
それが、春奈の頭を冷酷に殴りつけた。
(ああ……そうか)
春奈の全身から、すうっと血の気が引いていく。
良夫は、夢を捨てた。自分との約束も捨てた。
だがその代わりに、この男は手に入れていたのだ。自分を心の底から愛してくれる妻と、新しい命と、ささやかだが温かい「幸せ(幸)」を。
それに引き換え、自分はどうだ?
夢にしがみつき、高級洋食店のシェフという肩書きを手に入れたものの、待っていたのは孤独な部屋と過酷な労働だけ。誰からも愛されず、誰のことも愛せず、過去の男の店に通っては意地悪なクレームをつけて留飲を下げるだけの……惨めで、醜いクレーマー。
「私……私、何やってるんだろう……」
自分の放った叫びが、すべて惨めな刃となって自分自身に突き刺さる。
春奈の顔から急速に色が失われていった。
「春奈……」
良夫が振り返る。だが、その瞳に映っているのは「過去の恋人」ではなく、「困惑させられた客」への申し訳なさだった。
春奈は我に返り、ガタガタと震える手でバッグを掴むと、脱兎の勢いで店を飛び出した。
「あ、春奈!」
良夫は一瞬躊躇したが、エプロンを外すと春奈の後を追って通りへ走り出た。
夜の線路沿いの道。
街灯の乏しい暗がりの中、春奈は走るのを止め、肩を上下させて息を吐いていた。
追いついた良夫の足音が止まる。二人の間に、数メートルの距離があった。
良夫は春奈の細い背中を見つめた。
「すまない」と言いたかった。「頑張れ」と言いたかった。「あの頃は楽しかった」と笑いたかった。
だが、喉が固まったように、一言も言葉が出てこなかった。
どんな言葉をかけたところで、今の彼女を傷つけるだけだ。自分が何を言おうと、それは満たされた側からの不遜な同情にしかならない。かける言葉など、この世のどこにも存在しなかった。
良夫はただ、口を半開きのまま、街灯の下で無様に突っ立っていることしかできなかった。
春奈はゆっくりと振り返った。
良夫の顔を見つめ、彼が何も言えないでいる理由を察した。
彼女の瞳から、ポロポロと大きな涙がこぼれ落ちる。だが、彼女は声を出して泣かなかった。手袋をした手で乱暴に涙を拭うと、一度も微笑むことなく、良夫に背を向けた。
カツカツと、硬いヒール音が夜の闇に消えていく。
二度と戻らない青春の終わりを告げる音だった。
良夫が店に戻ると、店内は静まり返っていた。妻の恵子は奥で子供をあやしており、カウンターにはノコリだけが残っていた。
カウンターの上には、春奈が残していった特製醤油ラーメンが、完全に冷めきって麺を膨らませていた。
良夫は無言でカウンターの中に入ると、箸を取った。
「え、それ食べるの?」
ノコリが目を見開く。
「伸びきって、スープも油が固まってるよ。絶対まずいって」
「……俺が作ったんだ」
良夫は伸びた麺を無理やり口に押し込んだ。
冷えたスープは苦く、ギトギトとした油が舌にまとわりつく。まずかった。今まで食べたどんな食べ物よりも、不快で苦い味がした。
良夫の目から、ぽろりと涙がこぼれ落ち、丼の中に落ちた。
彼は妻に背を向け、声を殺して泣きながら、伸びきったラーメンをスープの一滴まで残さず飲み干した。
それが、彼が過去の夢を完全に殺し、今の「幸せ」を生きていくための代償だった。
ノコリはそれを黙って見届けると、自前の古びた『お弁当箱』を取り出した。厨房の端に残されていたチャーシューの切れ端と煮卵を丁寧に詰め、パチンと蓋を閉める。
「明日食べる分。残ったものは、貰っていくよ」
ノコリは誰にともなく呟くと、スライドドアを開けて夜の街へ姿を消した。
『幸』の屋根の上。
月明かりの下で、ノコリは膝を抱え、お弁当箱から煮卵をつまんで口に運んでいた。
「……ん。ちょっと味が濃いかな」
ノコリは空を見上げ、ふうと息を吐く。
「夢を叶えて不幸になる人と、夢を捨てて幸せになる人。……ねえ、残されたオムライスと、残されたラーメン、どっちが美味しかったんだろうね」
答えなどどこにもない。
人間はいつも何かを選び、何かを残し、その苦味を抱えて明日を生きていくのだ。
ノコリは懐から古びた日記帳を取り出すと、月光の下でページを開き、小さなペンで今日の出来事を書き留め始めた。忘れないために。人間が残してしまった、愛おしくも愚かな感情の記録を。
「さてと。明日はどんな『残飯』があるのかな」
女神は意地悪く、けれど少しだけ寂しそうに口角を上げ、夜風の中へと溶けていった。




