第2話 父が作ったお弁当
秋の風が吹き抜ける昼休みの裏庭は、人気がなく静まり返っていた。
由香はコンクリートの水道の縁に腰掛け、膝の上に置いた巨大な弁当箱を見つめていた。蓋を開ける前から、ずしりとした重みが両手にのしかかってくる。
カチリと留め具を外し、力任せに蓋を開ける。
白いご飯が蓋の裏にまでびっしりと張り付き、その上には茶色い唐揚げ、焦げ目のついた巨大な卵焼き、タコさんウインナーが、これでもかと隙間なく詰め込まれていた。彩りのためのミニトマトやレタスが入る余地など一ミリもない。成人男性が力仕事の合間にかきこむような、暴力的なまでのボリュームだ。
由香は割り箸を割り、唐揚げを一つ口に運んだ。少ししょっぱいけれど、美味しい。
ご飯を二口、卵焼きを半分。そこまで食べたところで、箸がピタリと止まる。
「……ごめんなさい、お父さん」
由香は誰にともなく呟くと、足元に置いていたコンビニのレジ袋を広げた。そして、弁当箱を逆さに傾ける。
ドサリ、という鈍い音を立てて、半分以上残った手作りのおかずとご飯が、無惨にもポリ袋の底へ落ちていった。由香は慣れた手つきで袋の口を固く縛り、見えないようにスクールバッグの奥底へ押し込む。
毎日、毎日、この繰り返しだった。
「へえ。食べるために作られた命を、自分の罪悪感を軽くするためだけに毎日捨ててるんだ。人間って本当に傲慢だね」
頭上から降ってきた唐突な声に、由香は肩を跳ね上げた。
振り返ると、裏庭を囲う高いフェンスの上に、ひとりの少女がしゃがみ込んでいる。
白いパフスリーブに、黄色や緑のフリルが幾重にも重なった色鮮やかなドレス。背中には大きなリボンが結ばれ、髪には麦の穂のような飾りが揺れている。どこからどう見ても、この薄暗い裏庭には不釣り合いな存在だった。
「だ、誰!? なんでフェンスの上に……」
「私はノコリ。そんなことはどうでもいいじゃない」
少女はふわりと、重力を無視したような身軽さで地面に降り立った。そして、由香のスクールバッグを冷ややかな瞳で見下ろす。
「毎日毎日、律儀なこと。お腹がいっぱいなら、最初から作らせなければいいのに」
「……お父さん、夜もアルバイトしてて、いつも疲れてるの。だから、お弁当の量の加減がバカになってるだけで……。残したなんて言ったら悲しむから、食べてるフリをしてるだけだもん!」
由香は痛いところを突かれた反発心から、早口で言い訳を並べた。
由香の家は母子家庭ならぬ父子家庭で、決して裕福ではなかった。父の幸次は昼間の運送業に加え、夜は清掃のアルバイトまでして家計を支えている。
「私、本当は大学に行きたかった。でも、これ以上お父さんに無理させられない。だから、明日の進路希望調査も『就職』って書いて出すの。私が働けば、お父さんも夜のバイトをやめられるから」
「ふうん。自分の進学を諦めて親を休ませる。そして、作ってくれたご飯は捨てて『美味しかったよ』と嘘をつく。綺麗な自己犠牲だね」
ノコリは嘲笑うように目を細めると、ずいっと由香に近づき、バッグの中のポリ袋にそっと指先を触れた。
「……なるほど。酷い匂い」
「匂いって……昨日のお弁当箱はちゃんと洗ったよ!」
「残飯の匂いじゃない。ここにくっついてる、重ったるくて息苦しい感情の匂いだよ。こんなドロドロしたもん毎日作って、毎日捨てて。馬鹿みたい」
ノコリは由香に背を向けると、ひらひらと手を振りながらフェンスの向こう側へと歩き出す。
「好きにすれば? 嘘で塗り固めた優しさが、いつか全部を壊すだけだから」
その姿は、木漏れ日の中に溶けるように、ふっと消えてしまった。
その日の夜。
狭いアパートの食卓で、由香は息を潜めていた。
向かいに座る父・幸次の手には、由香の部屋の机に置きっぱなしになっていた進路希望調査のプリントが握られている。第一希望の欄には、くっきりとした字で『就職』と書かれていた。
「由香……就職ってなんだ! お前、大学に行きたいって言ってただろ!」
幸次の声は震えていた。日焼けした顔には深いシワが刻まれ、目の下には消えない隈が張り付いている。
「気が変わったの。早く働いて、自分でお金稼ぎたいなって。もう十分だから」
由香は精一杯の笑顔を作って言った。これでお父さんは楽になる。夜のバイトをやめて、一緒に夕飯を食べられるようになる。そう信じて。
しかし、幸次はプリントを握りしめたまま、ギリッと奥歯を噛み締めた。
「……俺のせいか」
「え?」
「俺が不甲斐ないから、お前に気を遣わせてるのか。俺の稼ぎが悪いから、お前に夢を諦めさせるのか……!」
幸次の目から、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「ごめんな、由香……。父親なのに、こんな……っ、ごめんな……」
テーブルに突っ伏し、肩を震わせて泣き崩れる父の姿に、由香は頭の中が真っ白になった。
違う。私はただ、お父さんに笑ってほしかっただけなのに。無理してほしくなかっただけなのに。私のついた「優しい嘘」が、お父さんのプライドを、父親としての尊厳を、根っこからへし折ってしまった。
翌朝、由香が目を覚ますと、すでに幸次の姿はなかった。
いつもなら台所に置かれているはずの、あの巨大な弁当箱もない。テーブルの上には、千円札が一枚と『昼飯買ってくれ』という殴り書きのメモだけが残されていた。
由香は無人の台所に立ち尽くした。
お父さんの心が、完全に折れてしまった。私を大学に行かせるために夜勤までしていたのに、その目標を私自身がへし折ってしまったから。このまま私が就職を選べば、お父さんは一生「娘に苦労をかけた」という十字架を背負って生きていく。でも、進学を選べば、お父さんは過労死するまで働き続けるだろう。
どちらを選んでも、もう元には戻れない。
「全部一人で抱え込もうとするから、溢れてこぼれるんだよ」
静かな台所に、鈴を転がすような声が響いた。
振り返ると、昨日の色鮮やかなドレスを着た少女、ノコリがシンクの縁に腰掛けていた。
ノコリは、昨日の夜、由香が捨てずに冷蔵庫の奥に隠し込んでいた『多すぎる弁当の残骸』をじっと見つめている。そして、そこにそっと指先を触れた。
「見せてあげる。あんたが『多すぎる』って切り捨てたものの正体を」
ノコリが触れた瞬間、淡く黄金色に光るシャボン玉のような球体が、ふわりと空中に浮かび上がった。
球体の中で、映像が再生される。
時刻は深夜の四時。夜の清掃バイトを終え、アパートに帰ってきたばかりの幸次だ。作業着のまま、立っているのもやっとの様子で台所に立っている。
ガスコンロの前で、油の跳ねる音がする。幸次はフラフラと体を揺らしながら、必死に唐揚げを揚げていた。
その視線の先には、由香の部屋からこっそり持ち出してきたのであろう、大学のパンフレットが置かれている。
『もう少しだ。あと一年、俺が頑張れば……』
幸次はひび割れた手で、巨大な弁当箱に、隙間を埋めるようにぎゅうぎゅうとおかずを詰め込んでいく。
『由香、お前は何も心配しないで、いっぱい食べて、大学に行け。俺が絶対に行かせてやるから……』
それは、単なる「量の加減間違い」などではなかった。
一緒に夕飯を食べられない幸次にとって、あの暴力的なまでに巨大な弁当を作ることだけが、「父親としての愛情と責任」を証明する唯一の手段だったのだ。
自分の睡眠時間と命を削ってでも、娘の明日を作ろうとする狂気じみた愛情。
映像がふっと弾けて消える。
由香はその場にへたり込み、両手で顔を覆って泣きじゃくった。
私は、これを毎日捨てていたのだ。父の命を削って作られた愛情を、自分の罪悪感から逃げるために、見えないゴミ箱へ捨てていた。
ノコリはふう、と呆れたようなため息をつくと、どこからともなく、可愛らしい花柄の小さな『お弁当箱』を取り出した。
「あのさ。お弁当箱って、本当は何のためにあるか知ってる?」
由香が涙で潤んだ目を向けると、ノコリは自分の弁当箱の蓋をトン、と指先で叩いた。
「『明日のために残して、持っていく』ためのものなんだよ。食べきれなかったら残して、明日また誰かと食べる。それが弁当箱の意味。でもあんたは、お父さんの気持ちを詰めたままゴミ箱に捨てて、無かったことにしてた」
ノコリの言葉は鋭く、容赦がない。
「お父さんに無理してほしくない? 違うね。あんたは、お父さんの『重い愛情』を受け止める覚悟がなくて、逃げるために進学を諦めただけだ。それは気遣いなんかじゃない。あんたは、お父さんの明日を捨てたんだよ」
由香は唇を強く噛み締めた。
口の中を血の味が広がる。ノコリの言う通りだ。私は、父が全てを犠牲にして私に与えようとするその「重さ」から逃げたかった。でも、父からの愛を拒絶することは、父の生きる意味を奪うことと同じだった。
「……どうすればいいの。お父さん、もうお弁当作ってくれない……」
「さあ? 捨てるのも残すのも、人間の勝手でしょ。ただ、」
ノコリはふっと口角を上げ、由香の目を見据えた。
「全部食べきれないなら、どうするべきか。それくらい、自分で考えなよ」
その日の夕方。
作業着に着替え、夜勤へ向かうため玄関で靴を履こうとしていた幸次の背中に、由香は声をかけた。
「お父さん、待って」
幸次が力なく振り返る。その顔は、たった一日で何歳も老け込んだように見えた。
由香は、真っ白な新しい進路希望調査のプリントを幸次に差し出した。
第一希望の欄には、『大学進学』と書かれている。
「由香、これ……」
「私、大学に行く」
由香は、真っ直ぐに父の目を見て言った。
「でも、お父さんの夜のバイトは今日で辞めて。これ以上、お父さん一人が全部背負うのは嫌だ」
「何言ってんだ。俺が働かなきゃ、学費なんて……」
「奨学金借りる。私も高校終わったらバイトするし、大学入ってからも働く。足りない分は、二人で分担して稼ぐの」
幸次は目を丸くし、言葉を失っていた。
「お父さんのお弁当、いつも量が多すぎて、私一人じゃ全然食べきれなかったよ」
由香の声が震える。涙が込み上げてくるのを必死に堪えながら、由香は続けた。
「だから、半分こしよ。学費も、生活費も、お弁当も。お父さん一人で、全部私のために詰め込まないで。私にも、お父さんの明日を背負わせてよ」
幸次の目から、再びボロボロと涙がこぼれ落ちた。
今度の涙は、昨日とは違う。張り詰めていた糸が切れ、どうしようもない安堵感に崩れ落ちるような涙だった。
「……生意気、言うなよ」
幸次は腕で乱暴に顔を拭うと、子供のように泣きじゃくった。由香もたまらず、父の背中に抱きついて声を上げて泣いた。
狭いアパートの玄関で、不器用な親子のすれ違った愛情が、ようやく一つの場所に重なり合った。
泣きはらした顔で、由香は台所に向かった。
冷蔵庫から、昨日捨てられずに取っておいた『多すぎる弁当』を取り出し、電子レンジで温める。
食卓に弁当箱を置き、二膳の割り箸を並べた。
「夜勤、今日は電話して休むって言ったから……」
気まずそうに食卓についた幸次に、由香は箸を差し出した。
「一緒に食べよ」
一つの巨大な弁当箱をつつき合う。
唐揚げは少し硬くなっていた、卵焼きは甘すぎた。けれど、由香が今まで一人で隠れて食べていた時よりも、ずっとずっと美味しかった。
「……由香、これ、ちょっとしょっぱくないか?」
「うん。お父さん、味見してないでしょ」
二人は顔を見合わせ、小さく笑い合った。
多すぎる愛情は、分け合えば丁度いい温かさになる。由香は、空になっていく弁当箱の底を見つめながら、心からそう思った。
数日後。
昼休みの学校の教室。由香の机の上には、以前の半分ほどのサイズになった、普通のお弁当箱が置かれていた。
中には少し焦げた卵焼きと、冷凍のハンバーグ。相変わらず彩りは茶色いけれど、一人で残さず食べきれる丁度いい量だ。
「由香、今日のお弁当ちっちゃくない?」
「うん。うちのお父さん、やっと加減を覚えたみたい」
友人のからかいに、由香は嬉しそうに微笑みながら卵焼きを頬張った。
窓の外、木漏れ日が揺れる裏庭の木の枝に座り、ノコリはその光景を退屈そうに見下ろしていた。
「愛情だって、多すぎれば腐るんだよ。人間って、本当に加減を知らない生き物だね」
彼女は手元の日記帳に短いペンを走らせると、パタンと音を立てて本を閉じた。
「ま、足りないくらいが、明日も一緒に食べようって思えるから丁度いいのかもね」
残飯の女神は、少しだけ優しい響きでそう呟くと、秋風に舞う木の葉と共に、ふっと姿を消した




