第1話 思い出のプリン
スマホの画面の中で、そのフルーツタルトは宝石のように輝いていた。
色鮮やかなイチゴとブルーベリー、艶やかなカスタードクリーム。加奈はデスクライトの角度を微調整し、背景にドライフラワーを添えて、シャッターを何度も切った。三十枚近く撮った中から最も「映える」一枚を選び、フィルターをかけて色味を鮮やかにする。
『今日はイチゴのタルトを焼いてみました♡ カスタードから手作りするの、ちょっと大変だったけど大満足! #手作りスイーツ #おうちカフェ #休日の過ごし方』
テキストを入力し、投稿ボタンを押す。
数秒もしないうちに、画面の右下に赤いハートマークが次々とポップアップし始めた。
「……よしっ」
加奈は小さくガッツポーズをした。学校のグループLINEでも、すぐに通知が鳴る。『加奈やば! お店のみたい!』『今度食べさせてー!』という友人たちからの称賛の嵐。加奈の胸は、甘い優越感で満たされていく。
ひとしきりコメントに返信を終えると、加奈はスマホを置き、机の上のタルトを無表情で見下ろした。
デパ地下の高級洋菓子店で、千五百円も払って買ってきたタルトだ。
加奈は無造作に皿を持ち上げると、部屋の隅にあるゴミ箱に被せたポリ袋の中へ、タルトをそのまま傾けた。
べちゃり、とクリームが潰れる鈍い音が響く。フルーツが転がり、サクサクだったはずのタルト生地が、他のゴミにまみれて無惨に崩れた。
「……食べる予定もないのに買って、人に見せるためだけに捨てる。人間って本当に器用なことするね」
背後から唐突に聞こえた声に、加奈は心臓が止まるかと思った。
「ひっ……!」
振り返ると、部屋の窓辺にひとりの少女が腰掛けていた。年は加奈と同じ高校生くらいに見える。どこにでもいそうな格好をしているのに、窓は閉まっているというのに、少し長めの髪の毛先だけが微細に、生き物のように揺れていた。
何よりも目を引いたのは、その瞳だ。底知れない深い色をした目が、加奈の顔ではなく、ゴミ箱の底で潰れたタルトを真っ直ぐに射抜いている。
「あ、あんた誰!? どっから入ったの!」
「私はノコリ。まあ、そんなことはどうでもいいじゃない」
ノコリと名乗った少女は、ふわりと床に降り立つと、ゴミ箱を覗き込んで呆れたように息を吐いた。
「パティシエが徹夜で生地を仕込んで、一番美味しい状態で食べてもらえるように計算して組み立てたケーキが、いいねの数を稼ぐための小道具ですか。見栄のための料理。私が一番嫌いなやつだ」
「な、なに言ってるの……親、呼ぶよ!」
「呼べば? 『デパートのケーキを自分で作ったと嘘をついて、写真を撮って捨ててました』って、お母さんに説明できるならね」
加奈は言葉に詰まった。図星を突かれ、顔から火が出るほど恥ずかしかった。と同時に、言い知れぬ罪悪感がチクチクと胸を刺す。
その時だった。ベッドの上に放り投げていたスマホが、ブブブブッ、と異常な連続振動を始めた。
「え……?」
加奈がスマホを手に取ると、SNSの通知欄が濁流のように更新されていた。ただし、先ほどまでの好意的なコメントではない。
『これ、駅前のデパートに入ってるパティセブンの春限定タルトじゃん』
『本当だ、ケーキの下に敷いてある銀色の厚紙、お店のやつwww』
『手作りとか嘘乙』
『てか、前日の投稿のクッキーも市販品じゃね?』
血の気が引く音が、自分でも聞こえた。
炎上だ。見ず知らずのアカウントから、次々と嘲笑と非難のコメントが殺到していく。学校の友人たちとのグループLINEも、『ねえ、あれ買ってきたやつなの?』『手作りって嘘だったの? やばくない?』というメッセージで溢れ返っていた。
手が震え、スマホを取り落とす。築き上げてきた虚構の自分が、音を立てて崩れていく。
「あらら、随分と賑やかだね」
ノコリが薄く笑った。同情など微塵もない、少し意地悪な響きだった。
「嘘がバレるのが怖いなら、今からそのゴミ箱のタルト、残さず全部食べれば? 自分で作ったって言い張るなら、食べられるでしょ」
「む、無理だよ……!」
加奈は床に座り込み、両手で顔を覆った。
「食べられない……こんなの、私が作ったんじゃないもん……全部、あいつらのせいだ……!」
「あいつら?」
「数日前、初めて一人でプリンを作ったの」
加奈は嗚咽を漏らしながら、ポツポツと話し始めた。
「一生懸命作ったのに、カラメルは焦げちゃったし、形も崩れちゃって。でも嬉しくて写真載せたら、学校の友達に『形きもい』『失敗作じゃん』って笑われたの。いいねも、たった一個しかつかなくて……。それが悔しくて、見返してやりたくて……」
だから、デパ地下で美しいスイーツを買ってきた。自分が作ったことにして投稿したら、みんなが手のひらを返して褒めちぎってくれた。それが麻薬のように気持ちよかったのだ。
しかし、自分で作ったわけではないケーキを食べることはできなかった。一口でも食べてしまえば、「自分には作れない」という惨めな現実を、体内に取り込むような気がして。だから、見栄の証拠を隠滅するように、毎回捨てていたのだ。
「なるほどね。くだらない」
ノコリは冷たく言い放つと、ゴミ箱の中にズボッと手を突っ込んだ。
「ちょっと、何してるの! 汚い!」
「見せてもらうよ。あなたが最初に残した、本当の理由を」
ノコリの手には、ゴミ箱の底に数日間眠っていた、プラスチックのプリン容器が握られていた。底には焦げたカラメルの跡がこびりついている。
ノコリがその容器に触れた瞬間、加奈の視界がぐにゃりと歪んだ。
甘ったるいバニラと、少し焦げた砂糖の匂いが部屋に充満する。
——映像が、加奈の脳裏に流れ込んできた。
『お母さん、焦げちゃう!』
『大丈夫、これくらいが美味しいのよ。加奈、牛乳かき混ぜててくれる?』
小さな頃の記憶だ。台所に立つ母の横で、踏み台に乗った幼い加奈が、一生懸命にボウルをかき混ぜている。出来上がったプリンは少し不格好だったけれど、二人で笑い合いながら食べた。世界で一番美味しいプリンだった。
映像が切り替わる。数日前の夜。
高校生になった加奈が、一人で台所に立っている。スマホでレシピを見ながら、火加減に悪戦苦闘している。
『お母さんみたいに、上手くできない……』
指先を少し火傷しながら、それでも加奈は、あの日の母との思い出を再現しようと、必死に卵と牛乳を混ぜ合わせていた。
ふっと、映像が途切れる。
加奈は息を呑み、畳み掛けるように流れ込んできた感情の余韻に呆然とした。
「魔法……?」
「残響。残された食べ物に刻まれた、人間の記憶だよ」
ノコリはプリンの容器をゴミ箱に戻し、加奈を真っ直ぐに見据えた。
「あのプリン、誰に一番見てほしかったの? 友達に見せびらかすために作ったの? 違うでしょ」
加奈はハッとした。
そうだ。私は、昔お母さんと作ったあの味を、もう一度作ってみたかっただけだ。
形は悪かったけれど、味は確かにお母さんのプリンに似ていて、嬉しかったのに。
「人間って、本当に愚かだよね」
ノコリの言葉は辛辣だったが、なぜかその声には不思議な静けさがあった。
「一番大切な言葉がすぐそばにあるのに、遠くの知らない誰かの歓声ばかり欲しがるんだから。……あなた、最初に付いたたった一つの『いいね』、誰が押したかちゃんと見たの?」
加奈は震える手でスマホを拾い上げた。
通知欄は相変わらず炎上のコメントで埋め尽くされている。それを無視して、自分のプロフィールの最下部、数日前に投稿したあの「不格好なプリン」の写真を開く。
ハートマークの横についた数字は「1」。
誰が押したのか、タップして確認する。
アカウント名『Miyuki』。
見間違えるはずがない。母親のアカウントだ。
コメント欄には、たった一行、未読のまま放置されていたメッセージがあった。
『形はちょっと崩れてるけど、すごく美味しそう! 昔一緒に作ったの、覚えててくれたんだね。また一緒に食べたいな』
「あ……ああ……」
ポロポロと、加奈の目から涙が溢れ出した。
友達に笑われたことで頭がいっぱいになり、見落としていた。私が本当に欲しかった「承認」は、最初からここにあったのに。一番認めてほしかった人は、私の不格好なプリンを、最初から笑わずに受け止めてくれていたのに。
何千という「いいね」や、羨望のコメントなんかより、このたった一つの言葉の方が、どれほど温かく、どれほど価値があったことか。
「……それ、本当に捨てるの?」
ノコリが、加奈の手元にあるスマホを指して言った。
加奈は袖で乱暴に涙を拭うと、スマホの画面に向き合った。炎上している最新の投稿のコメント欄を開き、震える指でフリック入力する。
『全部嘘でした。見栄を張ってごめんなさい』
送信ボタンを押す。そして間髪入れずに設定画面を開き、「アカウントを削除する」をタップした。
画面が切り替わり、SNSのアプリが初期画面に戻る。見栄で塗り固められた虚構の私が、この世界から消え去った瞬間だった。
「これでいい。もう、いらない」
加奈は立ち上がると、タルトが捨てられたゴミ袋の口を固く縛った。
「ケーキ屋さんのパティシエさんには、心の中で謝る。二度と、食べ物をこんなことのために買わない」
「そう。なら、私はもう行くよ」
ノコリは窓枠に立ち上がり、夜風に髪を揺らした。
「……ねえ」
加奈が声をかけると、ノコリは肩越しに振り返った。
「私、もう一回プリン作る。今度は、絶対に捨てない」
「好きにすれば。人間が何を作るか、何を食べるかは、人間の自由だからね」
ノコリはふっと口角を上げると、そのまま夜の闇の中へ溶けるように消えていった。
二時間後。
玄関のドアが開く音がして、パートを終えた母が帰ってきた。
「ただいまー。ああ、疲れた」
「お帰り、お母さん」
加奈が台所から顔を出すと、母は少し驚いたように目を丸くした。
「加奈、どうしたの? 目、真っ赤じゃない」
「ううん、玉ねぎ切ってただけ。それより……」
加奈はダイニングテーブルに、二つの小皿を並べた。
乗っているのは、いびつな形をしたプリン。カラメルはまた少し焦げてしまって、お店で売っているような綺麗な黄金色ではない。
「これ……こないだの?」
「うん。もう一回、作ってみた。お母さんと、一緒に食べたくて」
母は目を瞬かせた後、ふわりと優しく微笑んだ。
「ありがとう。すっごく美味しそう」
二人は向かい合って座り、スプーンを入れる。
少し固めで、カラメルがほろ苦い、昔ながらの味。口に入れた瞬間、加奈の目からまたポロリと涙がこぼれ落ちた。けれど今度は、惨めな涙ではなかった。
「美味しいね」
「うん。すっごく、美味しい」
不格好な手作りプリンは、世界中のどんな高級スイーツよりも、加奈の心を満たしていた。
マンションの敷地を囲うブロック塀の上。
ノコリは夜空を見上げながら、ポツリと呟いた。
「ま、見栄えのいいケーキより、いびつなプリンの方が、少しだけマシな味がするかもね」
人間は愚かで、すぐに見栄を張り、本当に大切なものを捨てようとする。けれど時々、こうして自分の過ちに気づき、自分の手で選び直すことができる。
「次はどこに行こうかな。……お腹、空いちゃったな」
残飯の女神は、誰に聞かせるでもなくそう呟くと、静かな足取りで夜の街へと消えていった。




