プロローグ 残飯の女神ノコリ
深夜二時。
街灯のオレンジ色だけが均等に落ちる静かな住宅街。カラス除けの青いネットが掛けられたゴミ集積所の前に、その少女は立っていた。
季節も、時間帯も、場所も、すべてが彼女の姿と矛盾している。
ふんわりとした白いパフスリーブに、緑と黄色、そして鮮やかなオレンジ色が幾重にも重なったフリルスカート。足元はリボンのついた白いヒールブーツで、長く豊かな茶髪には、麦の穂をあしらったような飾りが揺れている。胸元と背中にはひときわ目を引く大きなリボンが結ばれ、まるで豊穣の祭りの舞台からそのまま抜け出してきたかのような、色鮮やかで可憐な出で立ちだった。
しかしここは、生ゴミの匂いが微かに漂う深夜のゴミ捨て場。
――残飯の女神ノコリは、足元の半透明なポリ袋をじっと見下ろしていた。
彼女は両手で大切そうに赤い漆塗りの椀を抱えながらそっと身をかがめ、一番上に放り投げられていた袋の結び目に指先を触れる。中には、半分以上手つかずのまま捨てられた幕の内弁当が入っていた。
途端に、ノコリの周囲に淡く黄金色に光るシャボン玉のような球体がいくつもふわりと浮かび上がった。
それは空中に展開され、鮮明な映像を映し出す。ネクタイを緩め、疲れ切った顔で薄暗いアパートに帰ってくる中年の男。深夜のコンビニで買った弁当を電子レンジで温め、一口だけ箸をつけたところで、糸が切れたようにソファへ倒れ込む姿。
「……残響」
ノコリは小さく呟いた。
残された食べ物にこびりついた、人間の感情や記憶の断片を読み取る力。男の弁当からは、ただひたすらに鈍い疲労感と孤独の味がした。
彼女は指を離し、今度はその隣にある別の袋に触れる。
リボンがかけられたままの、見事なホールのショートケーキ。箱ごと無造作に捨てられている。
新たに浮かび上がった光の球の中には、丁寧にセットされたテーブルとキャンドルが見えた。何度もスマートフォンを確認し、やがて化粧が崩れるほど泣きじゃくりながら、ケーキの箱をゴミ箱へ叩きつける女性の姿がある。
こちらからは、鋭い怒りと惨めさが匂い立っていた。
ノコリはふう、と短く息を吐いた。
人間はすぐ「もったいない」と口にする。食べ物を残すな、作った人に申し訳ない、と。
けれど、ノコリにとってそんな表面的な道徳はどうでもよかった。彼女が惹かれるのは、常に「なぜ残したのか」という理由そのものだ。
人間の生活には、どうしても食べきれない時がある。疲れすぎて喉を通らない夜もあれば、愛情が憎悪に反転して胃が受け付けなくなる瞬間もある。
食べ残しは、彼らが何かを諦め、切り捨てた感情の抜け殻だ。だからこそ愛おしく、またひどく滑稽でもある。
ノコリはどこからともなく、表紙に小花柄があしらわれた古い日記帳を取り出し、短いペンで走り書きをした。
『八月七日。疲労の幕の内弁当。絶望のショートケーキ』
人間たちのちっぽけな残骸を、忘れないように記録しておく。それが彼女のささやかな日課だった。
日記帳をしまおうとしたその時。
不意に、少し離れた場所から奇妙な匂いが鼻を掠めた。
ノコリは顔を上げる。匂いの出処は、集積所の向かいに建つ中層マンションの、明かりが灯ったままの一室からだった。
腐敗臭ではない。丁寧に焼き上げられたタルト生地の香ばしさと、新鮮なカスタードクリーム、そして色鮮やかな果実の甘い香り。
しかし、その極上の匂いにへばりついている感情が、ひどく異質だった。
極度に膨れ上がった虚栄心。それをごまかすための焦燥。そして、心の内側をドロドロに溶かすような、強烈な罪悪感。
それらがぐちゃぐちゃに混ざり合い、美しいタルトの匂いを台無しにしている。食べきれなかったわけではない。味が気に入らなかったわけでもない。まるで最初から「捨てるため」に用意されたかのような、不自然極まりない気配。
ノコリの端正な顔立ちからふっと笑みが消え、代わりに呆れたような、少し不機嫌な色が浮かぶ。
「食べる予定もないのに買って、人に見せるためだけに捨てる。人間って本当に器用なことするね」
深い色の瞳が、マンションの窓をじっと見据える。
あれほど美味しそうなタルトを、わざわざゴミ箱へ放り込もうとしている人間は、一体どんな空っぽの理由を抱えているのか。
ノコリの足が、ふわりと地面から離れた。
背中の大きなリボンと幾重にも重なったスカートが夜風にふわりと舞い上がり、重力から解放された身体は、一直線にその窓へと向かっていく。
甘く惨めな真実が捨てられる、まさにその瞬間を覗き込むために。




