第19話 盗まれたページと冷めた出前
深夜二時。
アパートの一室に響くのは、スマートフォンの電子音が奏でる不気味なバイブレーションと、自分の胸の奥が早鐘のように鳴り響く音だけだった。
デスクの周囲には、描き損ねたスケッチ用紙が雪崩のように散らばり、半分乾きかけたおしぼりや、数日前に届けられたはずの出前の丼がラップをかけられたまま放置されている。
「……描けない。なんで……全然描けないのよ……!」
西野愛は、血走った目を剥き出しにして、握りしめたデジタルペンを力任せにデスクへ叩きつけた。
ペン先が虚しくプラスチックの床の上で跳ね、闇の中に転がっていく。彼女の目の下には、ここ数日まともに眠れていないことを示す深いクマが刻み込まれていた。
愛のスマートフォンは、先ほどからマナーモードにしたバイブレーションがブルブルと震え続けている。液晶画面に映し出されているのは、大手出版社『柑橘魔法文庫』の担当編集者からの着信履歴だった。通知の数はすでに二桁を超えている。
『西野先生、次話のネームの締め切りは昨日ですよ』
『編集部にお電話ください』
「知るか……! 描けないものは、描けないのよ……っ!」
頭を抱え、愛は自分の髪を乱暴にかきむしった。
愛は、現在SNSや漫画配信アプリで爆発的な人気を誇る歴史ファンタジー漫画
――『黄金の咆哮』の「著者」として、一躍脚光を浴びていた。
重厚な世界観、血肉の通ったキャラクター、そして歴史のうねりを鮮烈に描いた圧倒的なストーリーテリング。来月には柑橘魔法文庫からの単行本第一巻の刊行も決まり、アニメ化の打診まで舞い込んでいるという。破竹の勢いを見せる新進気鋭の漫画家。
……だが、それはあくまで表向きの仮面に過ぎない。
この『黄金の咆哮』を描いたのは、愛ではなかった。
すべては、半年ほど前に始まったことだ。
当時、愛は漫画家を目指して投稿サイトに作品をアップしていたが、評価はいつも散々なものだった。「絵は綺麗だが、話が薄っぺらい」「どこかで見たような展開」という、冷徹なコメントが並ぶばかり。
そんな煮詰まった日々に、愛は毎日のように通っていた大衆食堂『大黒亭』で、ひとりのアルバイトの青年、輝樹と出会った。
彼は調理の合間や休憩時間になると、油の匂いが染みついたボロボロのクロッキー帳に、誰に見せるでもなく歴史ファンタジーの漫画を描き殴っていた。
ある日、愛は常連客として輝樹と漫画の話題で打ち解け、そのクロッキー帳を見せてもらい――絶句した。
そこにあったのは、愛がどれほど喉から手が出るほど欲しても手に入らなかった「本物の才能」だった。圧巻の構成力、見たこともない古代の道具や計算を駆使する胸踊る工夫、そして身分を隠した姫と二人の少年が泥にまみれながら巨大な大仏を造り上げていく熱い人間ドラマ。
愛は嫉妬で全身を焼かれるような感覚を覚えながらも、「これ、すごく面白いね」と声をかけた。
輝樹は純粋に、自分の描いた歴史ファンタジー漫画を「面白い!」と笑顔で絶賛してくれる愛の姿が嬉しくて、完成した原稿を愛に読ませていた。愛自身も漫画を描く人間としてその面白さを認めつつも、心の中では黒い嫉妬が渦巻いていた。
なぜ、こんな冴えない食堂のバイトの男にここまでの才能があって、毎日必死に努力している自分には何もないのか。
そして愛は、魔が差した。
輝樹から見せてもらった原稿を自分名義でネットの投稿サイトにアップロードしたのだ。
結果は、瞬く間に訪れた。
数万の「いいね」とリツイート。バズは爆発的に広がり、柑橘魔法文庫の編集者からダイレクトメッセージが届くまでに、一週間もかからなかった。
愛は溢れ出る強烈な嫉妬を抱えながらも、名声と承認欲求の甘い罠に抗えず、書籍化の打診を引き受けた。さらに、自分名義のおまけ漫画もちゃっかり便乗して掲載させるという強欲さまで見せて。
(輝樹はネットなんて見ない。このまま黙っていれば、バレるはずがない……)
愛はそうタカをくくっていた。
輝樹は相変わらず、「愛さんが読んでくれるから」という理由だけで、嬉しそうに『黄金の咆哮』の続きを描き、愛に見せ続けてくれていた。
だが、その栄光はあまりにもあっけなく破綻を迎えた。
一ヶ月前、輝樹の食堂の仕事が急激に忙しくなり、漫画を描く時間がほとんど取れなくなったのだ。
当然、愛の元へ届く『黄金の咆哮』の原稿は途絶えた。
愛には、輝樹の生み出す重厚な歴史ファンタジーの続きを自力で描くことなど到底不可能だった。キャラクターのセリフ一つ取っても、愛が考えた途端に安っぽく、底の浅いものになってしまう。
自分で続きを描こうとしては破棄し、描こうとしては描けずに絶望する。そうこうしているうちに締め切りは過ぎ、柑橘魔法文庫の編集者からの催促の電話は日増しに凶悪さを増していった。
「どうすればいいの……私の名前が……私の栄光が崩れちゃう……っ!」
愛はガタガタと震えながら、床に膝をついた。
その時、静まり返った部屋の隅で、カツリと上品な革靴のような音が響いた。
「足元、気をつけてね。ペン、転がってるよ」
「ひっ……!?」
悲鳴を上げて振り返った愛の視線の先に、見慣れない少女が立っていた。
白いパフスリーブのブラウスに、黄色や緑、オレンジといった暖色系のフリルが幾重にも重なった、鮮やかすぎるドレス。背中には大きなリボンが結ばれ、豊かな茶髪には麦の穂のような飾りが揺れている。
どこかの童話の世界から迷い込んだかのようなその少女がそこに居た。
「だ、誰……!? あなた、どうやって鍵の閉まった部屋に入ってきたのよ!」
「どこから入ったっていいじゃない。それより、あっちのテーブルの上のご飯、すっかり冷めきってるよ」
――残飯の女神ノコリ。
愛のパニックなどどこ吹く風とばかりに、部屋の隅の小さなローテーブルを顎でしゃくった。
そこには、仕事が忙しくなった輝樹が、愛の体調を心配して食堂からこっそり届けてくれた『カツ丼の出前』の丼が置かれていた。
ラップの上にはうっすらと埃が積もり、中の卵や豚肉の油は白く固まっている。柑橘魔法文庫の催促電話とパニックに追われた愛は、その出前に一口も手をつけないまま、部屋の片隅に放置していたのだ。
「触らないでよ! 泥棒……警察呼ぶわよ!」
「呼べるなら呼べば? 受話器を握る指が、小刻みに震えて使い物にならないくせに」
ノコリはくすりと冷ややかに笑うと、スーッと床を滑るようにしてローテーブルへ歩み寄った。
「へえ……愛情たっぷりの出前だねえ。出前ってさ、本当は出来立ての温かいところを食べてほしいから運ぶものなのに。こんなに長く放置されて、人間も冷めた丼のようになんだか冷たくて滑稽だね」
ノコリはそっと、ラップ越しにカツ丼の器へ小さな指先を触れさせた。
——魔法『残響』。
ノコリが低く呟いた瞬間、部屋の空気が一変した。
淡く黄金色の光を放つ球体がふわりと空中に浮かび上がり、その光の中に鮮明な映像が映し出された。
それは、大衆食堂の狭く薄汚れた厨房の映像だった。
深夜、営業が終わった後の静まり返った空間で、輝樹が一人、額に汗を浮かべながらカツを揚げている。
油の弾ける心地よい音が響く中、輝樹の顔には、隠しようのない温かい笑みが浮かんでいた。
『愛さん、最近すごく疲れてるみたいだったな……。カツ丼が好きだって言ってたから、精のつくロース肉で作って持っていってあげよう。喜んでくれるといいな』
輝樹は手際よく丼にご飯をよそい、丁寧に割り箸を添えた。
そして映像はそのまま、別の日の輝樹の回想へと滑り込んでいく。
輝樹がスマートフォンの画面をじっと見つめている。そこに映っていたのは、愛の名義でインターネット上に発表され、大絶賛を浴びている『黄金の咆哮』の画面だった。
画面の向こうで輝樹は、驚くでもなく、怒るでもなく、ただどこか悟ったような、寂しげで優しい目をしていた。
『あはは……やっぱり、愛さんだったんだ。僕の描いた『黄金の咆哮』が、ネットで愛さんの漫画として評判になってる……』
輝樹の穏やかな独白が、静まり返った愛の部屋に響き渡る。
『最初に見せた時から、なんとなく感づいてはいたんだ。でも、いいんだ。僕にはプロになる気なんてないし、大好きな歴史ファンタジー漫画を描いて、それを愛さんがあんなに楽しそうに「面白い!」って笑って読んでくれる。その顔が見られるだけで、僕は十分幸せだったから。……愛さんが笑ってくれるなら、僕の漫画がどう扱われたって、かまわないよ』
映像が、ふっと泡のように弾けて消えた。
部屋の中に、鉛のように重い沈黙が落ちる。
愛は床に崩れ落ちたまま、開いた口が塞がらなかった。
「……う、そ……そんなの……」
輝樹は、気づいていたのだ。
自分が彼の才能を盗み、自分の名義で発表していたことを、彼は最初からうすうす感づいていた。
それなのに、彼は愛を責めることもなく、告発することもなく、「ただ自分が描いた漫画で愛が楽しそうに笑ってくれる顔が見たい」という理由だけで、すべてを呑み込んで原稿を見せ続け、心配して出前まで届けてくれていたのだ。
愛は自分が輝樹をうまく騙し、原稿を掠め取っているつもりでいた。
だが実際は違った。輝樹のあまりにも純粋で、無欲で、見返りを求めない献身の前に、自分の抱いていた歪んだ嫉妬や承認欲求がいかに浅ましく、醜いものであったか。
「あはは……不気味だねぇ」
ノコリはお椀を抱えたまま、心底可笑しそうに、けれど底冷えするような冷たい目で愛を見下ろした。
「あんたは自分の虚栄心のために彼を騙しているつもりだったのに、彼の方はあんたが笑顔になってくれるならって、盗作に気づきながらも黙って原稿を渡してくれていたんだ。……ねえ、どんな気分? 自分の浅ましい嘘が、相手の純粋な善意の前で完全にお見通しだった感想は?」
「やめて……やめてよぉっ!」
愛は頭を抱え、叫ぶように泣き叫んだ。
「私はっ……私は、ただ認められたかっただけなの! 誰にも見向きもされない無力な自分が惨めだったのよ……っ!」
「答えは、最初から出てるよ」
ノコリは冷酷に、慈悲のかけらもない声で言い放った。
「あんたには『自分の言葉』がないからさ。他人の輝きを盗んで自分の顔に塗りたくっても、中身が空っぽなのはいつまで経っても変わらないよ」
ノコリの鋭い言葉が、刃となって愛の心をズタズタに切り裂いた。
その翌日。
愛は、足を引きずるようにして柑橘魔法文庫の編集部へと向かった。
これ以上、輝樹の純粋な想いを踏みにじりながら嘘の栄光にしがみつくことは、完全に打ち砕かれた愛の罪悪感が許さなかった。
愛は担当編集者のデスクの前で深々と頭を下げ、すべての真実を白状した。
『黄金の咆哮』は自分の作品ではなく、知人の輝樹が描いた原稿を無断で盗作したものであること。これ以上連載を続けることはできないこと。
業界は当然のように大騒ぎとなった。
柑橘魔法文庫は即座に『黄金の咆哮』の連載中止と単行本の発売中止を発表。愛のSNSアカウントには、裏切られた読者からの怒りと誹謗中傷のコメントが雪崩のように押し寄せた。
愛はすべての名声を失い、世間から完全に隔絶された。
輝樹にも編集部から連絡がいったはずだったが、輝樹は一切の責任追及もせず、ただ静かに大黒亭のバイトを辞め、どこかへ姿を消してしまったという。
愛の元には、何も残らなかった。
栄光も、金も、そして自分を無条件で肯定してくれた輝樹という存在も。すべてが泡のように消え去った。
社会的信用を完全に失い、アパートの部屋の隅で泥のように眠る日々を送っていた愛だったが、ある日、ふと自分の手を見つめて、全身に鳥肌が立った。
(私は……私は、このまま終わりにするの……?)
他人の才能に寄生し、それを奪うことでしか生きられなかった自分が、すべてを失った。ならば、残されたものは何だ。
絶望の底で、愛の中に初めて、泥水を這いつくばるような執念の炎が灯った。
(他人の褌じゃない……今度こそ、私自身の力で、私の言葉で、物語を描いてみせる……!)
愛は誰からの連絡も絶ち、アパートの部屋に引きこもると、自分の精神を削り取るようにして新しい漫画の執筆に没頭した。
輝樹の真似事ではない。かつて自分が犯した罪、味わった絶望、剥き出しの嫉妬と醜いエゴのすべてをストーリーに昇華させた、完全オリジナルの人間ドラマ。
数ヶ月間、睡眠時間を削り、食事も喉を通らないほどの執念でペンを走らせ、愛はついに一本の読み切り原稿を完成させた。
愛は過去の経歴や本名を一切隠し、完全に新しい匿名のアカウントを作成して、ネット上の個人漫画投稿サイトにその原稿をアップロードした。
結果は、静かに、だが確実に実を結び始めた。
最初は数個だった「いいね」が、数十、数百へと増えていく。
『この漫画、綺麗事じゃなくて人間のドロドロした部分が生々しく描かれていてすごい』
『作者の執念を感じる。続きが読みたい』
コメント欄に並ぶ読者からの温かい評価と賞賛の言葉に、愛はボロボロと大粒の涙をこぼした。
「やった……やったわ……私の力で……私の描いた物語で、人に届いた……!」
初めて、自分の足で大地を踏みしめたような確かな実感が、愛の胸を満たした。
自分の「個性」が、ようやくこの世界に認められたのだと確信した愛は、さらに多くの人に読んでもらうため、大手漫画投稿プラットフォームのランキングページを開いた。
――だが。
ランキングの上位に踊り出ている「今週の注目作」のサムネイルを目にした瞬間、愛の心臓が凍りついたように止まった。
そこに描かれていたのは、愛が昨日、別のサイトにひそやかにアップロードしたばかりの、自分の最新作の『全く同じキャラクター、全く同じ構図』のイラストだった。
「……え?」
血の気が引く音を立てながら、愛は震える手でその作品のページをクリックした。
タイトルは微かに変えられている。著者名も、全く知らない見知らぬアカウント名だ。
しかし、ページをめくると
――そこに並んでいたのは、愛が血を吐く思いで考え出したオリジナルのセリフ、緻密に練り上げたプロット、感情の機微に至るまで、一言一句違わず丸ごとコピーされた「盗作漫画」だった。
その作品は、愛のオリジナルよりも遥かに見やすい綺麗な画風でトレスされ、すでに数万の「いいね」を集め、コメント欄は大絶賛の嵐に包まれていた。
『この作者さんの描く人間のリアルさが最高!』
『天才現るって感じ! 次回も楽しみ!』
「なにか……これ……嘘よ……!」
愛の手から、スマートフォンが滑り落ちた。
愛が自分の命を削り、魂をすり減らして生み出した「自分のオリジナル」が、見知らぬ誰かに横からあっさりと奪われ、自分の知らない場所で消費されている。
「泥棒……! 盗作よ! それは私が描いた漫画なのよ……っ!」
愛は画面に向かって叫び、キーボードを叩いて運営に通報しようとした。
だが――その指が、ピタリと動かなくなった。
通報フォームの画面に映り込んだ、自分の顔。
青ざめ、恐怖と絶望に歪みきった自分の醜い顔を見つめながら、愛は残酷な真実に気づいてしまったのだ。
自分が「盗作された」と声を大にして世間に訴えたとき、世間はどう反応するか。
『あの過去に大々的な盗作騒動を起こした西野愛が、また何か被害者ぶって騒いでるぞ』
『自分がやったこと棚に上げて、何が盗作だ』
過去に他人の才能を泥棒したという事実は、どれほど反省しようとも、消えない入れ墨となって愛の人生に刻まれている。
どれほど正当な被害者であろうと、一度「泥棒」のレッテルを貼られた人間の言葉を、世間の誰も信じてくれるはずがなかった。
愛は「奪う側」から、「奪われる側」へと、完全になすすべもなく転落したのだ。
自分の生み出した血肉を目の前で横取りされ、しかしそれを訴える権利すらも過去の自分のせいで奪われているという絶望の密室の中で、愛は声にならない悲鳴を上げ、頭を抱えて床でのたうち回った。
アパートの窓の外。
夜の冷たい風が吹き抜ける中、電柱の影から、ノコリはその様子をじっと見つめていた。
ノコリはカーディガンのポケットから、表紙に小花柄があしらわれた古い日記帳を取り出した。そして、短いペンを走らせる。
『他人の才能を盗んで偽りの自分を演じた人間は、やがて自分の力で何かを生み出した時、それすらもそっくりそのまま他人に奪われる。模倣と略奪の輪廻からは、どんな人間も決して逃れることはできない』
ノコリはパタン、と静かな音を立てて日記帳を閉じた。
下方にあるアパートの窓からは、今自分の作品を奪われ、暗闇の中で泣き叫ぶ愛の絶望的な影が見えていた。
「個性のありかた、かぁ」
ノコリは古い赤いお椀を軽く胸に抱き直すと、冷徹で、けれどどこか醒めた瞳で夜空を見上げた。
残飯の女神は、冷えた夜風にフリルドレスの裾をなびかせながら、静かに闇の向こうへと消えていった。




