第20話 選り好みの食卓
深夜の蛍光灯の下、冷え切ったワンルームの空気が、まるで鉛のように重く肺に沈む。
テーブルクロス代わりに敷かれた安物のビニールの上で、一冊のスマートフォンが眩い光を放ち続けていた。
「……嘘、でしょ……?」
和美は、画面から目を逸らしたまま、ガタガタと震える手で自分の口元を抑えた。
動画サイトの画面に映し出されていたのは、他でもない、数ヶ月前から真剣交際を始めていた恋人・真一と自分の姿だった。それも、ホテルの一室における、あまりにも生々しいプライベートな夜の営みだった。
しかも、その動画は「素人ハイクラス美女の裏側」といった下世話なタイトルで不特定多数のユーザーに閲覧され、コメント欄には嘲笑と下劣な言葉の数々が並んでいる。
頭が真っ白になり、呼吸が浅くなる。どうしてこんなものがネットに流出しているのか。
混乱のまま真一に電話をかけると、コール音は数回鳴ったのち、あっさりと繋がった。
『あ、もしもし? 和美?』
「しん……いっ……これ、これはいったいどういうことよ!? ネットに、私たちの動画が……っ!」
『ああ、見たんだ。あれ、結構再生数伸びてるでしょ? タイトルも我ながらセンスいいと思うんだよね』
「……は?」
受話器の向こうから聞こえてきたのは、いつもの優しく穏やかな真一の声ではなかった。底冷えするような、すべてを冷徹に見下ろすような、見ず知らずの男の嘲笑だった。
『まさか本当に僕が、君みたいな女と本気で付き合ってたなんて思ってないよね?』
「な……にを……」
『大手商社勤務? 年収一千万? 高身長でイケメン? 全部真っ赤なウソだよ。僕の経歴も、名前すらもね。君みたいな、自分を棚に上げて男にハイスペックばかり求めるプライ高い女を引っ掛けるための、最高の小道具さ。いやあ、チョロかったなあ。お陰で動画の広告収入もバッチリ稼がせてもらったよ。感謝してよ、和美』
「っ……ふざけ……ふざけないでっ……!」
和美が絶叫した瞬間、冷たい電子音が耳を打った。
プー、プー、プー――。
通話は、一方的に切られていた。
それから、地獄のような時間が始まった。
和美は慌てて警察に駆け込んだが、真一と名乗っていた男の身元を示すものは何も残っていなかった。戸籍も経歴もすべて偽造されたものであり、連絡先もすでに消し去られている。
さらに悪いことに、職場の同僚や知人の間にもその動画の噂が広がり、和美は耐えきれなくなって会社を自主退職せざるを得なくなった。
30歳。
高望みをして合コンを蹴り続け、結婚相談所でも「年収は最低でも八百万以上、長男以外、できれば都内持ち家」と条件を譲らず、自分の年齢すら省みずに理想の王子様を待ち続けていた結末がこれだった。
仕事も、貯金も、社会的信用も、そしてすがりたかった結婚の夢も、すべてが一夜にして音を立てて崩れ去った。
部屋の明かりもつけないまま、和美はフローリングの床に膝を抱えて座り込んでいた。
視線の先、リビングの小さなテーブルの上には、数日前に真一が「和美、疲れてるだろ? 僕が作ってあげるよ」と微笑んで振る舞ってくれた手料理の食べ残しが、そのまま放置されていた。
豚肉の生姜焼きだったはずの皿。
和美は肉の脂身が嫌いだと言って半分以上を残し、添えられていたピーマンや玉ねぎなどの野菜は「こんな苦くて口触りが気持ち悪いの無理」と一切口をつけず、きれいに端っこへ寄せて残してあった。
あの時、真一はそんな和美の我が儘を見て、優しくこう言ったのだ。
『はは、和美は本当に子供みたいに好き嫌いが多いんだから。でも、そういう我儘なところも僕にとっては可愛いよ』っと――。
「……可愛い、だって……?」
和美の目から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。
あの優しかった言葉のすべてが、今になって思えば、泥を吐きたくなるような悪意に満ちた嘲笑に聞こえてくる。
その時、部屋の冷えた空気がふっと揺らいだ。
カツリ、と上品な靴音が静寂を切り裂く。
「……誰?」
和美がかすれた声で顔を上げると、部屋の隅の暗がりから、ひとりの少女が姿を現した。
白いパフスリーブのブラウスに、緑と黄、そして鮮やかなオレンジが幾重にも重なったフリルスカート。長く豊かな茶髪には麦の穂のような飾りが揺れ、まるで絵本の中から抜け出してきたかのような不思議な衣装を纏っている。
――残飯の女神ノコリ。
「……誰よ、あんた……どうやって入ってきたのよ……」
「鍵なら開いてたよ。風通しが悪い部屋だねえ」
ノコリは和美の怯えた視線を意に介さず、トコトコとテーブルへ歩み寄ると、そこに放置された「生姜焼きの残飯」をじっと見つめた。
肉の脂身、よけられた緑のピーマン、茶色く焦げた玉ねぎ。和美が「嫌いだ」と言って手をつけなかった残骸が、冷めきって皿の上で固まっている。
「触らないでよ……!」
「触るも何も、もうすぐ捨てられちゃうんでしょ、これ」
ノコリは小さく息をつくと、その冷めきった残飯の端に、そっと指先を触れさせた。
瞬間、ノコリの周囲に淡く黄金色の光の球体がふわりと浮かび上がり、和美の視界を強制的に包み込む。
——魔法『残響』。
和美の脳裏に、見覚えのあるリビングの光景がフラッシュバックする。
それは、数日前に真一が料理を作っていた時の、和美には聞こえていなかった「真一の本当の独白」だった。
『――ふん、相変わらず子供みたいな偏食だな。肉の脂身は残す、野菜はよける。おまけに自分の嫌いなものは絶対に口に入れない』
映像の中の真一は、和美が美味しいと喜んで食べていた肉を片付けながら、冷ややかな目をしていた。
『俺の顔とスタイルだけはそこそこ整えてやったけど、あいつ(和美)の中身はわがままで、自分のことしか考えてない。少しでも自分より下の男は見下すくせに、自分は何の努力もしてない。……まあ、だからこそチョロいんだけどさ。ハイスペックな男にチヤホヤされたくて目が眩んでいる女なんて、都合の良い条件を並べ立てれば、いくらでも騙せる最高のカモだよ』
「……っ……ぁ……」
和美の喉から、声にならない悲鳴が漏れた。
映像の中の真一はさらに続ける。
『相手に「年収一千万、高身長、一流大卒」なんて途方もない条件を突きつける割に、お前自身は男に何を与えられるっていうんだよ? 料理もできない、家事も文句ばかり、自分の好き嫌いくらい自分で直せない。中身が空っぽで、他人に寄生することしか考えてない女に、釣り合う男なんかいねえよ。ハハッ、本当に、鏡を見て出直してこいって感じだよね』
ガツン、と頭を殴られたような衝撃とともに、残響の光が霧散した。
和美は床に両手をつき、荒い息を吐きながら全身を震わせた。
「うそ……うそよ……私は被害者よ……あんな男に騙された、私は……!」
「被害者、ねえ」
ノコリは冷ややかな目で、和美を見つめた。
「人間って不思議だよね。自分が相手に求める条件は、宇宙の果てまで高いくせにさ。いざ自分が査定される番になると、『私は騙された被害者だ』って泣き叫ぶんだから」
「……っ!」
ノコリの言葉は、和美が一番認めたくなかった、そして心の奥底で薄々気づいていた残酷な真実そのものだった。
和美は30年間、自分を磨くこともせず、相手の欠点ばかりを探し、食べ物の「好き嫌い」と同じ感覚で男を選り好みし続けてきた。
「低収入は嫌だ」「身長が低い男は論外だ」。そうやって相手に完璧なスペックを要求する一方で、自分自身は相手に何を差し出していただろうか。
和美が男に与えていた魅力など、若い頃のわずかな見栄えと、都合のいいときだけ甘える子供のようなわがままだけだった。
自分自身が相手に与える魅力など、最初から何一つなかったのだ。
相手を値踏みしていたつもりが、実際には「中身のない、努力もしないわがまま女」として、自分が詐欺師にとって一番格好の「カモ」として値踏みされ、食い物にされていたに過ぎなかった。
「……私が……私が、いけないの……?」
和美の目から、とめどなく涙が溢れ出した。
プライドも、見栄も、理想という名の幻も、すべてが剥ぎ取られ、残されたのは「誰からも選ばれなかった、空っぽで無様な自分」という現実だけだった。
ノコリはそれ以上、和美に言葉をかけることはしなかった。
ただ、冷めきった残飯の皿の脇に、自分の持っていた古びた赤いお椀をコトリと置いた。それは、誰とも温かい食卓を囲むことができず、一人で冷たい器に向き合う孤独の象徴のようだった。
「――お腹、空いたでしょ」
ノコリはそれだけ言い残すと、スッと身を翻し、夜の闇の中へと溶けるように姿を消していった。
誰もいなくなった静まり返った部屋で、和美は一人、テーブルの上の皿を見つめていた。
そこには、あのとき自分が「嫌いだ」と言って残した、冷めきった生姜焼きの脂身と、端っこに追やり続けたピーマンや玉ねぎが残されている。
和美は震える手でその皿を引き寄せた。
温かくもない。美味しくもない。それは、自分が嫌いなものから目を背け、好きなものだけをつまみ食いし続けてきた人生の、なれの果ての残骸だった。
「……いただき……っ……ます」
和美は泣き叫びながら、冷え切った肉の脂身を、苦いピーマンを、無理やり自分の口へと押し込んだ。
噛みしめるたびに、泥のように苦く、冷たい味が口の中に広がる。
それは誰に救われることもなく、甘い幻想から叩き落とされた人間が味わうべき、あまりにも分相応で、あまりにも苦い現実の味だった。
窓の外では、冷たい夜風がビルの隙間を吹き抜けていく。
遠くの街灯の下、ノコリは表紙に小花柄があしらわれた古い日記帳を開き、冷徹なペンを走らせていた。
『相手に高い理想を求めるくせに、自分を磨くことから逃げ続けた人間は、最後に人生そのものからすべてを剥ぎ取られる。分相応を知らない者に、美味しい未来など最初から一つも用意されていないのだ』
ノコリはパタン、と静かな音を立てて日記帳を閉じ、誰にも救いを与えないまま、冷たい夜の底へと消えていった。




