第18話 一口の代償
やわらかな間接照明が店内を包む高級フレンチレストラン。磨き抜かれたグラスがシャンデリアの光を反射し、低く流れるジャズが優雅な時間を演出していた。
テーブルの中央に運ばれてきたのは、シェフが数時間かけて火を入れたという最高級黒毛和牛のフィレ肉のロティだ。深みのある赤ワインソースが、芸術品のような輝きを放っている。
「……ふうん」
仁は、フォークで肉の端を一口だけ切り分け、口に運んだ。
噛みしめると、上質な脂と芳醇な肉汁が広がる。だが、三度ほど咀嚼しただけで、仁は味の評価を下す前にナプキンで口元を拭い、フォークを皿の脇へ放り投げた。
「なに、仁? 美味しくないの?」
向かいに座る恵美が、心配そうに尋ねてくる。今日は二人が付き合ってちょうど三回目の記念日だった。
「いや、美味いか不味いかで言えば美味いよ。でもさ、一口食べたらもう分かっちゃったっていうか……二口目からはただの作業じゃん? なんかイマイチなんだよね。刺激がないっていうか」
仁はつまらなさそうにグラスのワインをあおり、脚を組んだ。
一皿数千円もする料理の大半が、美しく盛り付けられたまま手つかずで残されている。だが、仁の顔に罪悪感のようなものは一切なかった。
「……仁は、いつもそうね」
恵美が静かな声で言った。その瞳には、落胆とも諦めともつかない濃い影が落ちている。
「いつも最初の一口だけ。一番美味しいところ、刺激のあるところだけをつまみ食いして、少しでも飽きたり、思い通りに行かなくなると、すぐに放り出す」
「なんだよ、せっかくの記念日に説教か?」
仁は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「俺は妥協が嫌いなだけだって。合わないと思ったものにダラダラ時間を使うなんて無駄だろ。仕事だってそうさ。親のコネで入ったあの会社も、上司はうるさいし、任されるのは地味な雑用ばかり。あんなの俺の才能の無駄遣いだから辞めたんだ。俺にはもっと、やるべきデカい仕事があるはずなんだよ」
「……仕事だけじゃないわ。趣味のカメラも、英会話も、ジムも……どれも機材や教材を揃えて一ヶ月も経たないうちに『飽きた』ってやめたじゃない。物事はね、最初の楽しさが消えた後の、泥臭い『根気』が一番大事なのよ。それがない人に、成果なんてついてくるわけないでしょ」
「あー、うざい。説教くさいんだよ、そういうの重いよ。お前」
仁は椅子の背もたれに深く体重を預け、恵美を上から目線で見下ろした。
「ずっと言おうと思ってたんだけどさ。恵美、俺たちもう終わりにしようぜ」
「……え?」
「お前といても、もう刺激がないんだよね。俺、飽き性だからさ。三年間も同じ女と付き合ってること自体、俺にしちゃ珍しい方だけど。もっと俺をワクワクさせてくれる高尚な女じゃないと、付き合ってて時間の無駄なんだわ」
記念日のディナーの席で切り出されたとは思えないほど、軽薄で残酷な別れの言葉。
だが、恵美は取り乱さなかった。泣き出すことも、怒鳴り散らすこともなかった。ただ、深く静かなため息をひとつ吐くと、バッグを持ってゆっくりと立ち上がった。
「そう……分かったわ」
「お、聞き分けがよくて助かるよ。じゃあな、恵美」
ニヤニヤと手を振る仁に対し、恵美は冷ややかな視線を一瞬だけ向け、短く告げた。
「後悔するのは、あなたの方よ。仁」
カツカツとヒールの音を響かせて去っていく恵美の背中を見送りながら、仁は鼻で笑った。
「負け惜しみ言っちゃってさ。俺ほどの男を振れるとでも思ってんのかな。まあいいや、明日からまた新しい出会いを探すとしますか」
仁はテーブルに残された高級肉の残飯と、手つかずのパンには目もくれず、伝票だけをひったくるように持って会計へ向かった。
店内を抜け、夜風が吹き抜けるレストランのテラス席。
仁が立ち去り、店員がテーブルの片付けにやってくるまでのわずかなエアポケットのような時間に、どこからともなく一人の少女が姿を現した。
ふんわりとした白いパフスリーブに、黄色や緑、オレンジのフリルが幾重にも重なった華やかなドレス。背中の大きなリボンと、豊かな茶髪に揺れる麦の穂の飾り。
夜のテラスには不釣り合いなほど鮮やかで可憐な出で立ちの少女
――残飯の女神ノコリ。
ノコリは仁が放置していったテーブルの前にそっと立ち止まった。
皿の上には、一口だけ削り取られた見事な肉料理と、スープ、冷めきったパンがそのまま残されている。
「うわあ……ひどい匂い」
ノコリは小さな鼻を微かにひくつかせ、眉をひそめた。
「腐敗臭じゃない。ここにくっついてる人間の感情……薄っぺらくて、空っぽで、なのに無駄に膨れ上がったプライドの匂い。気持ち悪いねぇ」
「……おい、あんた誰だ?」
背後からかかった声に、ノコリはゆっくりと振り返った。
そこにいたのは、テーブルに置き忘れたスマートフォンを取りに戻ってきた仁だった。仁は怪訝そうな顔でノコリの奇抜な衣装を見定め、すぐに不快感を露わにした。
「人のテーブルの残飯、ジロジロ見てんじゃねえよ。不法侵入か? 店員呼ぶぞ」
「呼べば? あたしは別に何も盗んでないよ」
ノコリはくすりと笑い、皿の上の肉を指差した。
「それよりお兄さん、これ、ぜんぶ捨てていくんだ? ひとくちだけかじって」
「ああ、飽きたからな。金は払うんだから俺の勝手だろ」
「勝手ねぇ……」
ノコリの瞳から、ふっと笑みが消えた。
「一口かじっては捨て、一口かじっては捨て……途中で投げ出す癖がついた人間の飯は、随分と空っぽで浅い味がするねえ」
「んだと……? ガキのくせに生意気言つてんじゃねえぞ!」
頭に血が上った仁が、ノコリの胸ぐらを掴もうと手を伸ばした。
次の瞬間。
ノコリは身軽な動作でその手をかわすと、仁の腕を掴み、その指先を皿の上の冷めた肉の残飯へ――強引に押し付けた。
「なっ……何すんだ、汚ねえな!」
仁が手を引き抜こうとした瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。
――ガァン!
頭の中で鐘が鳴り響くような衝動とともに、仁の網膜の裏側に、黄金色の光の球体が幾つも浮かび上がる。
——魔法『残響』。
「う、わあああっ!?」
仁の脳内に、自分自身の過去の記憶が恐ろしい精度で叩きつけられた。
半年で辞めた大手企業。難しい業務マニュアルを渡され、「俺には向いてない」と吐き捨ててデスクを立った日の記憶。
一ヶ月で放り投げた一眼レフカメラ。基礎的な構図の練習に飽き、「機材が悪い」と言い訳して押し入れに放り込んだ記憶。
そして、恵美と過ごした三年間の記憶。
仁が不満を漏らすたび、彼女は必死に向き合おうとしていた。「最初は誰でもつまらないよ」「ここを乗り越えれば面白くなるから、一緒に頑張ろう」と、何度も何度も手を差し伸べてくれていた。
だが、仁はそのすべてを「説教」「重い」「説教くさい」と切り捨て、一番美味しい「付き合い始めの刺激」だけを貪り、泥臭い関係の継続から逃げ続けていたのだ。
「ぐっ……あ、頭が……っ!」
「気づいてた?」
暗闇の中で、ノコリの冷ややかな声が響く。
「あんたは『妥協が嫌いだから自分から切り捨ててやった』つもりでいたみたいだけど。本当は違うよ。あんたは何かを達成する『根気』も、責任を引き受ける『覚悟』もないから、泥臭くなる前に逃げ出していただけ。一口だけかじって、中身が深くなる前に逃げる……ただの臆病者じゃん」
「黙れ……黙れぇっ!」
仁は叫びながら手を振り払った。
ハッと息を吹き返すと、そこはただの静かなテラス席だった。指先には肉のソースがねっとりとこびりついている。ノコリは少し離れた場所で、ただ冷たい目を仁に向けていた。
「ハァ、ハァ……狂ってやがる。変な新興宗教か何かか! 二度と俺の前に現れるな!」
仁は叫ぶと、逃げるようにレストランを飛び出していった。
しかし、その夜を境界線として、仁の人生は滑り落ちるように崩壊していった。
一カ月後。
仁の借りていた都内のデザイナーズマンションの部屋は、足の踏み場もないほど散らかっていた。
親からの仕送りは完全に止まっていた。仁が会社を辞めたことを知り、ついに父親が激怒して絶縁を言い渡してきたのだ。
「クソッ……なんで俺がこんな目に……!」
慌てて再就職を探したものの、職歴は数ヶ月単位の短期離職ばかり。「泥臭い下積み」を嫌ってアピールできる実績も技術もない三十前の男を雇う奇特な会社など、どこにもなかった。
面接を受けては「根気がない」「覚悟が見えない」と落とされ、その度に仁は「面接官の目がない」と吐き捨てて逃げ続けた。
貯金は底をつき、家賃の滞納は三ヶ月に及んだ。
そして今日、ついに管理会社から強制退去を執行されたのだ。
「出ていけってのかよ! 俺を誰だと思ってんだ!」
管理会社の社員に叫んだが、返ってきたのは冷淡な一言だけだった。
「社会を舐めないでください。家賃も払わず、仕事もせず、言い訳ばかり。あなたみたいな人と交わす契約はありません」
バタン、と重いドアが閉ざされた。
手元に残されたのは、一つのトランクと、財布に入った数百円の小銭だけ。
季節は冬へと移り変わっていた。冷たい木枯らしが吹き荒れる夜の街を、仁はトランクを引きずりながら彷徨った。
ネットカフェに入る金すらない。友人知人に電話をかけたが、かつて仁が「つまらない」「使えない」と見下して連絡を絶っていた者たちばかりで、誰も電話に出なかった。出た一人も、「お前、まだそんな生き方してんの? 関わらないでくれ」と冷たく切られた。
「なんで……なんで俺がこんな……! 俺は特別なはずなのに……!」
寒さと空腹で膝が震え、仁は駅前の路肩にガタガタと震えながら座り込んだ。
冷たいコンクリートの冷気が、お尻から全身へと広がっていく。
「寒い……お腹すいた……」
かつて高級レストランで、一口だけ食べて捨てた数々のごちそうが脳裏をよぎる。
あの肉を、あのパンを、なぜ全部食べなかったのか。
いや、それだけじゃない。
なぜ自分は、あの仕事を、あの趣味を、あの時間を、泥臭く続けなかったのか。
「根気よく一つのことに向き合う覚悟を捨ててきたツケだね」
不意に、上空から声が降ってきた。
仁が血走った目を上げると、街路樹の枝の上に、あの夜の少女――ノコリが座っていた。
「……お前……! お前が俺に変な呪いをかけたからだ! 元に戻せよ!」
「呪い? 冗談言わないでよ」
ノコリは身軽に枝から飛び降りると、仁の目の前に着地した。フリルスカートが夜風にふわりと揺れる。
「あんたが自分の意思で選んできた結果でしょ。美味しい上辺だけを一口かじって、泥臭い苦労からは全部逃げた。最後まで食べきる『根気』も『覚悟』もない奴にはさ、最後には空っぽの皿しか残らないんだよ。自業自得じゃない」
「うるさい! 俺はまだやり直せる! 俺には才能があるんだ! 誰かが俺の価値に気づけば……!」
「誰も気づかないよ」
ノコリはすげなく言い放った。
「だって、あんたの中身は空っぽだもの。一口かじっただけの浅い経験しか持たない人間に、何の価値があるの?」
「あっ……あ……」
仁は声にならぬ声を漏らし、頭を抱えた。
ノコリはそんな仁を哀れむでもなく、救うでもなく、ただ冷淡な瞳で見下ろしている。
「あたしには、あんたみたいな人間を救う魔法なんてないよ。覚悟のない人間がどうやって生きていくのか、私には分からないしね」
その時だった。
「――あら、綺麗なイルミネーション」
「本当だね。来週の旅行、楽しみだな」
聞き覚えのある、上品な声が聞こえてきた。
仁が弾かれたように顔を上げると、駅前の高級ホテルから、一対の男女が出てくるところだった。
男は身なりのきちんとした、誠実そうな年上の男性。
そしてその腕に寄り添うように微笑んでいる女性は――恵美だった。
洗練されたコートを纏い、上品なメイクを施した恵美は、三年前よりも遥かに美しく、満ち足りたオーラを纏っていた。
「恵美……! 恵美じゃないか!」
仁は泥と埃にまみれた体で立ち上がり、トランクを放り出して恵美のもとへ駆け寄った。
「な、なんだ君は!?」
連れの男性が驚いて恵美をかばうように前に出たが、仁はなりふり構わず地べたに膝をつき、恵美のコートの裾にしがみついた。
「恵美! 助けてくれ! お願いだ、恵美!」
仁はボロボロと涙を流し、惨めにすがりついた。
「俺が悪かった! 俺たちやり直そう! あの日、俺はお前を振ったけど……本当は撤回する! お前が言った通りだったよ、俺には根気がなかった! でも改心するから! お前と一緒ならやり直せるから!」
恵美の助けを借りれば、この泥沼から抜け出せる。彼女なら、かつて自分を愛してくれた彼女なら、自分を救ってくれるはずだ。仁はすがるような思いで彼女を見上げた。
だが。
恵美は、裾を掴む仁の手を、汚いゴミでも見るような目で見下ろしていた。
その瞳には、かつてあった温もりも、切なさも、怒りすらもない。ただ深い底のような、冷ややかな軽蔑と哀れみだけが存在していた。
「……やり直す?」
恵美の口から、冷ややかな失笑が漏れた。
「勘違いしないで、仁。あの日、あなたを振ったのは私よ」
「……え?」
仁の思考が凍りついた。
「『飽きられた』んじゃないわ。三年間、あなたに根気と覚悟を持たせようと必死に向き合ったけど、あなたが最後の最後まで自分から逃げ続ける空っぽな人間だって分かったから……私が見切りをつけて、捨ててあげたの」
「な……っ!?」
「あなたはずっと『自分から捨ててやった』と思い込んで自尊心を保っていたみたいだけど、本当は違う。あなたは仕事からも、趣味からも、そして私からも……最初から見限られて、捨てられていたのよ」
恵美はそう言い捨てると、軽蔑しきった手つきで仁の手を振り払った。
「行きましょう、課長」
「あ、ああ……大丈夫かい、恵美さん」
「ええ、ただの気の狂った不審者よ」
二人は一度も振り返ることなく、用意されていたタクシーに乗り込み、夜の街へと消えていった。
「あ……あぁぁぁ……っ!」
膝をついたまま、仁は絶叫した。
自分は振ったのではない。自ら切り捨ててやったのではない。
自分自身が「根気と覚悟」を放棄し続けた結果、社会から、仕事から、そして愛してくれた人間から、最初から見限られ、無惨に捨てられていただけだったのだ。
プライドという唯一の心の拠り所すらズタズタに引き裂かれ、仁は冷たい路面の上に突っ伏し、慟哭した。だが、足を止めて彼を顧みる者は誰もいなかった。
路肩で惨めにかたまり、声もなく震える仁の姿を、少し離れた街灯の下からノコリが見つめていた。
夜風が吹き抜け、彼女の背中の大きなリボンとフリルが揺れる。
ノコリはカーディガンのポケットから小花柄があしらわれた古い日記帳を取り出し、短いペンを走らせた。
『泥臭く続ける覚悟を捨て、美味しい上辺だけをつまみ食いしてきた男。自分が捨てていたつもりが、最初からすべてに見放されていたことに気づいた時には、手元には空っぽの皿しか残っていなかった』
ペンを止め、ノコリはパタンと日記帳を閉じた。
「……さぞや苦くて、空っぽな味がしただろうねぇ」
ノコリは冷たくなった路上で頭を抱える仁に、もう一度だけ冷ややかな視線を向けると、静かに背を向けた。
彼女が差し伸べる手など、最初から存在しない。これは、彼自身が選び、積み重ねてきた生き方の当然の「代償」なのだから。
「さて。次はどんな『残飯』が私を待っているのかな」
残飯の女神は、夜の闇の中へ溶け込むように、静かに姿を消していった。
あとには、寒空の下で無一文のまま絶望に震える男の、惨めなすすり泣きだけが残されていた。




