第17話 土の香りの郵便受け
軽トラックの荷台からプラスチックのコンテナを降ろすと、乾いた土の匂いと一緒に、初夏の生ぬるい風が鼻腔をくすぐった。
三十代の太一は、汗で濡れた作業服の袖で額をぐっと拭い、実家の畑の脇に置いた古びた竹籠に視線を落とした。
そこには、朝イチで収穫したものの売り物にはならない不格好な野菜たちが転がっている。先端が二股に分かれたニンジン、形が極端に曲がったキュウリ、そして皮に小さな傷がついた歪なトマト。出荷ラインからはじかれた「規格外」の類いだ。
籠の脇には、板切れにマジックで乱暴に書いた札が立てかけてある。
『ご自由にどうぞ』
「……フン」
太一は小さく鼻を鳴らし、コンテナを作業小屋の陰へと引きずった。
数年前、都会での人間関係と仕事に破れ、擦り切れた心で実家の農家へと逃げ戻ってきた。人間は嘘をつくし、裏切るし、都合が悪くなれば足を引っ張り合う。だが、土と野菜は違った。手をかければかけた分だけ実り、嘘をつかない。
「人は一人で生きるのが一番気楽でいい」
――それが、傷ついた末に太一が行き着いた無骨な結論だった。
だが、丹精込めて育てた作物をゴミ箱へ放り捨てることだけは、どうしても忍びなかった。だからこそ、散歩の老人が通る道端の籠へ、処分に困った不格好な野菜を放り込んでいただけのことにすぎない。
ところが、その日の夕方。作業を終えて籠を回収しに立ち寄った太一は、思わず足を止めた。
籠の中に残されていた不格好なトマトとキュウリが綺麗になくなっていたからではない。
空になった籠の底に、折られた小さなノートの切れ端がポツンと残されていたからだ。
『いつも美味しいお野菜をありがとうございます。おかげで温かいごはんが食べられました』
丸みを帯びた、丁寧だがどこかすり減ったような筆跡。
太一は無造作にその紙切れを拾い上げ、眉間にしわを寄せた。
「……お礼を言われる筋合いなんてないんだがな」
つぶやきながらも、その紙切れを破り捨てることはできず、太一は作業服の胸ポケットへとそっと押し込んだ。
それからというもの、不格好な野菜を籠に並べると、夕方には必ず小さな紙切れが入っているようになった。
『今日はニンジンを細かく刻んでスープにしました。甘くて驚きました』
『雨が続いて寒いですね。お体にお気をつけください』
文面から察するに、相手は暮らしに困窮している様子の女性だった。無駄な飾り気のない短い言葉だが、そこには太一が渡した野菜に対する切実な感謝が、じんわりと滲んでいた。
一人で土と向かい合うだけの静かな日々に、いつの間にか小さな風が吹き込んでいた。太一はいつしか、作業の合間に「今日のニンジンはあの曲がったやつを入れておくか」などと考えている自分に気づき、慌てて頭を振った。
手紙が始まって二週間が過ぎた、ある湿っぽい日の夕方。
いつものように籠を覗き込んだ太一は、息を呑んだ。
籠の中には、紙切れと一緒に、小さな薄ピンク色のタッパー容器がそっと置かれていたのだ。
『いつもお野菜をいただいてばかりで申し訳ありません。いただいたトマトとキュウリで、ささやかですがおかずを作りました。ほんのお礼です。口に合わなかったらすみません』
添えられた手紙を読み、太一はタッパーと紙切れを交互に目を落とした。
見知らぬ他人の作った料理。かつての太一なら「気味が悪い」と一蹴して捨てていたはずだった。だが、手の中にあるプラスチックの容器は、西日に照らされてどこか温かそうに見えた。
その夜。太一は薄暗い作業小屋のパイプ椅子に腰掛け、小さなタッパーの蓋を開けた。
中に入っていたのは、細かく刻んだキュウリとトマトを塩とわずかなドレッシングで和えただけの、本当に素朴なサラダだった。
太一は割り箸を取り、一口、口へと運んだ。
「…………」
特別な味付けなどされていない。けれど、噛み締めるたびに、自分が手塩にかけて育てた野菜の甘みと、丁寧に手作業で刻まれた作り手のぬくもりが、喉の奥へと静かに広がっていく。
一人きりの作業小屋で、太一は黙々と箸を動かした。気がつけば、タッパーの底にわずかなトマトの種と皮、キュウリの端切れを残すだけで、中身はすっかり空になっていた。
「……ごちそうさま、か」
ポツリと呟いた太一は、残った野菜の端切れをゴミ箱へ捨てようと立ち上がった。
「――へえ。一人で静かに暮らしているはずの農家さんが、随分と温かいお弁当の残り香をさせているねえ」
突如として、作業小屋の暗がりから鈴を転がすような少女の声が響いた。
太一は跳ね起きるように振り返り、背後のコンテナの上に手を置いた。
「な……誰だ! 勝手に入るな!」
そこにいたのは、長めの栗色の髪を揺らした一人の少女だった。フリルとリボンのついた、農作業の場には到底似合わない現実離れした衣服をまとっている。十代半ばほどに見える少女は、深い色をした瞳で、太一の手にあるタッパーとゴミ箱を見つめていた。
「ノコリ。ノコリでいいよ」
——残飯の女神ノコリ。
ノコリは軽やかにコンテナから飛び降りると、足音もなく太一に近づいた。
「見知らぬ人からの差し入れを綺麗に完食してさ。口では『他人は信じない』なんて顔をしているのに、お腹と心は随分と素直じゃないか」
「ふざけるな、部外者は出ていけ!」
「出ていく前に、ちょっとだけ見せてもらうよ。その食べ残しに刻まれた『声』をね」
ノコリは制止する太一の脇をすり抜け、タッパーの底に残っていたトマトの皮とキュウリの端切れに、素早い動作で指先を触れさせた。
「おい、触るな――っ!?」
——魔法『残響』。
太一がノコリの手を払いのけようとした瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。
作業小屋の埃っぽい匂いが消え、冷たく殺風景な六畳間のアパートの気配が太一の脳裏へと直接雪崩れ込んできた。
薄暗い部屋で、小さな包丁を握る痩せた女性の背中。
手元には、太一が籠に置いた不格好なトマトとキュウリがある。
女性は丁寧に傷を削ぎ落とし、細かく刻みながら、静かに涙をこぼしていた。
『温かい……。今日も、生きている……』
食費すら切り詰め、明日が見えない絶望の中で、太一の野菜だけが彼女の命を繋ぐ唯一の光だった。そして彼女は、太一から届く「ご自由にどうぞ」の文字の中に、世界から見捨てられていないというささやかな温もりを感じ取っていたのだ。
「あ……」
強烈な残響が引き晴れ、太一は作業小屋の床に片膝をついた。荒い息が漏れる。
「見えたかい?」
ノコリは冷ややかな、しかしどこか見透かすような瞳で太一を見下ろしていた。
「あんたは『余り物を恵んでやってる』気でいたかもしれないけれど、違ったろ? あんたの育てた野菜が彼女の命を繋ぎ、彼女の書く手紙が、孤独に固まっていたあんたの心を解かしていたんだ。……一人で生きているつもりでも、人間ってやつは勝手に繋がっちまうのさ」
「俺は……そんなつもりじゃ……」
太一は膝の上の拳を強く握りしめた。
他人に傷つけられたくないからと閉じこもっていた殻の裏で、自分自身が誰かの温もりに救われ、また誰かを支えていたという事実が、胸を激しく突いていた。
「さてね。どうするかは、あんた次第だよ」
ノコリはそう呟くと、ひらりと身を翻し、夜の闇へと溶けるように姿を消した。
翌朝。
いつものように籠の様子を見に行った太一は、そこにぽつんと置かれた手紙を見つけ、足を止めた。
そこには、今までで最も長く、重い言葉が記されていた。
『今まで本当にありがとうございました。明日、生活保護の支援が決まり、遠くの街へ引っ越すことになりました。あなたがくれたお野菜の温もりを、私は一生忘れません』
「……引っ越す、か」
手紙を握りしめたまま、太一は立ち尽くした。
やっと触れ合えたささやかな繋がりが、また失われる。追うべきか、このまま静かに見送るべきか。太一の胸の中で、葛藤が渦巻いた。
だが、太一は走り出さなかった。
顔も知らない彼女には、彼女の新しい人生がある。自分がすべきことは、追いかけて依存することではない。
太一は作業小屋へ走り、綺麗に洗った薄ピンクのタッパーを取り出した。そして、今朝収穫した中で一番丸々と実った、真っ赤なトマトと新鮮なキュウリを籠いっぱいに詰めた。
最後に、胸ポケットからペンを取り出し、添える紙切れに力強い文字でこう書き走らせた。
『どこに行っても、しっかりメシを食えよ。(太一より)』
初めて明かした自分の名前。それは、孤独の殻を破り、一人の人間として他者へ向けた、太一なりの最大のエールだった。
昼過ぎ。籠の中の野菜とタッパー、そして手紙は綺麗になくなっていた。
初夏の強い日差しが降り注ぐ畑で、太一は黙々と鍬を振るっていた。泥に汚れ、汗を流しながら土を耕す。
もう、以前のような投げやりな孤独感はなかった。どこかで彼女が自分の野菜を食べて笑っているかもしれない。そしてまた、誰かがこの道を通って、不格好な野菜を手にするかもしれない。
「人は一人じゃ生きられない、か」
呟いた太一の顔に、うっすらとした苦笑が浮かぶ。
あぜ道の少し離れた場所。古びた木陰で、ノコリは手元の日記帳に静かにペンを走らせていた。
『土の中で育つ野菜のように、人間の繋がりも見えないところで根を張っている。孤独を気取っていた男が遺したトマトの皮には、誰かを生かし、自分もまた生かされていたという温かい記憶の味がした。……まったく、人間ってやつは不器用で、どうしようもなく愛おしいね』
パタンと日記帳を閉じたノコリは、朝の光の中へと軽やかに歩き出す。
「さて……次はどんな残飯が、私を待っているのかな」
風に揺れる野菜の葉の音を残し、女神の姿は静かに消えていった。




