第16話 母が残した肉じゃがの味
白く無機質な天井を見つめながら、栞は目を覚ました。
消毒液の匂いが鼻をつく。ここは病院のベッドの上だった。事故に遭ったのか、あるいは行き倒れたのか、頭のなかは真っ白な霧がかかったように何も思い出せない。自分が誰で、ここで何をしているのかすら、名前以外の記憶が綺麗に抜け落ちていた。
「――栞、気がついたかい?」
しわがれた、しかし温もりのある声に促されて視線を横に向けると、そこには初老の女性が立っていた。深い皺が刻まれた顔に、泣き腫らしたような赤い目をしている。身元不明の少女を引き取る親族として駆けつけたという、祖母の秋絵だった。
血の繋がった家族なのだという。だが、栞の脳裏にはその顔に見覚えすらなく、どこか他人のように感じられて仕方がなかった。
「よかった……本当によかったよ……!」
秋絵は震える手で栞の肩を抱きしめようとしたが、栞は無意識に体をこわばらせて身を引いた。その警戒心に気づいたのか、秋絵は切なそうに微笑み、持ってきた手提げかごからタッパー容器を取り出した。
「お医者さんはね、脳の防衛反応で記憶が一時的に戻っているんだろうって言っていたよ。だから、焦らなくていいんだ。……ねえ、これ、おばあちゃんが作ってきたの。お前が昔、一番好きだったおかずだよ」
秋絵が蓋を開けると、ふわりと湯気とともに甘辛い醤油と出汁の香りが病室に広がった。
中に入っていたのは、ゴロゴロとしたジャガイモとニンジン、そしてしっかりと煮込まれた豚肉の――「肉じゃが」だった。
「ほら、温かいうちに食べな。一口でもいいからさ」
秋絵が差し出したプラスチックのスプーンには、タレがよく染みたジャガイモが乗せられていた。
だが、その肉じゃがを見た瞬間、栞のなかの何かが激しく警報を鳴らした。心臓が早鐘を打ち、冷や汗が背筋を伝う。理由は分からない。けれど、本能が叫んでいた。
――これを口にしてはならない。
――これを食べた瞬間、自分のなかに閉じ込めている「何か恐ろしい蓋」が外れてしまう。
「いらない……食べない」
栞は力なく、しかし拒絶するように首を横に振った。
「そうかい? でも、少しだけでも……」
「いらないって言ってるでしょ! どっかに行ってよ!」
感情のままに声を荒らげ、栞は秋絵の手を払いのけた。タッパーがガタッと音を立ててサイドテーブルの上で揺れる。
秋絵は悲しげに目を伏せ、「……そうだね、まだ無理もないよね。また後で来るよ」と静かに病室を去っていった。
静まり返った病室に、取り残された肉じゃがの匂いだけが漂い続けていた。
深夜。
病室の窓の外には、冷たい月明かりが夜道を照らしていた。
睡眠薬を飲まされていたはずなのに、栞は胸のざわつきに耐えかねてガバッと上体を起こした。頭が割れるように痛い。記憶喪失という名の「空白」の裏側で、自分の脳が必死に何かを隠そうとしているのが分かる。
親の反対を押し切って、愛する男と家を飛び出したこと。
けれど、その男にはすぐに捨てられ、見知らぬ街で路頭に迷ったこと。
実家に戻る勇気もなく、絶望のなかで中途半端な気持ちから手首を切ったが、死にきれずにこうして病院へ担ぎ込まれたこと。
忘れていたはずの記憶の断片が、夜の闇のなかでフツフツと輪郭を取り戻しつつあった。
思い出したくない。あんな惨めで、身勝手で、救いようのない自分の過去など、二度と直視したくなかった。だからこそ、自分の脳は「記憶喪失」という都合の良い防衛仮面を被り、現実から目を背け続けていたのだ。
「……美味しくなさそうな顔をして、せっかくのごちそうが泣いているねえ」
突如として、無人のはずの病室に、鈴を転がすような少女の声が響いた。
栞がハッとなって視線を向けると、窓枠のところに一人の少女が腰掛けていた。長めの栗色の髪をかすかに揺らし、フリルとリボンのついた、どこか現実離れした衣装をまとっている。栞と同じ年齢に見えるその少女。
——残飯の女神ノコリ。
深い色をした瞳で、サイドテーブルに置かれたままの肉じゃがの椀を見つめていた。
「な……あなた、誰……? ここは関係者以外……」
「ノコリ。ノコリでいいよ」
少女は軽やかに窓枠から飛び降りると、足音もなくベッドの脇へと歩み寄った。その瞳には、人間の怯えなどどこ吹く風といった、どこか冷ややかな好奇心が宿っている。
「記憶喪失のフリをして、本当は思い出すのが怖くて震えている。……人間って、どうしてこうも自分の都合のいいように現実から逃げたがるんだろうね」
「っ……! 私の何が分かるっていうのよ……!」
「何も分からないさ。ただ、そのおばあちゃんが置いていった肉じゃがが、あまりにも可哀想だと思っただけさ」
ノコリはそう言うと、躊躇うことなくサイドテーブルの肉じゃがの椀に手を伸ばし、その中からタレの染みたジャガイモの端切れを指先でつまみ上げた。
「やめて……それに触らないで……!」
「ダメ。残された理由を、ちょっと見せてもらうよ」
——魔法『残響』。
ノコリの指先がその小さな食べ残しに触れた瞬間、病室の空気が一変した。
ノコリの瞳の奥で小さな光が爆ぜ、『残響』の魔法が発動する。その冷えかけた肉じゃがの端切れに強く刻まれていた人間の記憶の断片が、強制的に引き剥がされ、その場にいる栞の脳裏へと雪崩れ込んできた。
温かい湯気の立つ台所。
まだあどけなかった頃、母が笑顔で「栞、大好物の肉じゃだよ」と椀を差し出してくれた日々。
そして、場面が残酷に切り替わる。家を飛び出した後の寒々しいアパートの一室。電話口で、すがりつくように母に謝ろうとしたが果たせなかった絶望。
さらに、その奥底にあった決定的な「事実」が、栞の脳裏に突き刺さる。
自分が家を出て自暴自棄になっていたまさにその時、残された母親は病に倒れ、自分の帰りを待ちわびながら、そのまま帰らぬ人となっていたという現実だった。
「あ……あぁ……っ!」
栞は頭を両手で抱え、ベッドの上で激しく身悶えた。
自分が母を捨てて男と逃げたこと。そして、自分が戻ることもなく、母がすでにこの世にいないという、二度と取り返しのつかない現実。
それを思い出すのが怖くて、彼女の脳は「記憶喪失」という嘘の防衛装置を作り上げ、すべてから目を背け続けていたのだ。
「見えたかい?」
ノコリは冷徹な瞳で、泣き叫ぶ栞を見下ろした。
「母親の愛も、自分が犯した過ちも、その全部から逃げるために記憶を捨てたフリをしていた。都合のいい記憶だけ残して、嫌なことは全部なかったことにするなんて、そんなの人格じゃないね。ただの臆病者の逃避だよ」
「うるさい……! 言わないで! そんなの知りたくなかった……!」
栞は涙をボロボロとこぼし、サイドテーブルの肉じゃがの椀を払い落とそうと手を伸ばした。
だが、ノコリはすっとその手を掴み、逃げることを許さない。
「捨てちゃいけない。それを捨てるってことは、お母さんがあなたに残してくれた最後の温度まで、自分でゴミ箱に捨てることと同じだよ」
「私は……私は親不孝者で……お母さんを殺したようなものなのに……こんなの、食べられるわけないじゃない……!」
栞の嗚咽が病室の壁に反響した。
自分が犯した罪の重さと、母を失った深い後悔が、胸を締め付けて息ができない。
忘れてしまえば楽になれたかもしれない。このまま空っぽのままでいれば、痛みに怯えずに済んだかもしれない。
だが、ノコリは静かに首を横に振った。
「美味しいとか、愛されているとか、そういう温かい記憶だけが人生じゃない。自分がしでかした過ちも、後悔も、全部ひっくるめて『あなた』なんだよ。……さて、どうするの? 目を閉じたまま生き続けるかい?」
ノコリはそれだけ言い残すと、ふっと身を翻し、夜の窓辺へと溶けるように姿を消した。
翌朝。
病室の窓から、柔らかな太陽の光が差し込んでいた。
栞はベッドの上に一人で座っていた。
昨夜の涙で目が腫れ、胸の痛みはまだ消えていない。母親がもういないという事実は、鉛のように重く、これからの人生をずっと苦しめ続けるだろう。逃げ出したい恐怖は今もある。
それでも、栞は震える手で、サイドテーブルに置かれたままの肉じゃがの椀を引き寄せた。
冷めきって、油が少し白く固まりかけている。
スプーンを手に取り、具材をすくい上げる。
あの日、母が作ってくれた味。そして、家を飛び出す前に食べた、最後のごはんの味。
「……いただきます」
掠れた声で呟き、栞はその肉じゃがを口へと運んだ。
醤油の甘辛さと、ジャガイモの柔らかな食感が広がる。それは紛れもなく、母の愛の味がした。同時に、自分が失ったものの大きさと、犯した罪の痛みが、涙と一緒に喉の奥へと流れ込んでいく。
苦い。けれど、確かに温かい。
もう逃げない。この味を忘れない。
栞は涙を拭うこともせず、二口、三口と、残された肉じゃがをしっかりと噛み締めながら食べ続けた。
病院の窓の外、通りを挟んだ向かいの電柱の影。
ノコリは手元に広げた使い込まれた古い日記帳に、静かに細いペンを走らせていた。
『人間の記憶は、時にあまりにも残酷にその人のかたちを作る。辛い現実から目を背け、記憶を閉ざすことで自分を守ろうとした少女の姿は、ひどく不器用で、哀しかった。彼女が食べた肉じゃがには、もう二度と会えない母親の温もりと、自ら背負うべき罪の味が混ざり合っていた。……まったく、過去を失うことで自分を守ろうとするなんて、人間ってやつは、本当に業の深い生き物だね』
パタン、と音を立てて日記帳を閉じると、ノコリは懐にそっと抱え直した。
病室の窓の向こうで、栞は自分の足で立ち上がり、未来へ向けて歩き出すための第一歩を踏み出そうとしていた。
決して平坦な道ではない。けれど、彼女のなかには確かな「自分」が戻ってきていた。
「さて……次はどんな残飯が、私を待っているのかな」
ノコリはふっと口角を上げると、朝の光のなかに軽やかに溶けるように、歩き出すのだった。




