第14話 正義の味
深夜のビジネスホテルの一室。窓の外では、アスファルトを叩く冷たい雨音が単調なリズムを刻んでいた。
薄暗い部屋の中で、青白い液晶画面の光だけが、男の興奮に歪んだ顔を照らし出している。フリーライターの修平は、ノートパソコンのキーボードを激しく叩き、画面に映し出された記事の下書きを眺めて、ふっと薄気味悪い笑みを漏らした。
「――よし、これで完璧だ」
画面のトップには、赤々と太い文字でこう踊っている。
『【独自スクープ】元殺人犯が営む郊外の定食屋の正体――世間を欺く隠れ蓑を暴く』
ここ数年、SNSや暴露系の動画配信プラットフォームでは、いわゆる「社会の不正を告発する正義の味方」たちが持て囃されていた。悪い奴らを暴き、世間に晒し者にする。その度に数万の「いいね」がつき、賞賛のコメントが殺到する。その甘美な快感に酔いしれて以来、修平にとっての「正義」とは、他人の秘密を暴いて優位に立つための最高の娯楽になっていた。
今回のターゲットは、郊外の寂れた住宅街にひっそりと佇む『みなと食堂』の店主・宗一だった。
かつて若気の至りで重大な罪を犯し、服役した過去を持つ男。現在は名前を変え、周囲には過去を隠して、ただ黙々と定食屋を営んでいるという。
「世間の人間はね、こういう偽善者が大嫌いなんだよ。お前が過去に何をしたか、全住民に教えてやる義務が俺にはある」
修平は独り言をつぶやきながら、取材の証拠品として店から持ち帰ってきたプラスチックの容器に視線を落とした。
そこに入っていたのは、夕方に宗一の店で食べた『豚の生姜焼き定食』の、ほんのわずかな食べ残し。
――豚肉の端切れと、タレが染み込んだキャベツの千切りだった。記事の説得力を高めるための「現場の証拠」として、密かに持ち帰ってきたものだ。
冷めきった生姜焼きの端切れから、微かに醤油と生姜の香りが鼻をつく。
公開ボタンを押せば、明日の今頃は自分はネットの英雄になっている。そんな妄想に浸っていた修平の背後で、突如としてカチャリと音がした。
「――へえ。それが、あんたの言う『正義の味』ってやつかい?」
泥棒でも入ってきたのかと、修平はびくりと肩を跳ね上げて振り返った。
ホテルの窓際、鍵の閉まっているはずの窓のすぐ内側に、一人の少女が腰掛けていた。長めの栗色の髪を揺らし、フリルとリボンのついた、どこか現実離れした衣装をまとっている。十六、七歳ほどに見えるその少女は、深い色をした瞳で、修平の手元のパソコン画面とプラスチック容器をじっと見つめていた。
「なっ……お前、誰だ!? どうやってここに入った!」
「ノコリ。ノコリでいいよ」
「ふざけるな! 警察を呼ぶぞ!」
「呼べば? でも、その前に自分のやってる事がどれほど滑稽か、考えたほうがいいんじゃない?」
——残飯の女神ノコリ。
ノコリは足のつま先をぽんぽんと揺らしながら、冷ややかに鼻で笑った。
不法侵入者のはずなのに、その圧倒的なまでの落ち着きと奇妙な雰囲気に、修平は気圧されて一歩後ずさる。
「おい、冗談はよせ。ここはプライベートな空間だ。すぐに出て行け、さもないと……」
「プライベート? 他人の秘密を暴いて、それをネットの娯楽に売り渡そうって人間が、よくそんなセリフ言えるねえ」
ノコリはひらりと窓枠から飛び降りると、足音もなく修平のデスクに歩み寄った。そして、修平が持ち帰ってきた『豚の生姜焼きの残飯』が入った容器を、指先でツンと突いた。
「これ、さっきの定食屋の残りだろ? 美味しく完食したわけでもない。ただの『ネタの道具』として雑に扱われた可哀想な生姜焼きだね」
「なんだと……! 勝手に触るな!」
修平が怒鳴り声を上げながら容器を引こうとしたが、より早く、ノコリの細い指先が生姜焼きの端切れにそっと触れた。
瞬間、部屋の空気が一変した。
ノコリの瞳の奥で小さな光が爆ぜ、不可視の波紋が広がる。
「っ……なんだこれ……!?」
修平は頭を殴られたような衝撃を受け、自分の意思とは無関係に、その場に釘付けにされた。
——魔法『残響』。
その冷えた食べ残しに刻まれていた人間の記憶の断片が、まるで映画のフィルムのように、修平の脳裏へと強制的に流れ込んできた。
もうもうと湯気が立ち上る厨房。
宗一が、荒れた手で必死に豚肉を炒め、タレを絡めている姿。
その額には脂汗が滲み、目は恐怖と後悔に怯えている。
『頼む……今日も何事もなく、ただ美味しいと言って食べてくれ……。俺が過去に犯した罪がバレたら、この店は終わりだ。でも、俺にはこれしか生きる道がない……。真面目に、ただ真面目に生きるから、どうか、神様……』
それは、世間に隠れてコソコソと悪事を働いている人間の顔ではなかった。
罪の十字架を背負い、二度と誰にも迷惑をかけまいと、怯えながらも包丁を握りしめ、客に差し出す一皿にすべての命をすり減らしている男の、剥き出しの執念と祈りだった。
「あ……あぁ……」
修平の額から冷や汗が伝う。
脳裏に響く宗一の震えた声は、ただ「静かに生きたい」と願うだけの、あまりにも切実なものだった。悪党でもなければ、面白半分で世間を欺いているわけでもない。ただ、一度犯した過ちの重さに押し潰されそうになりながら、それでも懸命に明日を繋ごうとしている、ちっぽけで必死な一人の人間の姿だった。
「見えたかい?」
冷ややかなノコリの声が、修平の現実を引き戻した。
ノコリは指先を離すと、呆然とする修平をまっすぐに見据えた。
「あの男はね、あなたみたいな奴に怯えながら、毎日必死に生きていたんだよ。それを『世間の知る権利だ』『正義の告発だ』って、よくそんな薄っぺらい旗を振れるもんだね」
「ち、違う……!」
修平は慌てて否定しようと声を震わせた。しかし、その声は自分でも驚くほど頼りなかった。
「俺は事実を伝えているんだ! あいつが過去に何をしたか、世間の人間が審判を下すのは当然の権利だろ! 俺は正義のために――」
「正義?」
ノコリはフッと鼻で笑った。その瞳には、憐れみですらなく、ただ純粋な軽蔑の色が浮かんでいた。
「自分は安全な場所から石を投げつけて、相手が血を流すのを見て喜んでるだけじゃないか。それは正義じゃなくて、ただの『私刑の快感』だよ。誰かを裁くことでしか自分の価値を感じられない、臆病者の暴力さ」
「うるさい! うるさいうるさい! お前に何が分かるんだよ!」
図星を突かれた恐怖と怒りに駆られ、修平は狂ったように叫んだ。
自分の正義を否定されることが、何よりも恐ろしかった。もしこれが正義ではなくただの暴力なのだとしたら、今まで自分がやってきたことのすべてが、ただの醜い悪行になってしまう。だからこそ、認めるわけにはいかなかった。
「俺は間違ってない……! 世間はこれを求めてるんだ!」
修平は震える手でマウスを掴むと、ノコリを威嚇するように睨みつけながら、パソコン画面の『投稿する』というボタンを力任せにクリックした。
――ピコン。
軽い電子音が、不気味に部屋に響く。記事が、全世界に向けて公開された瞬間だった。
「……やっちゃったね」
ノコリは静かに呟いた。
「あいつの怯えた祈りも、積み上げてきた居場所も、あんたのその軽い指一本で、明日には全部木端微塵に吹き飛ぶよ。それが、あんたの望んだ『正義』の結末さ」
「うるさい……出ていけ! お前なんか消えろ!」
修平が叫びながらデスクの上のものを払い落とすと、奇妙な少女はその場からふっと霧のように消え去った。
誰もいない静かな部屋。ただ、パソコンの通知音がパラパラと鳴り始めている。
投稿された記事は、予想通りの勢いで拡散していった。
『元殺人犯の定食屋』というキャッチコピーは、飢えた野次馬たちの格好の餌食となり、数分もしないうちに何千ものリポストと、罵詈雑言に満ちたコメントが殺到した。
「やっぱりな、人間のクズは一生クズだ」
「こんな店に金を使うな、今すぐ潰せ!」
「実名と住所を晒せよ!」
修平のスマホは、信じられないほどの勢いで震え続け、承認欲求を満たすための通知音が部屋を埋め尽くした。
勝った。自分の記事が社会を動かしている。自分が世界を裁いている。
そう自分に言い聞かせようとしたが、なぜか胸の奥の澱みは消えず、冷や汗が止まらなかった。先ほどノコリに見せつけられた、宗一の必死な祈りの残響が、呪いのように脳裏から離れない。
その時だった。
修平の手元のスマホが、それまでの通知音とは違う、甲高い緊急速報の音を鳴り響かせた。
大手ニュースサイトの速報テロップ。
そこには、信じがたい一文が表示されていた。
『――本日深夜、都内郊外の定食屋店主が、店舗兼自宅の敷地内で首を吊って死亡しているのが発見されました。警察は自殺と見て調べています。直前にSNS上で過去の経歴に関する暴露記事が拡散されており、関連を慎重に捜査……』
スマホの画面から、音の光がスッと消え去った。
修平の顔から血の気がサーッと引き、全身の血液が凍りついたように動かなくなる。
「うそ……だろ……?」
自分が書いたたった一つの記事が、たった数時間で、生きて償おうとしていた一人の人間の命を完全に断ち切ってしまった。
殺した。
自分が、あの男を殺したのだ。
「いや……違う、俺はただ事実を……正義の告発を……!」
震える声で言い訳しようとしても、部屋には誰もいない。称賛のコメントで溢れていたはずの通知欄は、今はただ、自分が引き起こした取り返しのつかない現実の重みを突きつけるだけの、冷たい凶器と化していた。
逃げ場など、どこにもなかった。
自分の手で他人の人生を破壊したという消えない事実と、誰も救ってくれない底知ぬ孤独の闇が、音もなく修平の喉元に冷たい手を伸ばしていた。
冷たい雨が上がり始めた夜明け前。
街灯の明かりがまばらに光る公園のベンチに、ノコリの姿があった。
その手には、使い込まれた古い日記帳が開かれている。ノコリは静かに細いペンを走らせ、今夜の出来事を綴っていった。
『人間は、正義という都合の良い旗を掲げた時が一番残酷になれるらしい。他人の秘密を暴いて快感に浸る男の姿は、あまりにも醜く、そして哀れだった。彼が残した生姜焼きの端切れには、怯えながらも生きようとした男の祈りと、それを踏みにじった者の深い後悔の味が混ざっていた。……まったく、正義の味気ってのは、どうしてこうも血の味がするんだろうね』
パタン、と音を立てて日記帳を閉じた。
遠くの空が、白み始めている。
彼女は振り返ることなく、人間の業がうごめく街のなかに身を投じるように、また軽やかな足取りで歩き出すのだった。
「さて……次はどんな残飯が、私を待っているのかな」




