第13話 焦げ付いた卵焼きの味
白々しい朝の光が、散らかり始めたリビングのカーテンの隙間から差し込んでいる。ダイニングテーブルの上には、昨日コンビニで買った惣菜のプラスチック容器がそのまま放置され、流し台には昨晩からの洗い物が山のように積み上げられていた。
「くそっ……なんだよ、これ……」
三十八歳の会社員・伊達健司は、フライパンの前で油まみれの菜箸を持ったまま、渋面を作っていた。
フライパンの底にこびりついているのは、黄色というよりもはや炭のように黒ずんだ何かだった。卵を割り入れ、塩コショウを振って、ただそれだけをしようとしたのに、気がつけば卵は無惨に破れ、あちこちが黒焦げになってフライパンに張り付いている。
火加減の調整なんて知ったことではない。ただなんとなくコンロのつまみをひねり、放置した結果がこれだ。
「ふざけやがって……料理なんて、才能がなきゃできないのかよ」
健司は舌打ちをすると、フライパンをシンクに放り出し、ヘラで削ぎ落とした黒焦げの卵焼きを無造作につかんで、生ごみの入ったゴミ箱へと投げ捨てた。
ドサッ、と乾いた音が、静まり返った家の中に虚しく響く。三日前、母親が自宅の階段を踏み外して足を骨折し、そのまま入院した。さらに悪いことに、来月に結婚を控えていた妹の美咲が、これを機にとばかりに荷物をまとめて実家を出て行ってしまったのだ。
「お母さんの入院もあるし、私、もう向こうの家で暮らすから。お兄ちゃん、いい加減自分のことは自分でやってよ」
そう言い残して、妹は去っていった。残されたのは、一人きりの実家と、家事など一度もまともにやったことのない健司だけだった。
会社に行けば、ちょっとした書類のミスは同僚の佐藤が「俺が直しておきますよ」と黙って尻拭いをしてくれる。家では母親が温かい朝食を用意し、シャツのアイロンまでかけてくれていた。金銭面でちょっとしたトラブルが起きれば、しっかり者の美咲が間に入って解決してくれた。
「俺だって毎日会社で頑張ってんだよ。みんな勝手にやってるだけで、俺が頼んだわけじゃないだろ」
そうやって文句を言いながら、健司はこれまで「甘やかされている自覚のないまま」、すべてを周囲に背負わせ続けて生きてきた。
しかし、その安全なぬるま湯は、突然音を立てて消え去った。誰も助けてくれない。誰も自分の代わりに尻拭いをしてくれない。そんな現実を突きつけられた朝の最初の失敗が、あの黒焦げの卵焼きだった。
「……で、そんな見事な失敗作を、あっさり捨てちゃうわけだ」
背後からかけられた唐突な少女の声に、健司はびくりと肩を跳ね上げた。振り返ると、いつの間にかキッチンの勝手口のあたりに、見慣れない少女が立っていた。
——残飯の女神ノコリ。
栗色の長髪を揺らし、フリルとリボンのついた、どこか浮世離れした衣装をまとっている。十代半ばにも見えるその少女は、深い色をした瞳でゴミ箱の中をじっと覗き込んでいた。
「な、なんだお前は……! 勝手に入ってくるな、不法侵入だぞ!」
「ノコリ。ノコリでいいよ」
「そういう問題じゃねえよ! お前、どこから入ってきた……って、警察呼ぶぞ!」
「呼べば? でも、その前に自分の朝ごはんの心配をした方がいいんじゃない?」
ノコリと名乗った少女は、ひょいと軽やかな足取りでシンクの脇に歩み寄り、ゴミ箱の蓋を指先でちょんと開けた。そこには、先ほど健司が投げ捨てた黒焦げの卵焼きが無残に転がっている。
「それ、本当に必要で買った卵なんでしょ? 割る時はあんなに勢いよかったのに、焼き始めた途端に放り出してさ。もったいないっていうか、雑すぎない?」
「うるせえな! 失敗したから捨てたんだよ! 文句あるか!」
「文句というか、気になっただけ。その卵がどんなふうにフライパンに投げ込まれて、どんな気持ちで捨てられたのか……ちょっと、見せてもらうよ」
ノコリはそう言うと、躊躇うことなくゴミ箱の中に手を突っ込み、あの黒焦げになった卵焼きの端切れを指先でつまみ上げた。
「おい、汚いから触るな……っ!」
健司が止めようとした瞬間、ノコリの瞳の奥で小さな光がぴしゃりと瞬いた。
——魔法『残響』。
瞬間――キッチンの空気が冷たく張り詰める。
『お兄ちゃん、またこれ出しっぱなし!』
『なんだよ、それくらい自分でやれよ!』
『健司、仕事でミスしたって本当かい? まったく、うちの子は手がかかるんだから……』
『俺だって大変なんだよ! お前らが勝手にやってるんだろ!』
ノコリの指先から流れ込んだ『残響』の記憶が、健司の脳裏に直接叩きつけられた。それは、健司がこれまで家族や同僚に対して吐き捨ててきた身勝手な言葉の数々と、それを受け止めて溜息をついてきた周囲の疲れ果てた背中の記憶だった。
自分が「被害者」だと思っていた景色が、全く違う角度から残酷に浮かび上がる。 自分が面倒なことから目を背け、すべての責任を他人になすりつけてきたという現実が、音と温度を伴って脳裏を駆け巡った。
「っ……あ……これは……」
健司はその場に膝をつき、頭を抱えた。卵の焦げ臭さの奥から、言い訳ばかりを重ねてきた自分の醜い姿が溢れ出してくるようだった。
「捨てた理由は、失敗したからじゃない。向き合うことから逃げたからだね」
ノコリは冷ややかな目を向けたまま、黒焦げの卵を再びゴミ箱に落とした。
「人間って、おかしな生き物だよね。自分の尻尾を踏まれても痛みに気づかず、誰かが代わりに怒ってくれるのを待っている。……さて、どうするの? これからも全部、誰かに片付けてもらうつもり?」
「うるさい……! お前に何が分かるんだよ! 俺だって好きでこうなったわけじゃねえよ!」
健司が怒鳴り声を上げると、ノコリはふっと鼻で笑った。
「私は何も分からないさ。ただ、見えているものを言っただけ。選ぶのはあなただからね」
それだけ言い残すと、ノコリはまるで蜃気楼のように、ふわりと視界から消え去った。誰もいない静かなキッチン。残されたのは、冷めかけた部屋と、自分の足元に転がっている不格好な現実だけだった。
その日の夜。仕事のほうも散々だった。いつもなら同僚の佐藤が直してくれていた書類のミスをそのまま提出してしまい、直属の上司からこってりとしぼられた。
頭を下げ通しだった疲労と屈辱感にまみれ、健司はよれよれのスーツ姿でトボトボと実家に帰ってきた。電気のついていない暗いリビング。冷蔵庫を開けても、あるのは昨日の残り物か、一人では食べきれない食材ばかりだ。腹は減っているのに、何を作ればいいのか分からない。
ふと、心細さとどうしようもない情けなさが胸の奥から込み上げてきた。
「……もう、嫌だ……」
誰かに縋りたい。甘えたい。健司はポケットからスマートフォンを取り出し、アドレス帳を開いた。そして、実家を出て行ったばかりの妹・美咲の名前を指でタップする。
――今すぐ助けてほしい。母さんの病院のこととか、家のこととか、全部教えてくれ。そう泣き言を言えば、美咲は呆れながらも、いつものように面倒を見てくれるかもしれない。新婚生活を始めている妹に迷惑をかけることなど、その時の健司の頭からはすっかり抜け落ちていた。コール音が、耳元で虚しく響く。
『お兄ちゃん? どうしたの、こんな時間に』
電話の向こうから、少し戸惑った美咲の声が聞こえた。その向こうで、夫の優しい声や、新しい生活の気配が微かに伝わってくる。
その瞬間、健司の脳裏に、今朝ノコリに見せつけられた記憶の残響と、自分の醜い依存心がフラッシュバックした。
(俺は……また、こいつに尻拭いをさせようとしているのか……?)
美咲は自分の人生を歩み始めている。母は病院で痛みに耐えている。それなのに、三十八歳にもなった男が、ちょっと仕事で叱られたからといって、すべてを妹に投げ出そうとしている。
『――お兄ちゃん? 聞こえてる?』
「……いや」
『え?』
「なんでもない……。ちょっと、かけ間違いだ。じゃあな」
健司は返事を聞くこともなく、乱暴にスマートフォンの画面をタップして通話を切った。ガタッと、自分の手が微かに震えている。
「ふざけんなよ……俺は……俺は……!」
スマホをソファに投げ出し、健司は顔を両手で覆った。情けなくて、涙が出そうだった。誰も助けてくれない。誰も優しく慰めてくれない。自分の不始末は、すべて自分で引き受けなければならない。
その冷たい事実に直面して、逃げ出したい衝動が全身を駆け巡った。だが、逃げる場所はもうどこにもなかった。健司は大きく息を吸い込むと、バッと顔を上げた。
「……やるしかないだろ、くそっ!」
健司は立ち上がり、明るいリビングの照明のスイッチを叩いた。そのまま散らかり放題になっていたダイニングテーブルへと向かい、昨日からの弁当容器を一つずつゴミ袋に集めていく。続いてシンクへ向かい、放置されていたフライパンや食器に洗剤を染み込ませたスポンジを当てた。
手際なんて悪い。泡があちこちに飛び散り、スーツの袖が濡れていく。要領も悪ければ、仕事のようにうまくなど到底いかない。途中で何度も手が止まり、ため息が漏れそうになった。それでも、健司は手を動かすのをやめなかった。
誰かに尻拭いをしてもらう人生は、今日で終わりだ。たとえ泥臭くても、不格好でも、自分の失敗は自分で片付ける。母親が退院して帰ってきたとき、「おかえり」と胸を張って迎え入れられるように、まずはこの散らかった家を、自分の手で整えてやる――。
夜の帳がすっかり下りた頃。
静まり返った家の外の路地裏で、ノコリは足元を照らす街路灯に寄りかかっていた。その手には、使い込まれた小さな日記帳が開かれている。ノコリは細いペンを走らせ、静かに文字を綴った。
『人間の自立とは、最初から完璧にできることではないらしい。失敗して、言い訳して、泥を被って、それでもようやく自分の足で立とうとすること。今日出会った男は、とても不器用で、見ていて呆れるほど情けなかった。だけど、その焦げ付いた卵焼きの匂いには、少しだけ「明日へ進むための熱」が混じっていた。……まったく、人間ってやつは、遠回りばかりする生き物だね』
ノコリはパタン、と日記帳を閉じた。
伊達家の窓明かりからは、ガシャガシャと食器を洗う不器用な物音と、時折聞こえる「ちっ、また水が跳ねたかよ!」という悪態交じりの声が漏れてきている。決してスマートではない。だけど、その家には確実に、自分の足で歩き出そうとする人間の足音が響いていた。
「さて……次はどんな残飯が、私を待っているのかな」
ノコリは夜風に長い髪を揺らしながら、軽やかな足取りで暗闇のなかへと歩き出していくのだった。




