第12話 冷めない幻の食卓
山あいを縫うように走る県道は、陽が落ちたと途端に漆黒の闇へと姿を変えた。
秋の冷たい風がライダースジャケットの隙間から侵入し、康太の体を芯から冷やしていく。連休を利用した一人きりの日帰りツーリング。時間を忘れ、気ままにアクセルを捻り続けた結果がこれだった。スマホの画面を見下ろしても、圏外を示す無慈悲なピクトグラムが点滅しているだけだ。街灯すらない山道で、頼みの綱のナビゲーションも沈黙していた。
「嘘だろ……こんなところで立ち往生かよ」
心細さに駆られながらバイクを走らせていた康太の視界に、ふと、薄暗い木立の隙間から漏れる橙色の明かりが飛び込んできた。
古びた和風の建物。掲げられた木彫りの看板には、『民泊 つつじ荘』と微かに読み取れる文字が刻まれていた。すがるような思いでバイクを寄せ、玄関の引き戸を叩くと、すぐに人の気配がした。
「はい、どちら様――おや、こんな夜遅くに珍しいですねえ」
姿を現したのは、年の頃なら六十代半ばほどだろうか。皺の刻まれた温和な顔立ちの男
――主人の恒夫だった。事情を話し、泊めてほしいと頼み込むと、恒夫は困ったような、しかしどこか嬉しそうな複雑な笑みを浮かべて、すぐに康太を迎え入れてくれた。
通された居間には、囲炉裏端を中心に据えた昭和の香りが色濃く残っていた。
だが、康太が息をつく間もなく、奥から女主人の玉枝が現れて目を丸くした。その手には、まるで何人もの客を招くかのような、信じられないほど大量の料理が乗ったお盆が握られていた。
「まあ、お腹が空いているでしょう。冷めないうちに召し上がってくださいね」
並べられた料理の数々は、民宿の域をはるかに超えていた。山菜の天ぷら、大鍋いっぱいの煮物、塩焼きの鮎、さらに大皿に山盛りの唐揚げ。一人の人間が到底食べ切れる量ではない。康太が気圧されていると、玉枝は目を細め、どこか遠くを見るような優しい視線を康太に向けた。
「たくさんお食べ。うちの子もね、食べるのが大好きだったんですよ」
その夜、康太は恒夫から、二人きりの時に重い事実を告げられた。
玉枝は一年前、一人息子の恵一を交通事故で亡くしたのだという。恵一の年齢、体型、そしてどこか面影の残る顔立ちが、目の前に現れた康太と重なってしまったのだと。
「すまないねえ、気味が悪かったろう。あいつはまだ、息子の死を受け入れられられなくてね……」
「いえ……そんな、気味悪いだなんて……」
両親を早くに亡くし、天涯孤独の身として生きてきた康太にとって、誰かに「おかえり」と言われる温もりは、長年飢え続けていた麻薬のようなものだった。自分を待ってくれている人がいる。その心地よさに浸りたいという誘惑が、康太の正しさを少しずつ麻痺させていく。
「あの……僕でよければ、しばらく息子のふりをしましょうか?」
ふと、口をついて出た言葉に、恒夫は息を呑んだ。
それがどれほど危険で、残酷な欺瞞の始まりであるかを、その時の康太はまだ知らなかった。
深夜。すっかり静まり返った『つつじ荘』の居間。
誰もいなくなった食卓の上には、夕食で残された大量の料理が、手つかずのまま冷めていっていた。湯気を失った煮物、油が固まりかけた唐揚げ。人間の欲望と執念が混ざり合った異様な気配に引き寄せられるように、暗がりの中から一人の少女が姿を現した。
——残飯の女神ノコリ。
栗色の長髪を揺らすノコリは、足音もなく畳の上を歩くと、大皿に残された冷え切った唐揚げの端切れにそっと指先を触れた。
「……ふうん。すごいごちそうだねえ。でも、なんだか全然おいしそうじゃない」
ポツリと呟いたノコリの声に、暗闇の隅で浅い眠りについていた康太がハッと目を覚ました。布団から起き上がり、電気の消えた居間に佇む奇妙な少女の姿を認めて、康太は警戒心を露わにする。
「なんだお前は……? こんな時間にどこから入った!」
「夜更かしは肌に良くないよ、お兄さん。それより、その目の前にあるごちそうを見なよ」
ノコリは冷え切った唐揚げの皿を顎でしゃくった。康太がぎょっとしながら視線を向けると、ノコリは不敵な笑みを消し、冷ややかな瞳で康太を見据えた。
「あんた、あの夫婦に気を使って息子のふりをしているんだってね。優しいつもりかもしれないけど、それ、一番やっちゃいけないことだよ」
「なんだと……お前に何が分かる!」
「分かるさ。見るからね、私は」
ノコリはスッと歩み寄ると、冷え切った唐揚げの端切れに再び指先を触れさせた。そして、呆然とする康太の手を半ば強引に引き寄せ、その冷たい唐揚げの上に重ねさせた。
——魔法『残響』。
「っ……冷た……これは……?」
「ほら、目を閉じて感じてみなよ。この料理に染みついた、本当の『残響』をさ」
瞬間、康太の脳裏に、強烈な幻覚のような記憶の奔流が流れ込んできた。
それは、夜な夜な台所で包丁を握る玉枝の姿だった。彼女の目は血走り、唇はぶるぶる震えている。
――『これを作れば、恵一はきっと戻ってくる……。そうだね、恵一、お腹が空いているんだろう……?』
――『よその子が何と言おうと、私には分かる。この子こそが、私の可愛い恵一なんだ……!』
それは優しさでも愛情でもなかった。現実の死を受け入れることを拒絶し、歪んだ妄想のなかにすがりつく、おぞましいまでの執着と狂気の記憶だった。
康太が作り笑いで受け取っていたその温もりは、玉枝の心を現実から永遠に切り離し、終わらない悪夢のなかに閉じ込めるための「毒」にほかならなかったのだ。
「あ……あぁ……っ!」
康太は頭を抱え、その場に崩れ落ちた。指先から伝わってきたのは、温かい母親のぬくもりなどではなく、底知れない狂気の冷たさだった。
「残した理由は、愛情のつもりかい。でも、これじゃお互いを殺し合っているようなものだね。人間って、どうしてこうも自分の都合のいい嘘にしがみつくんだろう」
ノコリは冷ややかにそう言い放つと、ふっと息をついた。
「私は正解を教えてあげるためにここにいるわけじゃない。ただ、見えている現実を教えてあげただけさ。さて……どうするの、お兄さん」
それだけ言い残すと、ノコリはまるで最初からそこにはいなかったかのように、闇のなかにスッと溶けるように姿を消した。
翌日からも、奇妙な共同生活は続いたはずだった。
しかし、昨夜ノコリに見せつけられた「残響」の呪縛は、康太のなかで重い鉛のように沈み込んでいた。
「恵一、今日も仕事かい?」
「あ、ああ……ちょっと行ってくるよ、母さん」
食卓には相変わらず、食べきれないほどの贅沢な料理が並ぶ。玉枝は変わらず優しい笑顔を向けてくれるが、昨夜の記憶を覗いてしまった康太には、その笑顔が恐ろしい仮面のようにしか見えなかった。
自分がここにいればいるほど、玉枝は現実から遠ざかっていく。分かっているのに、いまさら「僕は恵一じゃない」と言い出す勇気が出ない。自分を必要としてくれる居場所を失いたくないという醜いエゴが、康太の足を縛り付けていた。
そして、夫である恒夫もまた、その崩壊を止めようとはしなかった。
恒夫は、精神を病んだ妻が壊れていく現実から目を背け、康太という「身代わり」を置くことで、平穏を偽装しているにすぎなかったのだ。夜の縁側で、恒夫は情けない声で康太にすがりついた。
「なあ、康太くん……もう少しだけ、このままでいてくれないか。あいつの、あの笑顔をもう少しだけ見させてくれ……」
誰も悪くない。誰もが優しさを履き違え、誰もが現実から目を背けている。
だが、その歪んだ均衡は、限界を迎えていた。
数日後の夕方。康太は自分のなかの限界を悟り、震える声で重い口を開いた。
「……母さん、もうやめにしよう。僕は恵一じゃない。本当の恵一は、一年前の事故で……もういないんだよ」
その瞬間、ちゃぶ台の上の空気が凍りついた。
玉枝の手から、湯飲みが滑り落ちて床で派手に砕け散る。
「なにを……言ってるんだい、恵一……?」
「僕は康太だ。通りすがりの旅人なんだよ。いつまでもここにいるわけにはいかないんだ!」
玉枝の顔から血の気がサーッと引いていく。彼女のなかで積み上げられていた砂の城が、一瞬で音を立てて崩れ去った。
「嘘だ……嘘だ嘘だ嘘だ!! お前は私の恵一だよ! 私を置いてどこに行く気かい! 行かないでくれ!!」
玉枝は発狂したように叫び声を上げると、目の前にあった大皿の煮物を力任せに床へと叩きつけた。ガシャンと音を立てて、大量の煮物が畳の上に飛び散り、茶色い汁が広がる。
「母さん、落ち着いてくれ!」
「嫌だ! 私の恵一を返しておくれ! お前があの子を殺したんだ! うちの子を返してよお!!」
パニックに陥った玉枝が、康太の胸ぐらを掴んで激しく揺さぶる。その瞳に映るのは、愛しい息子ではなく、自分を絶望の淵に突き落とした「裏切者」の姿だった。
横で見ていた恒夫は、ただ頭を抱えて震えるだけで、止めに入ることもできない。
地獄のような光景のなかで、康太は悟った。
自分の偽りの優しさは、この夫婦を救うどころか、現実と向き合う最後の機会を奪い、傷口に塩を塗り続ける猛毒でしかなかったのだと。
「……ごめんなさい」
康太は玉枝の手を振り払い、その場から逃げ出すように玄関へ走った。
「恵一――っ!!」という背中を突き刺すような絶叫を背に受けながら、康太は靴も履き違えたまま、外の闇夜へと飛び出した。
夜の帳のなか、遠ざかっていくバイクの排気音を聞き届けながら、ノコリは古びたベンチに腰掛けていた。
その手には、使い込まれた古い日記帳が開かれている。ノコリは小さなペンを走らせ、静かに文字を綴った。
『人間の優しさは、時として一番残酷な刃になる。救いたいという願いが、相手から現実を奪い、共依存の沼へ沈めることもある。傷ついた心を癒やすのは偽りの温もりではなく、冷たい現実を受け入れる痛みでしかない。……まったく、面倒くさい生き物だね、人間ってやつは』
ノコリはパタン、と日記帳を閉じた。
『つつじ荘』の窓明かりを、ノコリは振り返ることもなく通り過ぎる。
その奥の部屋では、床に散らばった無数の残飯のなかで、玉枝が壊れた人形のように虚空を見つめ、もう二度と帰らない息子の名を狂おしく呟き続けている。そして恒夫は、崩れ落ちた妻の傍らで、ただ老いていく絶望のなか、無言のまま膝を抱えていた。
甘い幻想の食卓は冷めきり、そこにはただ、取り返しのつかない現実の冷たさだけが残されていた。
ノコリは夜風に長い髪を揺らしながら、次に「残された残飯の記憶」を求めて、また静かに歩き出すのだった。




