9、慟哭~春の終わりを告げる魂の声~
弁慶の記憶探しを始めて二週間が過ぎた。
彼の記憶に繋がるような出来事は起きていない。
だけど、私と彼の共同生活は充実したものへと変異していた。
たとえ春が終わっても……彼が記憶を取り戻したとしても一緒にいたい。
そう考えるくらいには、私は彼の肉欲に溺れていた。
その日は朝から雨が降り続き、道路のあちこちに大きな水溜まりを作っていた。
終局へと向かっている春が悲鳴を上げている。私はオレンジ色の傘を手に分厚い雲が覆う街を歩き、いつものように満員電車に乗り込んだ。
ジメジメとした湿気の強い大気がさらに満員電車の居心地悪さに拍車をかけていた。
隣に立つスーツ姿の男性が持つ濡れた傘がレディーススーツに接触し、容赦なく水滴を擦り付けていく。
営業用に使用しているスーツには撥水性のある素材が使われているとはいえ、物には限度がある。
私は必死に避けようとするけど、密着した体勢では抵抗すればするほど、被害は拡大してしまう。
結局は揺れる車内の中で我慢をして待ち続けることしか出来なかった。
昼休み、また咲楽から今度こそ遊びに行くからと絵文字とスタンプ付きで連絡が入っていた。
仕事が遅くなるからダメと返信を送ったが、今回は既読すら付かなかった。
この短期間で、ここまで何度も連絡が来ること自体、珍しい。
女の勘だろうか。不審な言動を取ったつもりはないけれど、怪しまれているのかもしれない。
早く、弁慶の記憶を取り戻してあげないと。私はそう考えを改めて午後の仕事に戻った。
降り止まない雨が、残業時間に入っても続いていた。
真っ暗になった外の景色を眺め、胸騒ぎがした私は何とか上司に言い訳を付けて会社を後にした。
泥濘んだ地面が走りたい衝動を許さない。こんな時にヒールの付いた靴を履いて来るなんて判断ミスもいいところ。
電車に乗り込み、到着を待っている頃には余計な疲労感でいっぱいになっていた。
咲楽に電話を入れることも考えたが、余計に疑われることを恐れ、私はとりあえず家路を急ぐことにした。
アパートに到着すると、玄関扉が僅かに開いていた。
嫌な予感がびっしりと私の全身を覆い尽くしていく。
時間を掛けたところで何も変わりはしない。
傘を仕舞ってドアノブを掴み、私は勇気を出して扉を開いた。
そこでは、三年の月日を経て、かつて愛し合った二人が既に対面を果たしていた。
「……姉さん、どうして克也がここにいるのか、説明して頂けますか?」
血走った眼をした咲楽が帰宅したばかりの私を射抜く。
瞬間、雷鳴が轟き、逃げ出したい衝動に駆られる私を怖気付かせた。
もう少し、もう少しと結論を先延ばしにしてきた私の甘えが招いた切迫した状況。
頭が真っ白になって、何を言っていいのか分からない。
きっと、どんな説明をしたとしても咲楽は納得したりしないだろう。
怒りに震える咲楽の姿を見れば明らかだった。
「ずっと怪しいと思って、いざ家に来てみたらこのざまですか。私に隠し事をして、克也を奪って、姉さんは最低のクズです」
そんなことは最初から知ってる。そう言い返す気力もなかった。
弁慶がどんな返答を咲楽に対してしたのか、想像も付かないけど、咲楽の矛先は私に向けられている。
咲楽はきっと、もし彼が戻って来てくれたとしても、私を許しはしないだろう。
万事休す、敗戦濃厚な状況でどんな手を繰り出したって覆すことは出来ない、出血を広げるだけだ、どうすることも出来ない。
さらにもう一度、大きな雷鳴が響くと同時、二人に背中を向けて、靴も履かずに私は部屋を飛び出した。
雨の中をひたすら走る。今の私は、死にたいと思って自殺をした克也の心境と同じだ。
靴下がびしょ濡れになり、アスファルトを踏む両足が痛みを訴え続ける。
もう涙で前が見えないのか、雨に降られて見えないのかも分からない。
息を切らしたまま遮断機が降りた踏切に入る、もうすぐ電車がやってくる。
これで二人は幸せになれてハッピーエンドだ。
ぐちゃぐちゃになった頭の中でそう考えた瞬間、電車が私をぐしゃぐしゃにするより先に、強い力で突き飛ばされた。




