10、春の灯火
家族の下を離れ、これまでずっと一人で生きてきた。
毎日仕事に行って、営業先でご機嫌伺いをして門前払いされることにも耐えて、嫌味を言う上司の言動に耐えて、飲み会でのセクハラを我慢して、自分に出来ることを精一杯やって、懸命に生きてきた。
少しくらい、良い思いをしたって罰は当たらないはず……。
そう思って、彼を抱き続けたツケが今になって巡ってきた。
何処まで行っても、妹のように器用に生きることは出来ない、情けない自分だった。
「どうして死なせてくれないの?!」
身体を抱きしめ一緒に倒れ込んだ私の身体を起こそうとする弁慶に、私は怒鳴りつけた。
雨に濡れたコンクリートの地面に接触した左腕が痛む。
でも、それ以上に私を追い掛けてきた弁慶を前に泣きそうになった。
「記憶を思い出しました。不甲斐なかったのは俺の方です。ずっと二人に哀しみを背負わせ続けてきた。だから、俺は過去を清算するために、桜の精になったんです」
「そんなこと突然言われても、分からないわよ! 私の罪は消えはしないのよ! 克也なら咲楽の傍にいなさいよ! 咲楽は貴方の彼女でしょ?!」
克也を突然喪った、咲楽の気持ちも分かるから、私は叫んだ。
記憶を取り戻したのなら一層、咲楽と一緒になるべきだと私は思ったからだ。
「いいえ、咲楽には別れを告げてきました。俺は咲楽の作家にはなれない。もう、咲楽が望むような物語を作ることは出来ないから」
「どうして、そんな馬鹿なことをするのよ……」
ずっと蓋をしていた記憶が次々に蘇り、身体が震え上がる。
私は彼の言葉に涙が止まらなかった。
克也は遺書の中で、どうしようもない程に書けなくなり、筆を折ることにしたと書き記していた。
それは咲楽のせいではなく、自分自身の驕りであったと。
咲楽が喜ばせるために、作品を生み出し続けてきた克也の限界。
それが如何なるものであったかは、私程度では想像も出来ない。
しかし、彼の言動を聞く限り、遺書の内容は噓八百ではないようだ。
それが咲楽と別れる理由になるのなら、こんなに悲しいことはない。誰の幸せにもならないことだ。
「じゃあ、貴方は咲楽に別れを告げるためにここまで来たっていうの?」
「はい。咲楽にはちゃんと別れを告げられましたから、これで俺の未練はなくなりました」
「そんなの、あの子が納得するわけないでしょ?!」
「だとしても……記憶を取り戻して未練を果たしてしまった以上、俺はもう、長くありませんから」
それは一体……何のための再会だというのか。
自殺に至った真相を伝え、咲楽を幸せにするために帰って来てくれたというなら納得できる。
でもこれは……何の救いにもなっていないと、私は悲しみに震え、彼のシャツをギュッと握った。
「だったら……私を追い掛けなくたってよかったじゃない…!!
何でこんな、余計なことをするのよ!!」
「余計なことなんかじゃありません。好きな人に好きと言えないまま消えるなんて、俺には出来ません」
涙と雨で濡れた私の顔面に近づく、何かに解き放たれたかのような表情をした克也。
私と彼の唇が重なり、猛スピードで電車が背後を通り過ぎていく。
柔らかく激しく心を震わせる、唇の感触。
段々と光に包まれていく、克也の身体。光の中には無数の花びらが舞っていた。
「悲しい別れを告げるために降りてきた精に、幸せな記憶をありがとうございました。好きです、佳織さん」
「克也君!! 私も、私も好きよっ!! 私の初めてを奪ったんだから、忘れないでよっ!!」
やがて光は柱となって、克也の身体ごと天に消えて行く。後に残された私は手を伸ばして、虚空を掴んでいた。
*
――翌年、光射す季節を告げる、春日花抄。
神木と呼ばれた桜の木の下で、失われた日々に想いを馳せる。
太い幹に背中を預け、耳をすませれば聞こえてくる、櫻の声。
それは、愛を教えてくれた貴方と紡いだ、永遠に通ずる光の柱。
「本当に……責任を取りなさいよね、貴方のせいで子どもに弁慶って名前を付けることになった、私の不幸を」
桜の木の下で懐かしい笑顔を思い出し、愚痴をこぼす。
あの日以来、克也君は光の中に消えてしまい、姿を消してしまった。
後から追い掛けてきた咲楽は私を見つけて首根っこを掴み、克也君は何処に行ったのかとしつこく問い詰めてきた。
私は光の中に消えていったと正直に言っても信じない咲楽に適当に修羅場が嫌になって逃げだしたんでしょ? と投げやりに言った。
雨に打たれる私の頬に馬場チョップが飛んできた。
とんでもなく痛い一撃。散々な有様だった。
そして、結局克也君は今日まで姿を現すことはなかった。
ずっと二人の惚気話を聞かされてきた江戸彼岸の巨木が叶えてくれた奇跡、今ではそんな風にあの日々のことを考えている。
桜の精となって気付いたのだろう、自ら命を絶つという、大罪を犯した自分の愚かさを。
だから春になる度に、願い続けた……一度でもいいから直接会って、咲楽に別れを告げたいと。
願いが叶ったのだから……消えるのは当然だ。
受け入れたくないけど、納得はしてる。
でも、ここに来ればまたいつか、彼に会える気がしている。
だってあいつは、未練がましい奴だから。
そうだ、私は散々克也君に好き放題されて、愛されてしまった。
櫻の下で恨み言を続けたって、罰は当たらないだろう。
光射す季節を告げる、春日花抄。
私は待ち続ける……春の訪れと共に。
世界で一番愛した男との間に出来た、弁慶と名付けた子どもと共に。




