2、からっぽの途中下車
「……少しだけ、行ってみようかしら」
時折、不規則に揺れる車内。懐かしい思い出に浸っていた私は目を開き、心の中で独り呟いた。
染井吉野よりも少し早い時期に開花を迎える江戸彼岸。東京方面に多く栽培され、彼岸の頃に咲くため名付けられた名称だ。
面倒なことに次の営業先に向かうまで二時間近い猶予がある。
大した給料も貰っていない営業職の一社員程度、誰も監視していないのだから、退屈凌ぎに花見へ出掛けても罰は当たらないだろう。
私は夢の中で見た、壮観な江戸彼岸の姿を思い浮かべながら途中下車することに決めた。
ハンドバッグからリップクリームを取り出し、慣れた動作で乾いた唇を撫でる。
近頃は溜まった心労のせいでベッドに入ってもなかなか眠れないのに、電車に揺られていると、ついウトウトしてしまう。言うことを聞かないふざけた体だ。
手鏡を取り出し、軽く確認を済ませ、特に見た目に問題がないことを確かめて化粧ポーチに仕舞う。
しかし、あの夢を見てしまうなんて、どうやら-……私は本格的に心が病み始めているのかもしれない。
卒業シーズンを迎えた初春。肌寒い空気が漂う街に暖かい陽射しが差し込む季節。
冷え性の私はまだレディーススーツの上に着ているコートを手放せないまま、電車を降りた。
カタカタカタ……寄り道をしてしまう靴音がやけに大きく響く。
春用のレディーススーツは営業職を務める戦闘民族の証。
ふわり春風に揺れるネイビーカラーの上品なフレアスカートはミディ丈に揃えられている。
半年前から食品メーカーの営業を続ける私は会社に戻る気になれず、無気力に公園の方角へと足が向いていた。
平日の昼間ともなると、人の姿はまばらで、桜並木のベンチに座っているのは老後を迎えた高齢者ばかり。
私のような会社員の姿は皆無。居心地の悪い空気を紛らわすように早足で通り過ぎ、私は思い出の公園に入った。
階段を上り、公園の奥地へと足を踏み入れると、そこには三年の月日が流れても、色褪せることのない江戸彼岸の大木が満開の桜を咲かせていた。
その美しさに息を呑む。時の流れを止めた森の奥、穏やかな風が私の長い黒髪を靡かせる。
木の葉のように舞う桜の花びら達。
白から薄紅色に染まった花弁は美しく、穢れのない乙女の清らかさを連想させる。
一度、降りしきる雨に晒されれば無事では済まないこの絶景と言える光景。私はこの風景をカメラで切り取りたくなる衝動を抑えた。
何故、こうも簡単に魅入られてしまうのか。美しさに酔いしれれば酔いしれるほど、焼き付いたあの日の光景が目の奥から蘇るようだった。
私には訪れることのなかった眩しい青春の一ページ。妹の篠塚咲楽とその彼氏、草薙克也が今もそこに佇んでいるような錯覚を覚えるほどだ。
私を惑わすように幻聴が耳をくすぐる。それが仕事疲れから忍び寄る、現実逃避であることは痛いほどに自覚している。
それでも、一歩一歩、桜の木の下へ近づいてしまう両足。そして、あるはずのない人の姿が視界に映り込んだ。
「……克也君」
泣くことも出来ないほどに枯れ果てた心が、浮上するようにトクンと脈を打った。
視界に映り込む、目を閉じて倒れるその人影。
目に見えるような外傷を負っている様子はない。
学生服は着ていないが、信じられないことにその姿はあの頃の草薙克也そのものだった。
不意に頭痛がして頭を抱える。もうあれから三年も経ったのに、私はまだ彼の妖気に囚われているのかもしれないと、そんなありえない妄想が心を汚す。
邪な思考を振り払おうと強く手を握る。これは孤独に慣れてしまった私を嘲笑う質の悪い幻想。そう考えた方が、ずっと楽だと思うほどだ。
「お姉さんも本を読まれるんですか?」
記憶の中にある、無邪気な彼の声が私の胸をさらに締め付ける。
高身長で秀才かつ性格も良くて、非の打ち所がないほどに真っすぐな、妹の彼氏。
彼が妹のものでなければ、私は素直に喜んで顔を上げ、彼との会話を楽しんでいただろう。
妹のように本を読む習慣がなかった私は邪魔をしないように距離を取った。そうしないと、彼を愛する咲楽の嫉妬深い視線が辛かったからだ。
私は決して彼に好意を向けてはならない存在。向けられてはならない存在。
咲楽の良き姉を演じなければならない、恋愛なんて無縁の寂しい女。
そうだ、恋人いない私は咲楽から警戒される、筆頭だったのだ。
少しの幸せも分けて貰えないまま、睨まれる時間は苦痛でしかなかった。心底、苦痛でしかなかったのだ。
ひらり舞い落ちる花びらが紅く染まる。
何故、彼がこんなところに倒れているのか……。
過去の悪夢を振り払い、思考をクリアにして現実を目の前にする。
小さな寝息を立てて眠る、彼の姿。
いや、そんなはずはない。
彼は既に自殺をしてこの世を去った存在のはず。
だって、私は彼が首を吊って亡くなっているのを最初に見つけた、第一発見者なのだから。
穏やかな表情で横たわるこの男性は何者なのか。
考えれば考えるほど怖くなる。
営業先との待ち合わせ時間まで、ここで道草をする予定だった私は手を差し伸べる勇気が出ないまま、逃げるようにこの場を立ち去った。




