第三十話 泥だらけの午後
午前中を裁縫に当てた私だったけど、午後には雨が止んだので、外に出た。
私たちは残る三つの神殿のうち、まずは風と嵐の神ダガースの神殿を目指すことにした。旅の神でもあるせいか、神殿は王都に向かう一番大きな街道へ出る、東門の近くにあった。
通りはぬかるんでいたので、なるべく水たまりを避け、固そうな地面を探して歩いた。
「うわ~っ、靴がドロドロになりそう」
「リンさん、そっちの方を通りましょう。まだマシですよ」
そんなやり取りを繰り返しながら、私たちはどうにか神殿にたどり着いた。だけど、神殿から出てきた私は、大きなため息をついた。
「はぁ~っ。こんなに靴を汚してまで来たのに」
ずっと履き続けてきたスニーカーは、私史上、最悪の泥だらけになっていた。しかも神殿で得られた情報は、大したものではなかった。
「まあ、そういうこともありますよ」
ミルカに慰められながら、私たちは元来た道を戻った。
残りの七大神は海の神ヴァルンと、死の神モーグス。ヴァルンの神殿は街の南、街の外を流れるオルン川の近く。モーグスの神殿は街の西、外壁沿いに広がる墓地の前。
どっちも遠い。これ以上、泥だらけになってまで、今日行く必要はない気がしてきた。
「もう、帰ろうか」
「そうしましょう」
私の提案に、ミルカもすんなり頷いた。そんな時だった。
ガタガタガタガタ
荷馬車が私たちのそばで泥を跳ね上げた。
加速。
私だけなら避けられても、ミルカまで連れては無理。
鞄から手ぬぐいを出しながら、ミルカの前に出た。
泥の飛沫が散弾銃の銃弾のように、無数に別れて目の前に迫っていた。
泥の散弾は、私にはゆっくりに見えた。それでも、何度も手ぬぐいで払う時間はない。飛沫の軌道を見極め、横倒しのWの字を描くように、手ぬぐいを下から振り上げていく。それで何とか、全ての泥を払い落とせた。
やった。
そう思った時、手ぬぐいの先がひるがえった。そこから泥の飛沫が飛んできた。私のチュニックは生成り色で、泥が付いたら目立ってしまう。もう、近すぎて左右に逃げる余裕はない。
私は上半身をのけぞらせた。けれど、後ろのミルカにぶつかり、彼女が倒れないよう手を引く。もう、泥汚れを避けるのは諦めた。
解除。
「きゃあ~……あれ?」
ミルカは、汚れていない自分の服を見て、不思議そうに首を傾げた。
「リンさん? 助かりま……」
お礼を言いかけた彼女の視線が、私の胸で止まった。私も恐る恐る見下ろし、言葉を失った。
そこには小さな丸い泥汚れが、たった二つあるだけ。でもその位置が問題だった。両胸の先に、何かを想像させるように付いていた。
私はカッと顔を赤くし、そこを隠すよう、鞄を前で抱きしめた。ミルカが、そっと私の背中を撫でてくれた。
私たちは、泥を跳ねさせないよう気をつけながら、足早にカーターの店を目指していた。でも、そんな私たちの耳に、通りで話し込む婦人たちの声が聞こえてきた。
「あのくたびれドビンの奴。力は弱くても毎日、真面目に荷運びに来てたのにね。数日来ないと思ったら、いなくなったらしいんだよ」
「あの辺りじゃ、珍しくないさ。女子供はもっと、いなくなるらしいよ」
彼女たちの前を通り過ぎ、しばらくして私はポツリと言った。
「嫌な話を聞いちゃったね」
あんな話を聞いたせいか、街で見かける人々が、いつもより怪しく見えてきた。
例えば、通りの角に立っている軽薄そうな二人組。服の汚れが、妙に少ない。お金があるように見えないのに、働いているようにも見えない。
私の視線に気付いたのか、二人組のうちの一人が私を見て、ニヤリと笑った。両手の人差し指を立てて、前に押し出すような真似をした。
ハッとして、自分の前を見下ろすと、鞄がお腹の辺りまでズリ落ちて、チュニックの汚れが見えていた。私は恥ずかしくなって、慌てて鞄を持ち上げた。
「わざわざ印を付けて、誘ってんだろ?」
彼らの前を通る時、道の反対側を通ったのに、そんな声がハッキリ聞こえた。私は、キッと睨みつけた。でもそいつは、余計に喜んでこっちに足を向けた。
面倒なことになりそう。
私がそう思った時だった。麻袋を肩に担いだマッチョが、彼らのいた角を曲がって、路地に入ろうとした。
すると、二人組の奥の男が、手を広げてその道を阻んだ。こっちに来ようとした男も、舌打ちして角へと戻った。
私はミルカと、急いで通り過ぎてから、振り返った。
二人組は荷夫の前に立って、何か話していた。
私たちにちょっかいを出そうとしていたくせに、荷夫が現れた途端、そっちを優先した。
路地に人を入れたくない……もしかして、仲間が路地で何かやってる?
とにかく、関わらないのが一番ね。
今日は嫌なことばかり。私は少しイライラしながら歩いていた。
なのに、通りの端に置かれた木箱の上で、ストーンが気持ち良さそうに寝ていた。ご丁寧に、木箱の上には布を敷いている。
彼は今の時間、カーターの倉庫で働いているハズだった。
「コラ、ストーン! アンタ、何サボってんのよ」
ストーンはビクッと身体を震わせたものの、目を擦っただけで、また眠りかけた。
「寝るなって言ってんのよ!」
「ふむ。若者には分からないかもしれないが、休むのも仕事なのだよ」
「そんなところで寝てると、財布を盗られちゃいますよ」
ミルカが心配そうに言うと、ストーンは平然と答えた。
「それはない。既に昨晩盗られているからね」
何なの、コイツ。
呆れている私をよそに、ミルカは少し考えてから、話を続けた。
「ストーンさん、この街に詳しいです? 私たち、ドラークス様について詳しい人を探しているんですけど」
「僕だったら、知りたいことは酒場で聞くね。酒が入ると、みんな口が軽くなって、話したがりになるから。そういえば昨日、神様に会いに行った英雄について、吟遊詩人が歌っていたかな」
「その話、詳しく!」
それまでの不快感も忘れ、私は思わず身を乗り出した。




