第十二話 暴れ馬と商人
加速。
周囲の音が間延びしていき、低く小さくなって、聞きづらくなる。
私は暴れ馬と、子供のもとへ走った。
長いスカートが邪魔だけど、さすがにこんな街中で脱ぎ捨てるわけにいかない。
背筋を真上に伸ばした姿勢から、前傾姿勢になる。
少しは空気の抵抗を減らせる。でも、まだ足りない。
さらに地面に倒れ込むように体を傾けた。
クラウチングスタート直後のような、地を這うような姿勢になる。
膝の前のスカートを掴んで少し持ち上げ、膝に絡みつかないようにする。
私は馬を囲う人の輪の隙間を抜け、今にも馬に踏まれそうな子供のところまで辿り着くと、子供の両肩を掴んで馬の脚の軌道から外そうとする。
自分自身さえ、加速中の意識に合わせて動けないのに、子供を動かすことはさらに難しい。空気の抵抗が重くのしかかり、子供の重さが百キロ以上にも感じられた。
ジリジリと下がってくる馬の足を見ながら、そのギリギリ外側へと子供の体を引っ張り出す。
ドンと馬の脚が振り下ろされた。子供は踏まれずに済んだ。
でも、馬の脚は四本ある。別の足が迫ってくる。
しゃがんだ姿勢では、四本の足の全てを視界に入れられない。
私も子供のすぐ横に、寝転がる。
仰向けになって、四本の足を見ながら一番安全な場所を予測する。
横から押したり引いたりでは動かしづらいので、子供の体を少しずつ自分の上に引っ張り上げる。
背中を地面に擦りながら位置を変えたり、体を傾けたりして、馬の足をかわしていく。
何度も振り下ろされる馬の足。
時に私や子供の体をかすめるが、直撃は避け続ける。
少しずつ馬の足元から外れていく。
そして、馬の足元から外れたところで、さらに子供を抱えたまま転がって距離をあける。
もう大丈夫そうだ。
加速を解除して、意識の流れをこの世界に合わせる。
周囲の音が戻ってきた。人々の輪から歓声が上がる。
「うお~すげ~」
「子供を助け出したぞ~」
その輪の中から、さっき叫んでいた女の人が飛び出してきた。きっと母親だろう。
「チップ! チップ! 大丈夫? 怪我はないの?」
子供を抱きかかえると、体を調べ始める。
「ああ、よかった」
どうやら、大丈夫そうだ。母親は子供を抱きしめ、涙を流す。
その横で、私は立ち上がって、服の埃を払った。
私も大した怪我はないけど、背中には擦り傷を作ってしまったようで、服にも穴が空いている。
ミルカから借りているのに、申し訳ない気持ちになる。
「あの、本当にありがとうございました」
母親が私を見上げて礼を言う。
「いえ、無事ならよかったです」
そこへ男の人の声がかかる。
「いやいや、本当にありがとう」
中年で、やや背の低い、男の人だった。
その人は、安堵したような笑みを浮かべながら、何度も私に頭を下げた。
服装も、さっき会った神殿の神官を除けば、今まで見た誰よりも上等だった。汚れやほつれもほとんどない。きっと、お金持ちの部類だろう。
「私はその子の父親で、カーターと言います。是非、お礼をさせて頂きたいのですが」
私たちは、カーターさんの家に招かれた。大通りの裏にあり、比較的大きな家だった。
そこで、お昼ご飯をごちそうになった。
カーターさんはこの街の商人で、こことエルバーデンという大きな街との間を行き来して商売をしているらしい。
「リンさんの服は、申し訳ありませんでした。お詫びに知り合いの仕立屋に……」
ミルカに借りた私の服は、馬の下で背中を擦ったせいで、小さな穴が幾つか空いてしまっていた。今は背中の穴を隠すため、母親のケープを借りて食事の席に着いている。母親とチップと呼ばれた子供も一緒だ。
カーターは、子供を助けたお礼に、金貨十枚と私とミルカの服を三着ずつ仕立ててくれるという。仕立屋には連絡しておくので、明日にでも訪ねて欲しいということだった。
「あの、カーターさん。私たち大きな街へ行きたくて。もしよかったら、エルバーデンという街まで連れていってもらえませんか?」
私は思い切って、頼んでみた。二人だけでフラフラと向かうより、何度も行っている人と一緒の方が安全だろう。
「おや? 何かご入り用ですかな? たいていの物ならウチでも手に入りますが」
まあ、そうか。大きな街行きたいというなら、珍しいものが欲しいと思われるか。それとも、村を逃げ出した若者が大きな街を目指していると思われて、探りを入れられたのかもしれない。
「いえ、私たちドラークス様のいるという天の塔を目指していて。それでまずは大きな街に行って、ドラークス様の神殿を訪ねようと思っているんです」
私は神殿を目指す理由を話した。とはいえ、自分が"彼方からの道"から出てきたなんて言ったら、騒動になるかもしれない。そこで、弟が消えてしまって、"彼方からの道"に入ったかもしれないという嘘の話をでっち上げてしまった。
その話の中では、私もミルカ同様両親を亡くしていて、弟が唯一の肉親となっている。それを聞いた奥さんは涙ぐみ、カーターは痛ましそうな顔をした。それを見て、とても申し訳ない気持ちになった。横で聞いていたミルカの目は、泳ぎまくっている。
「なるほど。たしかエルバーデンには七大神様すべての神殿があったはず。でも商売をしながら進むので、七日から十日は掛かりますよ」
カーターは信じてくれたようだけど、途中で何度か足を止めるみたい。
私は、一刻も早く日本に帰りたいのだけど……。
でも、私たちだけじゃ道に迷うかもしれないし、万一盗賊なんかに遭ったら終わりかもしれない。仕方ないか。
「大丈夫です。二人で行くより安全ですから」
「分かりました。出発は十日後になります。それまでに服も仕立てられるでしょうから、丁度いいでしょう」
カーターはニッコリ微笑んでそう言った。
う~ん、さらにここで十日も足止めか。でも、私もミルカも着られる服は一着きり。旅の準備もしなきゃだし、途中で足りない物があっても、一緒に行けば借りられるかもしれない。
焦る気持ちはあるけれど、やっぱりしっかり準備して、カーターと一緒に行くのが無難なんだろうな。
「ありがとうございます、カーターさん。よろしくお願いします」
こうして私たちは、十日後にカーターさんの荷馬車とともに、エルバーデンへ向かうことになった。




