第9話「Goodbye Girl - さよならの朝」
翌日。
バネッサとあまねは、いつもと変わらない一日を過ごした。
木の実を拾う。
食べられるものと、食べられないものを見分ける。
緑団子を食べる。
あちこちを探索する。
何度も繰り返してきた、山での一日だった。
ただ、あまねには少しだけ分かっていた。
たぶん、これは最後なのだ。
歩いている途中、あまねはバネッサに尋ねた。
「バネッサさん」
「はい?」
「他の魔法は、持ってないんですか?」
バネッサは少しだけ黙った。
「ありますよ」
「じゃあ……」
「ただ、他の魔法は、今回の件には合わないのです」
「……そうですか」
「ごめんなさい」
バネッサは前を向いたまま言った。
「魔法も、たいして万能じゃないのです」
あまねは、バネッサの横顔を見た。
いつものように、のんびり笑ってはいなかった。
遠くを見ているような顔だった。
どこか、寂しそうにも見えた。
あまねは、次の言葉を出せなかった。
◇ ◇ ◇
その夜。
焚火の前で、あまねは膝の上に手を置いていた。
炎の音がする。
山の夜の音がする。
バネッサが木の枝を折る、小さな音がする。
あまねは、決めた。
「バネッサさん」
「はい」
「記憶の消去、お願いします」
バネッサは、すぐには返事をしなかった。
焚火の明かりが、横顔を照らしている。
「……そう、ですか」
少し間を置いて、バネッサは頷いた。
「分かりました」
「消したいのは、あの」
「あ」
バネッサが、慌てたように遮った。
「それは、口にしなくていいのです」
「……え?」
「なるべく詳しく、正確に思い描く必要はあります。けれど、私に話す必要はありません」
あまねは口を閉じた。
少しだけ、ほっとした。
けれど同時に、怖くもなった。
言葉にしなくていい。
けれど、思い出さなければならない。
忘れるために、もう一度、ちゃんと思い出さなければならない。
「……分かりました」
「それと」
バネッサは忘却の三角をしまった。
「こちらの都合もありまして、魔法をかけるのは明日の朝にしましょう」
「明日の朝、ですか」
「はい」
「……分かりました」
あまねは頷いた。
その夜は、いつもより焚火の音が大きく聞こえた。
◇ ◇ ◇
やはり、残酷な道具だ。
真横で眠っているあまねの横顔を見ながら、バネッサはそう思った。
忘れたくてたまらないものを、詳しく、正確に思い描かなければならない。
救いの前に、もう一度傷口を開かせる。
忘却の三角。
誰が作ったのかは知っている。
どういう意図で作ったのかも、おおよそ想像はつく。
それでも、ひどい道具だと思う。
バネッサは眠れなかった。
あまねの寝息だけが、夜の中で小さく続いていた。
◇ ◇ ◇
翌朝。
あまねは目を覚まして、少し驚いた。
焚火が、まだ残っていた。
いつもなら、バネッサは早々に火を落とし、炭を袋に入れ、跡を消している。
けれど今日は、焚火が小さく燃えていた。
少し離れた場所で、バネッサが木の枝を使って槍の訓練をしている。
軽く突く。
引く。
払う。
回す。
その動きは静かで、無駄がなかった。
あまねが起きたことに気づくと、バネッサは枝を下ろした。
「おはようございます」
「おはようございます」
「朝ごはん、マシュマロにしようと思いまして」
「朝に食べるのは、久しぶりですね」
「特別です」
バネッサは笑った。
けれど、その笑顔は少しだけぎこちなかった。
二人は焚火を囲み、黙ってマシュマロを齧った。
焼けた砂糖の匂いがする。
中は柔らかく、甘かった。
今日が最後だから、焼いてくれたのだろうか。
あまねはそう思った。
でも、聞かなかった。
バネッサも何も言わなかった。
「あ、魔法のことなのですが」
マシュマロを食べ終えたあと、バネッサが口を開いた。
「かけ終わったら、あまねさんは少し眠ってしまいます」
「……はい」
「先に教えておかないと、と思いまして」
「分かりました」
あまねは頷いた。
怖くないわけではなかった。
けれど、バネッサが先に言ってくれたことが、少しだけありがたかった。
焚火の片づけを終え、荷物も整理した。
いつものように、そこに焚火があった痕跡は消えていく。
けれど今日は、何かが終わっていくように見えた。
「ここから、どこに行って魔法をかけるんですか?」
「水のあるところが都合が良いのです」
バネッサはリュックを背負った。
「ですので、川辺まで行きましょう」
二人は歩き出した。
移動中、バネッサはいつもより無口だった。
あまねは、それが少し気になった。
魔法を使うときは、緊張するのだろうか。
それとも、自分が何か間違ったのだろうか。
聞けなかった。
丸太橋を渡り、さらにしばらく歩く。
やがて、バネッサは足を止めた。
「ここにしましょう」
あまねは周囲を見回した。
川の音。
湿った土の匂い。
大きな石。
草の倒れ方。
少しだけ、見覚えがある気がした。
家を出した日。
山に迷い込んだ日。
川に落ちた場所の近くではないだろうか。
胸の奥が、少し冷たくなる。
「じゃあ、始めますね」
「……お願いします」
バネッサは忘却の三角を取り出した。
鈍い金色の三角。
赤、青、紫の宝石。
朝の光の中で見ると、昨夜よりも冷たく見えた。
「この三角の、赤と青の宝石に触れてください」
バネッサが言う。
「右手の親指で赤。左手の親指で青です」
「はい」
あまねは言われた通りに触れた。
「これで良いですか」
「はい。私は、こちらの紫に触れます」
バネッサの指が、紫の宝石に触れる。
「では、私はしばらく黙ります」
「はい」
「あまねさんは、その間に、忘れたいことを順番に頭の中で思い出してください。ひとつ目。ふたつ目。できるだけ、正確に」
あまねの喉が鳴った。
「考え終わったら、『終わりました』と口にしてください」
「終わりました、は声に出すんですね」
「はい」
「分かりました」
バネッサは、あまねを見た。
「途中でやめたくなったら、手を離してください」
「えっ?」
「思い出すのが辛くなったら、やめても良いのです」
あまねは少し驚いた。
「……はい」
「では、始めましょう」
忘却の三角から、小さく高い音が聞こえた。
本当に鳴っているのか。
それとも、あまねにだけ聞こえているのか。
分からない。
けれど、確かに音がした。
細くて、硬くて、冷たい音。
少し怖くなった。
あまねは目を閉じる。
大丈夫。
バネッサさんを信じる。
忘れたいことは、二つ。
思い出すのは辛い。
けれど、忘れなければ前に進めない。
そう思った。
そう信じようとした。
一つ目。
右手の親指で触れている赤い宝石が、熱を持った。
指先がびりびりと震える。
あまねは歯を食いしばる。
逃げない。
思い出す。
忘れるために。
二つ目。
左手の親指で触れている青い宝石も、同じように熱くなった。
びりびりと震える。
指先から腕へ、細い痛みのようなものが伝わってくる。
大丈夫。
きっと大丈夫。
これを忘れたら、自分は前に進める。
問題がなくなったら。
ちゃんと戻れたら。
また、バネッサさんに会えるだろうか。
また、一緒にマシュマロを食べてくれるだろうか。
また、牛丼屋でまたカレーを食べるバネッサさんに、呆れることができるだろうか。
カレーが好きな理由を聞いていなかった。
あまねは、ゆっくり目を開けた。
目の前に、バネッサがいた。
紫の宝石に触れたまま、黙ってあまねを見ている。
あまねは、言われた言葉を口にした。
「……終わりました」
次の瞬間。
あまねの意識は、ふっと途切れた。




