第8話「Forget Me Not - 忘れないで、忘れさせて」
あまりの話題の変化に、あまねは戸惑った。
魔法。
普通なら冗談にしか聞こえない。
けれど、バネッサの表情は笑っていなかった。
山の中で迷わず歩けること。
いつも使っている不思議な道具。
街で誰にも見られていないような気がしたペンダント。
最初に見た焚火の、不思議な揺らぎ。
十一歳のあまねにも、それらが普通のものではないことくらいは分かっていた。
「……バネッサさんは、魔法使いだったんですね」
「正確には、魔法を使える何か、ということにしておきます」
「何か、ですか」
「ええ。何かです」
いつもなら、少し笑える言い方だった。
でも、今のバネッサの声には、冗談の色がなかった。
「どんな魔法が……使えるんですか?」
バネッサは、すぐには答えなかった。
しばらく焚火を見つめる。
それから、ゆっくりと立ち上がり、あまねに背を向けた。
「……あまねさん。忘れたいことはありますか」
あまねは、息を止めた。
バネッサは懐から、小さな宝飾具を取り出した。
ブローチのようにも見える。
鈍い金色をした、三角形の飾りだった。
赤。
青。
紫。
三つの宝石が、それぞれの角に埋め込まれている。
表面には、見たことのない模様が彫り込まれていた。
日本のものでも、西洋のものでもない。
古いようで、新しい。
きれいなのに、どこか怖い。
あまねは、それをただ綺麗だと思った。
そして、綺麗だと思った自分が少し怖くなった。
「この道具は、選んだ二つの記憶を、永久に忘れさせることができます」
「……二つ」
「はい」
「忘れるって……思い出せなくなる、ということですか」
「いいえ」
バネッサは少しだけ間を置いた。
「思い出せなくなる、ではありません。消えます」
あまねは、返事ができなかった。
「どこかにしまっておくのではなく、本当に消えてしまいます。あとで、やっぱり返してくださいと言っても、戻せません」
焚火の薪が、ぱち、と小さく爆ぜた。
「私なら、あなたに忘れさせてあげられます」
あまねは何も言えなかった。
バネッサは、あまねに背を向けたまま続ける。
「たとえば……お相手の男性のことを、すべて忘れたい、とか」
あまねは、息を呑んだ。
◇ ◇ ◇
バネッサは、あまねに顔を見られたくなかった。
嘘はついていない。
けれど、表情を見られたくなかった。
あまねの顔も、見られなかった。
自分が今、どんな顔をしているのか分からない。
救おうとしている顔なのか。
追い詰めている顔なのか。
それとも、自分の罪悪感を軽くしようとしている顔なのか。
分からなかった。
十一歳の妊娠。
この国の今の常識で考えれば、周囲の大人は中絶を選ばせようとするだろう。
それが正しいかどうかは別として、少なくとも、あまね一人で抱えるような話ではない。
だが、あまねは誰にも頼れなかった。
妊娠に至った経緯は分からない。
乱暴されたのか。
同意だったのか。
そもそも、同意などと呼べるものだったのか。
バネッサには分からない。
ただ、あまねはその相手に相談できない。
あるいは、相談したくない。
もしかすると、思い出すことさえ苦しいのかもしれない。
「特定の日の出来事を、すべて忘れたい。そういう指定もできます」
あまねは黙っていた。
夜の山は静かだった。
静かすぎて、あまねの呼吸の揺れまで聞こえる気がした。
「ただし、これは優しい魔法ではありません」
あまねが顔を上げた気配がした。
「忘れたら、少し楽になるかもしれません。でも、忘れたものは戻りません」
「……戻らない?」
「はい。それに、記憶はひとつずつ袋に入っているわけではありません。いろんな記憶が、糸みたいにつながっています」
「糸……」
「はい。人の顔、声、場所、匂い。その時に聞いた言葉。その日の空気。ひとつ消すと、その近くの記憶も少し欠けるかもしれません」
「じゃあ……忘れたいことだけじゃなくて、他のことも?」
「少しだけ。全部ではありません。でも、どこが欠けるかは、やってみないと分からないのです」
あまねは、自分の膝を見つめた。
忘れたいものはある。
忘れたい。
思い出したくない。
考えたくない。
けれど、忘れたら、本当に前に進めるのだろうか。
何か大事なものまで、欠けてしまわないだろうか。
そう思うと、少し怖くなった。
「バネッサさん」
「はい」
「忘れたら……私は、楽になりますか」
バネッサはすぐには答えなかった。
答えられなかった。
「分かりません」
やがて、バネッサはそう言った。
「楽になるかもしれません。後悔するかもしれません。何かを失ったことにすら、気づけないかもしれません」
「……」
「だから、今すぐ決めなくていいです」
あまねは、しばらく黙っていた。
やがて、静かに言った。
「……少し、考えさせてもらって、いいですか」
「はい」
バネッサは頷いた。
「今すぐ決めることではありません。難しいことは、後でゆっくり考えましょう」
「……後で」
「はい。食べて、温まって、眠って、それからです。今日のあなたは、もう十分頑張りました」
あまねは、膝の上で指を握った。
それから、小さく頷いた。
◇ ◇ ◇
あまねは、先に毛皮の上へ横になった。
毛布を肩まで引き上げ、焚火に背を向ける。
眠れるはずがない。
バネッサはそう思った。
けれど、しばらくすると、浅い寝息が聞こえてきた。
疲れていたのだろう。
三週間、山で過ごした疲れ。
それよりもっと前から積み重なっていた疲れ。
あまねは眠っていた。
バネッサは焚火の前に座り、先ほどあまねに見せた魔道具を眺めた。
忘却の三角。
残酷な救済装置。
呪いの品、と呼ぶ者もいる魔道具だ。
対象者は、忘れたい内容を使用者に伝えなくていい。
心の中で思い描くだけでいい。
つまり、あまねが何を忘れたいのかを、バネッサが知る必要はない。
この魔道具が作られた時代にしては、ずいぶんと個人の尊厳に配慮した設計だった。
少なくとも、そこだけは。
問題は、その先だ。
忘却された内容は、二度と戻らない。
正確には、記憶を隠すのではない。
封じるのでもない。
壊す。
記憶を破壊する。
人の人生を、無茶苦茶にしかねない。
救済の形をした、暴力装置。
バネッサは、そう思っている。
それでも。
今、手元にあるものの中で、あまねの心をすぐに軽くできる可能性があるのは、これだけだった。
正しい方法ではない。
安全な方法でもない。
けれど、他に思いつかない。
バネッサは、忘却の三角を握りしめた。
もうひとつ。
この魔道具には、製作した職人の意地の悪い仕様がある。
使用説明には、まるで冗談のように書かれていた。
けれど、冗談で済むものではない。
バネッサは、それをあまねに伝えなかった。
伝えられなかった。
伝えれば、あまねはこの道具を選べないかもしれない。
選ばない方がいいのかもしれない。
そもそも、自分は選ばせてはいけないものを差し出しているのかもしれない。
それでも、目の前の少女がまた壊れそうな顔をするのを、バネッサは見ていられなかった。
「……最低ですね」
バネッサは、声にならないほど小さく呟いた。
焚火の火が、小さく揺れる。
バネッサは、眠っているあまねの背中を見た。
この選択肢を差し出したことを、すでに後悔し始めていた。




