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第7話「Unmask - 仮面を外す夜」

バネッサは毛布にくるまりながら、ひとつため息をついた。


このところ、失策が続いている。


あまねと山中を歩き回り、ときどき街に降りて銭湯につかり、洗濯をし、食事を取り、また山へ戻る。


そんなことを繰り返しているうちに、気がつけば三週間ほど過ぎていた。


三週間。

さすがに、長い。


あまねの事情について、バネッサは直接聞かなかった。

聞けなかった、という方が正しいかもしれない。


ただ、会話の端々から、家に戻れない原因の中心には母親がいるのだろうと予想していた。


あまねの知覚能力は、常人の域を超えている。


特に、視覚と聴覚。


目で見たもの。

耳で聞いたもの。

その二つを、あまねはどこか同じものとして捉えている。


色と音。

形と声。

光と感情。


おそらく、ある種の天才なのだろう。


最初の頃に比べれば、表情はずいぶん増えた。


マシュマロを焦がして慌てる。

牛丼屋でカレーを頼むバネッサに呆れる。

銭湯の熱い湯に肩をすくめる。

木の実の味に、ほんの少し目を輝かせる。


けれど、肝心なところで、あまねは感情を隠す。


見せたら壊れると思っているのか。

見せたら捨てられると思っているのか。


バネッサには、そこが分からなかった。


体調については、常に気を配っているつもりだった。


センサーも使っていた。

疲れが見えれば街に降りた。

食べられるものを選び、休ませ、無理な山歩きは避けた。


その程度の配慮はしてきた。

してきたつもりだった。


数日も経てば、感情も考えも落ち着いて、山を下りる気になるだろう。

そう楽観していた自分の甘さが、今は嫌になる。


こんな長期戦になるとは、思っていなかった。


◇ ◇ ◇


「バネッサさん」


銭湯の脱衣所で、あまねがぽつりと言った。


二人はいつものように、風呂上がりのフルーツ牛乳を飲んでいた。


「何もお返しできなくて、すみません」


バネッサは瓶から口を離した。


「いいってことですよ。出世払いで返してもらえれば」

「出世払い?」

「ええ。大人になったら」


言ってから、バネッサはしまったと思った。


大人。


その単語は、不用意だったかもしれない。


あまねは、瓶を両手で持ったまま、少しだけ目を伏せた。


「……うん」


小さな声だった。


「そうですね。大人になったら」


その表情に浮かんだ陰りを見て、バネッサは猛烈に反省した。


◇ ◇ ◇


「バネッサさん、今日もカレーでしたね」


山へ戻る道で、あまねが言った。


「牛丼屋さんなのに」

「好きなんですよ。次は牛丼にしようと思っても、ついカレーにしてしまうのです」

「ずっと次は牛丼って言ってます」

「次こそは牛丼です」

「たぶん、またカレーです」

「失礼な。可能性は常にあります」


無駄話をしながら倒木を乗り越える。

そのあまねの手を引くバネッサ。


「なんでそんなにカレーが好きなんですか」

「うーん、難しい質問ですねえ」

「子供のころからカレーが好きだったんですか」

「子供……うーん。後でゆっくり考えて答えます」


どうでもいいやりとりだった。

けれど、バネッサは脱衣所での会話を引きずっていた。


大人。


その言葉への、あまねの反応。


妙に引っかかる。


あまねは発育が良い。

実年齢が十一歳だと聞いたとき、バネッサは正直驚いた。


銭湯で見た身体つきにも、どこか妙なアンバランスさがあった。


その時は、成長途中だからだろうと思った。

この年頃の子供の発育など、自分は詳しくない。


けれど。


保存食を吐いたこと。

食欲に波があること。

ときどき腹部に手を当てる癖。

「大人」という言葉への反応。


それらが、バネッサの中でひとつの形になっていく。


まさか。

いや。

まさかでは済まない。


あまねは、もしかして妊娠しているのではないだろうか。


バネッサは歩きながら、背筋が冷えるのを感じた。


魔道具もある。

自分もそばにいる。

山の中の獣などから襲われる心配は、まずない。


けれど、そういう問題ではない。


妊娠している可能性のある少女を、いつまでも山中に置いておくわけにはいかない。


まして、もう三週間だ。

知らなかった、では済まない。


◇ ◇ ◇


その夜。


銭湯から戻った山中で、バネッサは焚火の前に座っていた。

あまねは毛布にくるまり、火のそばで手を温めている。


バネッサは意を決した。


「あまねさん」

「はい?」

「ちょっと失礼しますね」

「え?」


バネッサは小型のセンサーを取り出し、あまねに向けた。

あまねが身を固くする。


「痛いことはしません。少しだけ、体調を確認します」


返事を待たず、バネッサは生体調査を行った。

結果は、すぐにレシーバーから返ってきた。


妊娠反応あり。


バネッサは、目を閉じた。

自分の鈍さに、心底がっかりした。


「あまねさん」


声が、少しだけかすれた。


「あなたは……ご妊娠されていたのですね」


あまねはしばらく黙っていた。

それから、小さく頷いた。


「……うん」

「気づいてあげられなくて、ごめんなさい」

「違うの」


あまねは慌てたように首を振る。


「バネッサさんが悪いんじゃない。私が、言えなかったの。でも、私まだ──」


バネッサは、静かに遮った。


「あまねさんは」


あまねを見る。


「産みたくないんですか」


あまねは、息を呑んだ。


その問いは、責める言葉ではなかった。

確認だった。


大人たちに説明されたこと。

母親に拒絶されたこと。

家を出たこと。

山で迷ったこと。


そのすべてをいったん脇に置いて、ただ、あまね自身の望みを聞く言葉だった。


あまねは両手を腹部に当てた。


自分の身体の中から聞こえる、自分とは違う小さな音。


本当に聞こえているのかは分からない。

けれど、あまねにはそれが確かにあるように感じられた。


その音の主を、この目で見たい。


無茶なことをしている自覚はあった。


どうすればいいのか分からない。

何が正しいのかも分からない。


それでも、バネッサになら、本当の気持ちを聞いてもらえる気がした。


「……産めるなら」


あまねは、かすれた声で言った。


「産んでみたいです」


バネッサは、少しだけ目を伏せた。


そして、ゆっくり頷いた。


「では、そろそろこの旅を終わらせなくちゃですね」


あまねの肩が震えた。


「……でも」

「はい」

「でも、無理だよ」


あまねの声が小さくなる。


「全然、どうしたらいいのか分からない。病院も、学校も、家も、全部……」


言葉が詰まる。


「でも、ママが」


あまねは顔を覆った。


「お母さんが……」


それ以上は、言葉にならなかった。


◇ ◇ ◇


やはり、母親との間に何かがあった。


バネッサは焚火を見つめながら、静かに息を吐いた。


さて。

どうしたものか。


バネッサは、別れには慣れている。


何といっても、久遠だ。


あまねのことは好きだ。

この三週間で、ずいぶん情も移った。


けれど、別れた後、数ヶ月もすれば痛みは薄れるだろう。


自分のことはどうでもいい。

問題は、あまねだ。


あまねを説得して、街へ戻すべきなのだろう。

病院に行かせるべきだ。

警察か、行政か、誰か適切な大人に引き渡すべきだ。


それが正しい。

たぶん、正しい。


けれど、あまねが山に来る前に抱えていた問題は、何ひとつ解決していない。


家に戻れば、本当に守られるのか。

母親と向き合えるのか。

父親は受け止められるのか。

周囲の大人たちは、あまねの心を壊さずに扱えるのか。


問題は、あまねの中にもある。


けれど、それ以上に外側の問題が大きい。


山で、あまねは少しだけ回復した。


笑うようになった。

食べるようになった。

手をつなぐようになった。

眠れるようになった。


でも、癒えたわけではない。


知らなかったとはいえ、妊娠している少女を一ヶ月近く山に連れ回したのも事実だ。


その責任はある。

ここで放り出せば、きっとこの先、何十年も後悔する。


では、どうする。


バネッサには、ひとつだけ心当たりがあった。

あまねの心の負担を、少しだけ軽くする方法。


ただし、それが本当にあまねのためになるのかは分からない。


間違った救いかもしれない。

後悔する決断かもしれない。


けれど、出会った翌朝、道路脇で見たあの暗い瞳。

そして今、焚火の前で静かに涙を流しているあまねの顔。


同じだった。


転生者であるバネッサには、あまねの人生を正しく導くことはできない。


母親の代わりにもなれない。

医者にも、教師にも、制度にもなれない。


それでも。


目の前の少女の心を、今この瞬間、少しでも軽くすることなら。


できるかもしれない。


バネッサは、あまねに向き直った。


「あまねさん」


あまねは顔を上げない。


「まだ幼いあなたに、これ以上の決断を迫るのは、やめますね」


あまねは無言のまま、小さく頷いた。


「無理に帰れとも言いません」


焚火が小さく爆ぜた。


バネッサは、次の言葉を口にするかどうか、最後の最後まで迷った。


これは一線を越える言葉だ。


けれど、もう越えている。

あまねと手をつないで山に戻った時点で、とっくに。


バネッサは静かに息を吸った。


「あまねさん」


そして、言った。


「私、実は魔法が使えるんですよ」

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