第6話「Take On Me - 手を取って、山へ」
「私は山に戻ります。あまねさん、お元気で」
別れの握手のつもりで、バネッサは片手を差し出した。
その手は、途中で止まった。
あまねの顔を見たからだ。
暗い目。
一文字に結ばれた唇。
何かを諦めたような、静かな表情。
バネッサの脳内に、警報が鳴った。
まずい。
これは、まずい。
このまま帰したら、とてもまずいことになるかもしれない。
バネッサの中では、今回の自分はこういう設定だった。
キャンプ地で偶然出会った、金髪の美人のお姉さん。
たまたま森で迷っていた少女を、街の近くまで送ってきただけ。
不審なところは一つもない。
本当に害のない一般人。
完璧である。
少なくとも、本人はそう思っていた。
これ以上、転生者である自分が、一般人の子供に踏み込むのは危険だった。
事情がありそうなのは分かる。
けれど、聞いたところで自分に何ができるのか。
この国の法律も、制度も、家族のことも、学校のことも、バネッサには詳しくない。
そもそも、関与すべきではない。
けれど。
泣き叫ぶでもなく、助けを求めるでもなく、ただ絶望の底に沈んだような顔をしている少女を、このまま道路脇に放り出していいのか。
それはそれで、非常にまずいのではないか。
ついでに、子供を山で一晩連れ回したことがばれたら、お巡りさんに怒られるかもしれない。
かなり怒られるかもしれない。
バネッサが考えを巡らせていると、不意にあまねが深く頭を下げた。
そして、何も言わずに駆け出した。
「あ」
まずい。
今の間は、最悪だった。
「待って、あまねさん!」
バネッサは慌てて声を上げる。
「ちょっと、えーと、待って待って!」
あまねが立ち止まった。
振り返る。
その顔を見て、バネッサは一度、難しい思考を手放した。
難しいことは、後でゆっくり考えよう。
今、必要なのはたぶん、正しい言葉ではない。
「えっと」
バネッサは言った。
「良ければ、もう一泊キャンプしていきます?」
あまねは、しばらくバネッサの顔を見ていた。
やがて、小さく頷く。
そして、ゆっくりとバネッサの方へ戻ってきた。
「ただーし、条件があります」
「条件……ですか」
「まず、マシュマロがなくなりましたので、今から買いに行きます」
あまねが、きょとんとした目でバネッサを見る。
マシュマロが、条件。
どういうことだろう。
「あっちの方にスーパーマーケットがあるのです。そこに付き合ってください」
よく分からない。
でも、あまねはとりあえず頷いた。
「それと」
バネッサは人差し指を立てた。
「今日の私は、お風呂に入りたいです」
「……お風呂」
「なので、二人で銭湯に行きます」
言ってから、バネッサ自身も少し首を傾げた。
自分は今、何を言っているのだろう。
さっき思考を止めた反動かもしれない。
けれど、悪くない気がした。
食べる。
温まる。
洗う。
眠る。
人間、だいたいそのあたりから立て直すものだ。
たぶん。
◇ ◇ ◇
初めて訪れる街に入る前、バネッサが小さなペンダントを差し出した。
「これ、首にかけておいてください」
「あ……はい」
あまねは受け取る。
「貸すだけですよ」
「分かりました」
「おまじないです。ほら、私とお揃いです」
バネッサは自分の首元を指でつついた。
そこにも、似たようなペンダントが下がっている。
おまじない。
たぶん、嘘だ。
けれど、あまねは何も言わずに首にかけた。
スーパーに入ると、あまねは少し身を固くした。
初めて入る店は苦手だった。
見慣れない照明。
耳慣れないBGM。
知らない人たちの足音。
レジの電子音。
冷蔵棚の低い唸り。
いろいろな音と色が、頭の中で重なっていく。
けれど、隣のバネッサはそれどころではなかった。
「見てください、あまねさん。マシュマロに新商品があります」
「はあ」
「こっちはチョコ入りです。こちらは大容量。これは……なんですかね、期間限定?」
バネッサは真剣だった。
かなり真剣だった。
その様子があまりに目立つので、あまねはだんだん恥ずかしくなってきた。
恥ずかしさが、苦手な音を少しだけ上書きしてくれた。
「あ、買い忘れがありました」
会計を終えたあと、バネッサがぽんと手を打つ。
「二階に行ってくるので、ちょっとここで待っていてください」
「はい」
あまねは店外の駐輪場脇で、ぼんやりと立っていた。
自分が住んでいた街とは、山を挟んで反対側にある街だ。
スーパーの前なんて、どこも似たようなものだと思っていた。
けれど、ふと違和感に気づく。
誰も、あまねを見ていない。
目が合わない、というだけではない。
本当に、見えていないような気がする。
後ろから近づいてきた店員が、あまねのすぐ横を通り過ぎる。
ぶつかりそうになっても、避けようとしない。
主婦が自転車を押して通る。
あまねの方を見もしない。
こういう街なのだろうか。
それとも。
あまねは胸元のペンダントに、そっと指で触れた。
「お待たせしました」
バネッサが戻ってきた。
「では、銭湯に行きましょう。久々だなぁ」
銭湯は初めてだった。
あまねは少し緊張しながら、バネッサと一緒に番台の横を通る。
脱衣所で、バネッサからスーパーの袋を受け取った。
「替えの……下着だけですけど」
バネッサは少し言いにくそうに視線を泳がせた。
「お風呂上がりは、綺麗なのが良いでしょう?」
「あ……ありがとうございます」
さっきの買い忘れとは、これのことだったのだろう。
どこか抜けているようで、抜けていない。
あまねは、ますますバネッサのことが分からなくなった。
二人並んで、髪と身体を洗った。
久しぶりのお湯だった。
一週間も経っていないはずなのに、家のお風呂に入っていた頃が、もうずいぶん昔のことのように思える。
湯船に肩まで浸かると、身体の奥から力が抜けていった。
隣では、バネッサが鼻歌を歌っている。
金髪をタオルで巻いているせいか、少しだけ外国人っぽさが薄れて見えた。
「あの」
「はい?」
「バネッサさんは、スポーツとかやってたんですか」
「スポーツですか?」
バネッサは少し考える。
「そうですね。格闘技を少々かな。どうしてです?」
「結構、しまってる身体つきだと思って」
「もう、ジロジロ見ないでくださいよお」
バネッサは大げさに肩をすくめた。
あまねは少しだけ、笑いそうになった。
風呂上がり。
脱衣所のベンチに並んで座り、二人でフルーツ牛乳を飲んだ。
瓶のふちが冷たい。
甘くて、少し懐かしい味がした。
「ここを出たら、隣のコインランドリーで洗濯です」
バネッサが言う。
「洗濯中に、食事にしましょう」
「はい」
コインランドリーで、またあの団子を食べるのだろうか。
文句は言えない。
言えないけれど、少しだけ覚悟した。
あまねの心配は外れた。
食事は、近くの牛丼屋だった。
外食経験の少ないあまねにとって、それは生まれて初めての牛丼だった。
温かいご飯。
甘辛い肉。
湯気。
ひと口食べると、思っていたよりずっと美味しかった。
バネッサは、牛丼屋なのにカレーを食べていた。
「牛丼屋なのに、カレーなんですね」
「牛丼屋のカレーも、立派なカレーです」
「……そうですか」
ずれている。
でも、そのずれ方が少しだけバネッサらしい気がした。
食事を終えてコインランドリーに戻ると、洗濯は終わっていた。
バネッサが乾いた衣類をリュックに詰めていく。
あまねは、買ってもらったお菓子と下着だけは自分で持つと言った。
「では、この布袋を使ってください」
「あ、ありがとうございます」
「はい。大事な荷物ですからね」
あまねは布袋を胸の前で抱えた。
「じゃあ、戻りましょうか」
「はい」
少し日が傾きかけた道を、二人は歩く。
自然と、手をつないでいた。
山に戻るのだ。
昨日まで怖かった山に。
けれど今は、一人ではなかった。




