第10話「Only I Remember - 忘れた少女、覚えている人」
あまねは、気がつくと公園のベンチで横になっていた。
空が見える。
木の葉の隙間から、昼前の光が落ちていた。
前にも来たことがある公園だった。
森に近い。
駅からは少し離れている。
どうして、こんな場所で寝ていたのだろう。
あまねは身体を起こした。
頭がぼんやりしている。
陽は高いのに、妙に眠かった。
まだ寝ぼけているのだろうか。
手には、見覚えのない布袋を持っていた。
中を覗く。
お菓子が入っている。
それから、袋に入った下着。
「……パンツ?」
あまねは小さく呟いた。
なぜ自分は、こんなものを持っているのだろう。
分からない。
けれど、家に帰らなければと思った。
駅は、たしかあっちだ。
駅まで行けば、その先は分かる。
あまねは布袋を抱え、歩き出した。
足元が少しふらつく。
ベンチで眠っていたくらいだから、疲れていたのかもしれない。
でも、いつから。
考えようとすると、頭の中に白い靄がかかった。
何かを忘れている。そう思った。
けれど、何を忘れているのかが分からなかった。
駅前の交番の前を通りかかったとき、制服を着た警官に呼び止められた。
「君、ちょっといいかな」
あまねはびくりとした。
初めてのことだった。
補導だろうか。
変なことはしていないはずなのに。
そう思ったが、うまく言葉が出なかった。
警官は無線で何かを話している。
すぐに別の警官も近づいてきた。
あまねは言われるままにパトカーに乗せられ、警察署へ連れて行かれた。
やましいことはしていない。
していないはずだ。
それなのに、大勢の大人に囲まれると、身体が固くなった。
小さな部屋に通される。
女性の警察官が、あまねの前に座った。
声は優しかった。
「お名前は言える?」
「住所は分かる?」
「今日は何を食べた?」
「今までどこにいたの?」
「誰と一緒だったの?」
名前と住所は答えられた。
けれど、その後の質問には、何ひとつ答えられなかった。
今日は何を食べたのか。
今までどこにいたのか。
誰と一緒だったのか。
分からない。
本当に、分からない。
あまねは自分でも訳が分からなくなり、布袋を抱きしめた。
そのうち、部屋の扉が開いた。
両親が入ってきた。
母が、泣いていた。
父も、顔をぐしゃぐしゃにしていた。
二人はあまねに駆け寄り、抱きしめてきた。
苦しいくらいだった。
「よかった」
母の声が震えている。
「よかった、あまね、よかった……」
あまねは母の背中に手を回した。
母はずいぶん痩せた気がした。
頬もこけている。
目の下に濃い影がある。
ママ、最近元気なかったけど、大丈夫なのかな。
そう思ってから、あまねは少し首を傾げた。
最近?
いつから、母に会っていなかったのだろう。
「ママ」
あまねは小さく言った。
「大丈夫?」
母は、はっとしたようにあまねの顔を見た。
そして、震える手であまねの頬に触れる。
「あまね、身体は?」
母の声がかすれた。
「お腹の……子は、無事なの?」
「うん」
あまねは自然に答えた。
「元気だよ。大丈夫」
母は、何とも言えない表情になった。
泣きそうで。
安心しているようで。
怖がっているようで。
何かを許されたようでもあった。
その横で、女性の警察官が静かに言った。
「まずは病院で診てもらいましょう。詳しいお話は、それからで大丈夫です」
あまねは、母に笑顔を向けた。
大丈夫よ、ママ。
私は大丈夫。
難しいことは、後でゆっくり考えるわ。
◇ ◇ ◇
焚火の前。
バネッサは、ぼんやりと座っていた。
手のひらの上には、忘却の三角がある。
鈍い金色の三角形の魔道具。
赤、青、紫の魔法鉱石が静かに輝いている。
朝の光の中で手にしていた時より、今はずっと重く感じた。
性格の悪い魔道具職人が、この道具に設けた最後の仕様。
指定された二つの記憶が消えたあと、その仕様は自動的に発動する。
忘却できる記憶は二つと説明した。
けれど本当は、その後に三つ目がある。
魔法使用者に関する記憶。
何を消されたのか。
誰に消されたのか。
その事実ごと、対象者の中から消してしまう。
だから、あまねはバネッサを忘れた。
焚火。
マシュマロ。
銭湯。
フルーツ牛乳。
牛丼屋のカレー。
手をつないで歩いた山道。
全部。
思い出としては、何も残らない。
「……無責任すぎます、よね」
バネッサは、小さく呟いた。
ただ、魔道具職人ばかりを責めることもできない。
あまねにバネッサの記憶が残れば、都合の悪いことはいくらでもあった。
山の中にいた金髪の女。
カメラと偽った道具。
街で身に着けさせたペンダント。
そして、忘却の三角。
覚えていない方がいい。
そう決めたのは、バネッサだ。
川辺で魔法を使ったのも、あまねを人里へ戻すためだった。
いつ目覚めるか分からない。
目覚めたあと、どれほど混乱するかも分からない。
だから、少しでも街に近い場所を選んだ。
あの公園のベンチまで運び、目が覚めるのを待った。
そして、あまねが起き上がり、ふらふらと歩き出すのを、物陰から見守った。
駅前の交番に近づくまで。
警官に呼び止められるまで。
あまねが保護されるまで。
ずっと。
小枝を折り、焚火にくべる。
今日はマシュマロを炙る気になれない。
今回の措置が正しかったのか、バネッサには分からなかった。
転生者ではない一般人の少女に魔道具を使った。
彼女の記憶を壊した。
そして、その後をこれ以上見守ることができない。
自分は、越えてはいけない一線を越えたのではないか。
その思いが消えない。
忘却の三角は、救済装置と呼ばれている。
暗い過去の記憶を消し、明日へ一歩踏み出させるための魔道具。
バネッサも、そのつもりで使った。
けれど同時に、それは人の人生を勝手にねじ曲げる道具でもある。
あまねが何の記憶を消したのか、バネッサには分からない。
それはそれでいい。
知らなくていいように作られた道具なのだから。
今は、ただ願うことしかできない。
消した記憶が、あまねの重荷を少しでも軽くしていること。
家族や周囲と、もう一度向き合えること。
そして、無事に赤ちゃんを産めること。
まずは、それでいい。
そう信じるしかない。
バネッサは長い息を吐いた。
難しいことは、後でゆっくり考えよう。
久遠――不老である自分には、時間だけはたっぷりあるのだから。




