第3話「Alone Again - ひとりぼっちの山」
──どこに行こう。
あまねには、行き先が思いつかなかった。
家を出ることだけは決めていた。
けれど、その先のことは何も考えていなかった。
昔見た映画で、子供たちが洞窟に住む場面があった。
ああいうふうにすれば、自分も暮らせるだろうか。
公園の水道で水筒を満たし、スーパーでお菓子を少し買った。
レジ袋の中を覗く。
見慣れた包装紙が目に入る。
前に母が買ってくれたお菓子だ。
思い出した瞬間、胸の奥がぐしゃぐしゃになった。
悲しい。
怖い。
腹が立つ。
どれが本当の気持ちなのか、自分でも分からない。
ただ、ひとつだけ分かっていた。
もう、あそこにいてはいけない。
その夜、あまねは公園の遊具の中で眠った。
眠った、というより、夜が過ぎるのを待った。
防寒用に持ってきた冬用のジャケットを頭からかぶり、膝を抱える。
暗い遊具の中は、思っていたより寒かった。
外を走る車の音が、ときどき大きく膨らんで聞こえた。
あまねは声を立てずに泣いた。
夜が明けたら、山に行ってみよう。
山なら、少しは楽しくなる。
楽しくなるはずだ。
早朝。
寒さで目を覚ましたあまねは、リュックを背負って歩き出した。
いつも遠くから眺めていた山だった。
けれど近づいてみると、思っていた景色とは違っていた。
国道が通っていて、車の音が絶えない。
トラックが通るたびに、空気が重く震える。
山は、もっと静かな場所だと思っていた。
立て看板の地図を見ると、近くに川があるらしい。
釣りなんてやったことはない。
でも、魚は素手で捕まえられるものだろうか。
国道から外れたところに、登山口があった。
ハイキングコースと書かれている。
歩きやすそうだったので、あまねはそちらへ向かった。
家出というより、一人ハイキングみたいだ。
陽が高くなるにつれて、気温も上がってきた。
木々の間を抜ける風が、頬に気持ちいい。
人工的な音が遠ざかると、あまねの呼吸は少しずつ落ち着いていった。
葉の揺れる音。
鳥の声。
土を踏む音。
それらは、家の中の音とは違っていた。
責めてこない。
濁っていない。
変な色をしていない。
無心で身体を動かしていれば、悪いことを考えずに済んだ。
汗を拭きながら山道を進んでいると、唐突に川が現れた。
けれど、それもあまねが想像していた川とは違った。
両岸はコンクリートで固められている。
水は流れているが、絵本に出てくるような自然の川ではない。
上流に行けば、もっと自然が残っているのだろうか。
あまねは川の上流を目指して歩き始めた。
行楽シーズンとはいえ、平日だった。
散策している人とは、滅多にすれ違わない。
それでも誰かとすれ違うたびに、あまねはフードを目深にかぶった。
顔を見られたくなかった。
声をかけられたくなかった。
山道は、いつも川と並んでいるわけではなかった。
少し気を抜くと、すぐに水音が遠ざかる。
見失わないように、あまねは何度も耳を澄ませた。
昼頃、少し開けた場所を見つけた。
そこで昼食を取ることにした。
といっても、食パンを一枚だけだった。
何があるか分からない。
大事に食べなければならない。
あまねは小さくちぎって、ゆっくり口に運んだ。
途中、洞窟がないか探しながら歩いた。
映画みたいな洞窟。
雨風をしのげて、誰にも見つからない場所。
けれど、そんな都合のいいものは見当たらなかった。
陽が少しずつ傾いていく。
昼間は気づかなかったが、山道には街灯がない。
夕方になれば、森は思っていたより早く暗くなる。
あまねは途方に暮れた。
それでも、家に戻る気にはなれなかった。
夕暮れの山道を進んでいると、また川の音が近くなった。
目を凝らすと、川べりに大きな岩が見えた。
あそこなら、風よけになるかもしれない。
山道を外れ、川べりへ降りようとした。
その瞬間、足元の土が崩れた。
「あ」
声を出す暇もなく、あまねの身体は斜面を滑った。
次の瞬間、冷たい水が全身を包んだ。
思っていたより深い。
足がつくか、つかないか。
けれど流れが強く、身体がすぐに持っていかれる。
水が口に入った。
咳き込もうとして、さらに水を飲む。
声が出ない。
水の音。
夕日を反射する水面の光。
冷たさ。
息苦しさ。
すべてが一度に、頭の中へ流れ込んできた。
あまねは必死に周囲へ意識を向けた。
視界の端に、大きな流木が見えた。
手を伸ばす。
指先が滑る。
もう一度伸ばす。
爪が木肌に引っかかった。
あまねは必死でそれにつかまり、流されながらも岸の方へ身体を寄せた。
枯草が生い茂る岸に、どうにか這い上がる。
息ができた。
しばらく、そこから動けなかった。
流されている途中で何かに引っかかったらしい。
リュックが大きく裂けていた。
中身はほとんど残っていない。
食パンも、水筒も、予備の服もない。
かろうじて残っていたのは、水浸しのキャンディーだけだった。
あまねは包装を破り、それを口に入れた。
甘い味がした。
それだけで、また泣きそうになった。
水を吸った上着は、ひどく重かった。
このままでは危ない。
あまねは震える手で上着を脱いだ。
その下の服も濡れていたが、全部脱ぐ勇気はなかった。
ひとまず岩陰まで移動し、座り込む。
火を起こす道具は持ってきていなかった。
持ってきていたとしても、きっと流されていただろう。
泣いている場合ではない。
あまねは近くの枯草をかき集めた。
濡れた上着を絞り、身体の周りに枯草を寄せる。
隙間風が入る。
草はちくちくして痛い。
湿った匂いもする。
それでも、濡れた服のまま風に当たるよりはましだった。
完全に陽が落ちる前、少し離れたところに捨てられたレジャーシートを見つけた。
運が良かった。
あまねはそれに身を包み、その上から枯草をのせた。
いつの間にか眠っていた。
寒さで目が覚めた。
まだ、夜だった。
空は暗く、日が昇る気配はない。
身体の芯が冷えている。
あまねは立ち上がり、足踏みをした。
腕をこすり、身体を動かす。
止まったら、もっと寒くなる気がした。
日が昇るまで、あまねはがたがたと震えながら身体を動かし続けた。
少しずつ、空が明るくなっていく。
朝になって分かった。
あまねが流れ着いたのは、それまで歩いていた山道の対岸側だった。
見渡しても、元の岸へ戻る手段はない。
橋もない。
浅瀬もない。
こちら側に道はあるのだろうか。
そう思いながら、あまねは歩き出した。
とにかく身体を動かしたかった。
体温を上げたかった。
服が少しでも早く乾いてほしかった。
陽が高くなれば、きっと何とかなる。
そう思った。
音を頼りに、自動車や人の声を探した。
一日中、森の中を歩き続けた。
けれど、聞こえるのは葉擦れの音と、鳥の声と、自分の息だけだった。
やがて、あまねは完全に迷ってしまった。
どちらから来たのか分からない。
川の音も遠い。
山道も見つからない。
陽が落ちる。
森の中が、どんどん暗くなっていく。
このまま、死んでしまうのだろうか。
木に寄りかかりながら、あまねは口を開いた。
叫び出しそうになった。
けれど、声は出なかった。
そのときだった。
ふと顔を上げると、遠くに光が見えた。
焚火だろうか。
けれど、見たことのない揺らぎがあった。
赤でも、橙でもない。
炎の色なのに、炎ではない。
山の中で、そこだけがぽつんと光っている。
あまねは、その光から目を離せなかった。
怖いはずなのに、なぜか近づかなければならない気がした。
何かに引き寄せられるように、あまねは光へ向かって歩き始めた。




