第2話「She’s Leaving Home - 少女は家を出る」
総合病院で、詳しい検査が行われた。
結果は、かかりつけ医の見立て通りだった。
あまねの妊娠は、確定した。
推定、妊娠十八週。
母親は、その数字の意味をすぐには理解できなかった。
十八週。
もう、ただの異変では済まないところまで来ている。
その日から、あまねの診察と並行して、カウンセリングが始まった。
妊娠の事実を告げられたとき、あまねは一瞬だけ目を丸くした。
けれど、それだけだった。
「……そうなんだ」
小さく、そう呟いただけだった。
ある程度の予感はあったのだろう。
それが余計に、母親には恐ろしかった。
大人たちは、今後の診察予定や注意事項を説明した。
生活で気をつけること。
学校への対応。
体調の変化。
これから決めなければならないこと。
あまねは、無表情のまま聞いていた。
聞いているのか。
ただ音として受け取っているだけなのか。
母親には、分からなかった。
ただひとつ、はっきりしていることがあった。
妊娠の相手について、あまねは一切口を開かなかった。
「誰かに何かされたの?」
カウンセラーが穏やかに尋ねても、あまねは首を横に振ることもしなかった。
膝の上で手を重ねたまま、黙っている。
その沈黙に、カウンセラーも、両親も、少しずつ追い詰められていった。
◇ ◇ ◇
産科医とカウンセラーから、出産と中絶の選択について説明があった。
白いテーブルの上に、何枚もの書類が並べられている。
「発見が遅れています。母体保護法上、人工妊娠中絶が可能な時期には期限があります。妊娠満二十二週未満です。あまねさんの場合、その期限が迫っています」
母親は、書類に書かれた数字を見つめた。
二十二週。
十八週。
その差が、あまりにも短く感じられた。
「本人の希望は、現時点では出産とのことです。ただ、あまねさんはまだ十一歳です。身体的にも、心理的にも、ご家族の支えが不可欠になります」
十一歳。
その言葉だけが、母親の耳に残った。
小学生だ。
まだ、ランドセルを背負っている子供だ。
「あまねさんは年齢のわりに発育は良好ですが、出産となれば慎重な管理が必要です。妊娠に至った経緯が分かっていないこと、今後の生活や学校、ご家族の生活にも大きく関わります」
母親は、膝の上で両手を握りしめた。
学校。
家族。
これからの生活。
言葉が次々と積み重なっていく。
けれど、どれも現実のものとは思えなかった。
「時間は多くありません。けれど、軽く決めていいことでもありません。ご家族で、じっくり、しかし急いで話し合ってください」
じっくり。
急いで。
矛盾した二つの言葉が、母親の頭の中でぶつかった。
考えなければならないことが多すぎる。
それでも母親は、歯を食いしばって夫と書類を確認し、今後について話し合った。
母親は、中絶しかないと思っていた。
十一歳の子供が、子供を産む。
そんなことが、あっていいはずがない。
それが娘のためだと思った。
けれど夫が、ぽつりと言った。
「産ませてやってもいいんじゃないか」
母親は、夫の顔を見た。
言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
「何を言ってるの」
「いや……あまねがさ」
夫は困ったように笑った。
「お腹、撫でてたんだ。すごく優しい顔で。あの顔を見たら、無理に取り上げるのも違う気がして」
母親は、茫然と夫を見つめた。
この人は、何を見ているのだろう。
娘の横顔か。
まだ形にもなっていない命か。
それとも、何もかもが丸く収まる都合のいい未来か。
「あなた、分かってるの?」
母親の声は震えていた。
「産むってことは、その後があるのよ。あまねはまだ小学生なのよ。誰が面倒を見るの。誰が学校に説明するの。誰がこの子を守るの」
夫は口を閉ざした。
その沈黙が、答えだった。
結局、あまね本人の希望を受け入れる形で、出産の方向に決まった。
決まった、というより、流されていった。
母親にはそう思えた。
その日から、母親は家庭の中で少しずつ孤立していった。
夫は優しかった。
できることは全部やる、と言った。
けれど、普段は会社に行っている。
家にいる時間は短い。
あまねの顔色の変化も、食事の量も、夜中に起きている気配も、夫は知らない。
知らないまま、優しいことを言う。
それが、母親には許せなかった。
あまねもまた、母親には遠く見えた。
お腹を撫でる。
静かに座っている。
何かを受け入れたような顔をする。
けれど、十一歳の子供に何が分かるのか。
産んだ後のこと。
学校のこと。
世間のこと。
これからの生活のこと。
結局、母親である自分が背負うことになる。
夫が帰宅して、あまねの隣に座る。
微笑みながら、そっとあまねのお腹に手を当てる。
「大丈夫だよ」
あまねが、ほんの少しだけ笑う。
その光景を見て、母親は立っていられなくなった。
トイレに逃げ込む。
鍵をかける。
便座に座ることもできず、ドアに背を預けたまま息を殺した。
泣き声を聞かれたくなかった。
そしてあまねが、そんな母親の変化に気づかないはずがなかった。
◇ ◇ ◇
あまねは、日ごとに変わっていく家の気配に気づいていた。
父の声。
母の足音。
食器が触れ合う音。
冷蔵庫の低い唸り。
カーテンの隙間から入る夕方の光。
それらの色が、少しずつ暗くなっていく。
前は、家の中にはいろいろな色があった。
父の声は、少し乾いた薄茶色。
母の声は、やわらかい桃色に近かった。
夕飯の匂いは橙色で、テレビの音は薄い水色だった。
今は違う。
父の声は、上から白い布をかぶせたみたいにぼやけている。
母の声は、硬い灰色になっている。
家全体が、知らない場所に変わっていく。
あまねは、絵が描けなくなった。
スケッチブックを開いても、何も置けない。
線を引こうとすると、手が止まる。
色が分からない。
父と母の姿が、少しずつぼやけ始めていた。
忘れてしまいそうで、怖かった。
だからあまねは、両耳をふさいで過ごすようになった。
聞こえすぎる音を遮るためではない。
父と母の声を、こぼさないためだった。
父は優しい言葉をかけてくれる。
「無理するなよ」
「体、大事にしような」
「困ったことがあったら言うんだぞ」
でも、父はあまねの目を見ない。
母はあまねを気遣ってくれる。
「寒くない?」
「食べられる?」
「気持ち悪くない?」
でも、その声は日ごとに無機質になっていく。
あまねが二人を見ると、二人はすぐに微笑む。
「どうしたの?」
その笑顔は、遠かった。
昔は違った。
絵を描くと、父は大はしゃぎで褒めてくれた。
初めて個展が開かれたとき、母は涙ぐんでいた。
自分は愛されているのだと思っていた。
しかし今の両親は、遠くからこちらを眺めている鳥のようだった。
近くにいるはずなのに、触れられない。
声は届くはずなのに、意味が届かない。
ある日、学校から帰ると、母がソファーでうたた寝をしていた。
珍しいことだった。
母は最近、あまり眠れていないようだった。
目の下に薄い影ができている。
あまねはランドセルを置き、そっと近づいた。
風邪をひいてしまう。
ソファーのそばに畳んであったブランケットを手に取る。
母の肩にかけようと、身を寄せた。
その瞬間、母が目を覚ました。
短い悲鳴が上がった。
あまねは動けなくなった。
母の目を見た。
そこにあったのは、恐怖の色だった。
寝ぼけているのだと、あまねは思おうとした。
きっとそうだ。
急に起きたから、驚いただけだ。
「ママ」
あまねは小さく言った。
「あまねだよ」
母は、あまねを見ていた。
けれど、その目は娘を見る目ではなかった。
「ちがう」
母の唇が震える。
「あんたは、あまねじゃない」
「……ママ?」
母は顔を歪めた。
泣いているようにも、怒っているようにも見えた。
「返して」
声が、ひび割れていた。
「返してよ」
あまねは、息をするのを忘れた。
「返して、あの頃のあまねを返してよ」
その言葉は、音ではなかった。
色でもなかった。
あまねの中で、何かが静かに割れた。
◇ ◇ ◇
その晩、あまねは家を出た。
朝、母親が部屋に入ると、そこはもぬけの殻だった。
ベッドは空だった。
机の上に書き置きはない。
スケッチブックも、開かれないまま置かれていた。
遠足用のリュックが消えていた。
水筒もない。
貯金箱は空になっていた。
キッチンに置いてあった食パンも、袋ごとなくなっていた。
母親は、最初、意味が分からなかった。
次に、理解した。
あまねがいない。
両親は街中を探し回った。
学校への道。
近所の公園。
公民館。
駅前。
よく行っていた画材店。
コンテストの帰りに寄った喫茶店。
クラスメートの家や知り合いにも連絡した。
ただし、妊娠のことは言えなかった。
「少し、家を出てしまって」
「そちらに行っていませんか」
「見かけたら、すぐ連絡をください」
どの返事も、同じだった。
見ていない。
来ていない。
知らない。
日が暮れても、あまねは見つからなかった。
夜になり、母親はようやく警察に相談することにした。
受話器を握る手が、震えていた。




