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第1話「Fragile - 壊れものの少女」

小学生になったあまねに、父親が子供向けの絵画セットを贈った。


十二色の絵の具。小さな筆。白いスケッチブック。


それから、あまねは毎日絵を描くようになった。

一日に一枚。多い日には二枚。


最初のうち、両親はそのスケッチブックを楽しみに覗き込んでいた。


けれど、すぐに首をかしげるようになった。


何を描いているのか、よく分からないものが多かったからだ。


風景のようにも見える。動物のようにも見える。

だが、輪郭は曖昧で、色の置き方も普通ではない。


子供らしい自由な絵、と言えばそうなのかもしれない。


けれど、母親には時折、それがただの落書きではないように思えた。


何かを、見えている通りに描いている。

ただし、それは自分たちとは違う見え方なのだと。


父親は笑って言った。


「何か才能があるのかもしれないな」


近所の公民館で、毎週子供向けの絵画教室が開かれていた。

両親は軽い気持ちで、あまねをそこに通わせることにした。


教室で指導していたプロの画家は、すぐにあまねの異質さに気づいた。


驚いた、というより、困惑した。


技法はまだ幼い。

鉛筆の持ち方も、筆の扱いも、年相応だった。


それなのに、画面の中にある色と線だけが、妙に完成されていた。


基本的な技法を教えると、あまねはすぐに吸収した。

画家の勧めで小学生向けのコンテストに出展すると、毎回のように優秀な成績を収めた。


やがて、あまねは少しずつ世間の注目を集め始める。


天才少女。


そう呼ばれるようになったのは、十歳になる頃だった。


個展も開かれた。

新聞の地方欄に小さく載り、テレビ局の取材も来た。


両親は誇らしかった。


少なくとも、最初は。


あまねは目が良かった。

そして、耳も良かった。


ただしそれは、単に視力や聴力が優れているという意味ではなかった。


あまねの中では、目で見たものと、耳で聞いたものが、同じ場所に並んでいた。


猫の鳴き声を聞く。

すると、あまねはそれを色に置き換える。


風の音を聞く。

すると、線の震えとして画面に落とし込む。


ある日、母親は猫を写生しているあまねを見た。


縁側に座る三毛猫が、小さく鳴く。


あまねはそれを聞いた瞬間、筆先に黄色を含ませた。

次に青、その上から、薄い灰色を重ねる。


猫の形は、ほとんど描かれていない。


けれど母親には、なぜか分かった。


あまねは猫を見ているのではない。

猫の声を、描いている。


その瞬間、母親の胸に小さな恐怖が生まれた。


この子は、自分の声をどんな色で見ているのだろう。


自分の顔を。

自分の感情を。

母親である自分のことを。


あまねは、どのように見ているのだろう。

考えたくなかった。


ある日の夕食前だった。


あまねは窓辺に立ち、外を見ていた。

夕暮れの光が、横顔に薄くかかっている。


「あまね、ご飯よ」


母親が声をかける。

けれど、あまねは振り返らない。


「あまね?」


やはり反応がない。

聞こえていないのだろうか。


それとも、聞こえているのに無視しているのだろうか。


母親の中で、小さな苛立ちが弾けた。


「あまね、ご飯だってば」


思ったよりも大きな声が出た。


その瞬間、あまねの体がびくりと震えた。


両手で耳を塞ぎ、肩を丸める。

苦しそうに顔を歪め、涙を浮かべた目で母親を見る。


責めるような目だった。

怯えるような目でもあった。


「ママ」


あまねは小さく言った。


「お願い。大きな声は出さないで」


母親は、何も言えなかった。


◇ ◇ ◇


あまねが十一歳になった頃。


母親は、娘との距離感をまだ掴めずにいた。


愛していないわけではない。

大切ではないわけでもない。


ただ、どう触れればいいのか分からなかった。


近づきすぎれば、あまねは苦しそうな顔をする。

離れすぎれば、自分が母親ではなくなっていくような気がした。


それでも日々は、大きな波風もなく過ぎていた。


学校へ行き、帰ってくる。

絵を描く。

食事をする。

眠る。


そんな平穏な日々の中で、母親は最近のあまねの様子がおかしいことに気づいた。


顔色が悪い。

食欲にむらがある。

朝、起きてくるのが遅い日が増えた。


「具合、悪いの?」


そう尋ねても、あまねは首を振るだけだった。


「別に。何ともない。ただの運動不足」


学校の健康診断では、特に問題はなかった。

むしろ、あまねは同年代の子供よりも体格が良かった。


背も高い。

顔立ちも大人びている。


時折、高校生に間違われることすらあった。


発育には問題ない。

なら、何か別の病気だろうか。


心配になった母親は、かかりつけの医師のもとへあまねを連れて行った。


診察室でも、あまねは不調を認めようとしなかった。


「本当に何ともないです」

「でも、お母さんは心配しているみたいだね」


医師は穏やかに言った。


「念のため、検査だけしておこうか」


あまねは少し面倒くさそうにしたが、強く拒むことはなかった。


翌日。


病院から連絡が入った。

母親だけで来てほしい、という内容だった。


その言葉を聞いた時点で、母親は胸の奥が冷たくなるのを感じた。


診察室に入ると、医師はいつものようには笑わなかった。

複雑な表情で、目の前の椅子を手で示す。


「お母さん。落ち着いて聞いてください」


母親は座った。

膝の上で、両手を握りしめる。


医師は一度、言葉を選ぶように息を吸った。


「……あまねさんは、妊娠しています」


母親は、意味が分からなかった。


音だけが耳に届いているが、心が拒否している。


「まだ詳しい確認は必要ですが、妊娠十五週を過ぎている可能性があります」

「……え」


自分の声が、ひどく遠くに聞こえた。


「どうして……何で」

「総合病院を紹介します。妊娠の経過の確認も必要ですし、心のケアも含めて、専門的に対応してもらった方がいいと思います」

「あの、あの……」

「お母さん。大変なことです。ショックを受けるのは当然です。ですが、まずは落ち着いてください」


医師の声は静かだった。


「これから多くの大人が、あまねさんを守るために動きます。まずは旦那様とも情報を共有してください。その上で、今後のことを一つずつ決めていきましょう」


母親は、ただ頷くことしかできなかった。


医師は少し間を置いた。


「それと……」


言いにくそうに、視線を落とす。


「妊娠の経緯について、何か心当たりはありますか」

「……いえ」


母親は首を振った。


「まったく。学校と家の往復の生活ですし……」


言いながら、自分の言葉がどれほど頼りないかを思い知る。


本当にそうだったのか。

自分は、あまねのことをどこまで見ていたのか。


「分かりました。詳しい検査と並行して、カウンセリングを受けるよう手配します」

「……はい」

「それから、あまねさん本人には、妊娠のことを今ここで無理に伝えない方がいいでしょう。本人が気づいている可能性もありますが、慎重に進めるべきです」


医師は母親をまっすぐ見た。


「決して、一足飛びに相手は誰だ、などと問い詰めないでください」


母親は、力なく頷いた。


紹介状を受け取り、病院を出た。


外は明るかった。

その明るさが、ひどく場違いに思えた。


母親の顔色は真っ青だった。


会社にいる夫へ連絡する。


緊急事態だから、今日は早く帰ってきてほしい。

それだけを伝えるのに、何度も声が詰まった。


電話を切ったあと、母親はしばらく病院の前に立ち尽くした。


家に戻りたくなかった。


あまねの顔を見るのが怖かった。

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