境目
朝、学校に行くと、僕の机の上には花瓶が置いてあった。
黒板には、〝死ね〟と大きな文字が、チョークで書かれていた。
一時、用具室の事件で、ほとぼりが冷めたかのように思われたいじめは、どうやら嵐の前の静けさだったようだ。
五十嵐君は、机に置かれた花瓶の水を、ランドセルを背負ったままの僕に頭からかけてこう言った。
「花瓶ってさ、置いとくだけじゃマジでベタだろ?」
そして、仲間の四人とクラスの皆を、いつものように煽る。
度胸試しなどと称して、これを機にいじめはまた、再開した。
でも、いつものように、金子君達四人は乗って来なかった。
この前の事が相当堪えたのか、あまり乗り気ではないらしい。
クラス中を含め、遠巻きに見ている四人。
それを五十嵐君は、大声で怒鳴りながら睨み付けた。
「おい‼お前らぁ‼これくらいで、ビビってんじゃねえよ‼」
怒鳴り声に、静まり返る教室。
黒板を目掛けて、花瓶を力一杯投げつける五十嵐君。今日の五十嵐君は、また一段と荒ぶっている。
見事、命中した花瓶は、音を立てて粉々に割れた。床には、無残な花とガラスが水に流れて散らばっている。
その音に、クラス中が怯える中、四人が渋々教卓の前に集まって来た。
もう、他のクラスの子達もちらほら集まって来てしまっている。
もはや、金子君達でさえ、五十嵐君には逆らえないのだ。
それを見た五十嵐君は、ニヤッと笑うと、僕に向き直り、僕の首元を掴んだ。
「お前、正体現わせよ‼皆だって、こいつの正体見たいよなぁ!」
それを聞いた他のクラスの子達が、手を叩いてそれに賛同した。
クラス全員と、他のクラスの子達も含めた沢山のギャラリー。
朝のホームルームにはまだ早く、先生達が来ない時間を確実に狙う。
格好の舞台で、今までで一番のゲームをするつもりなのだ。
きっと、これも五十嵐君には計算済みだ。
五十嵐君には、ぬかりなんて無い。
周りの大人にバレない方法も熟知している。僕にもこういう要領の良さがあれば、母さんにもっと愛されていたのかもしれないと、そんな馬鹿げた事をふと思った。
五十嵐君は、首元を掴んでいた腕を、遠心力で離すと、体重の軽い僕は、あっけなく教卓にぶつかって、床に倒れこんでしまった。
倒れこんだ僕に、ギャラリーの歓声は、拍手と共に高まった。
皆どこか他人事で、誰も他人事じゃないこの状況を、楽しんでいるのだ。
それに気を良くした五十嵐君は、倒れたままの僕に、しゃがみこんで言った。
「なぁ、検証しようぜ。お前が本当に、変な力が使えるのか。」
四人にあごで合図すると、金子君達は僕の体を押さえつけ、僕はまた身動きが取れなくなってしまった。
体育用具室の時と、同じ状況。
僕が、検証の意味を理解した時は遅かった。
「ここで、この前と同じ事しようぜ。なぁ、楽しいだろ?森本!」
嘘だと思った。
あれ以上なんて無いと思っていたのに。
僕が、何をしたって言うんだ。
「やめてぇ‼やめてぇっ‼‼」
大声で泣き叫びながら抵抗する僕に、五十嵐君は、全く表情を変えずに言った。
「やめて欲しかったら、あん時の変な力を出してみろよ。」
口を塞がれ、沢山のギャラリーの前で、パンツを脱がされる僕。
時が止まったみたいだった。
これが、現実なのかも分からず、呆然と目の前を眺めた。
でも、夢だってこんな残酷な事は思いつかない。
ギャラリーの中の傍観していた子達が、"公開処刑"だと言って笑っていた。
五十嵐君は手当たり次第、その何人かの子達にマッキーペンを手渡している。
考えたくはないけど、そうゆう事だ。
これは遊び。単なる悪ふざけ。
だから、みんな迷わず僕のおちんちんに落書きをする。みんな、笑っている。
誰も、助けてはくれない。
ホームルーム前の壮絶な光景。
これに、気分を悪くした数人の女子達が、教室を出ていった。
裸にされ、全身に落書きされた後、用具室の時同様、使い捨てカメラで何枚も写真を撮られた。
一緒に写った何人かは、皆満面の笑みでピースサインをしている。
「森本。お前この後、何されるんだっけ?」
五十嵐君がそう言うと、僕の周りに群がる人だかりは、自然とはける。
僕のお腹の辺りを、何度も蹴る五十嵐君と、何も言わず耐え続ける僕。けれど、五十嵐君の声は荒ぶるばかりだった。
「なぁ‼なぁ‼なぁ‼言えよ‼おらぁ‼ちんこ切ってくださいって言えよ‼」
これは、あの時の再現なのだ。五十嵐君は、あの時のようにすごんでいる。
そして、僕の前髪を掴み、力ずくで僕の顔を引き寄せた。
眉間にしわを寄せた五十嵐君の顔が、数センチの近さで止まる。
僕は、息を殺すので精一杯だ。
取り出されたカッターナイフが、僕に向かってくる…。僕は、一か八か五十嵐君を蹴り上げた。
「がっ‼」
五十嵐君は、少し後ろによろめき、口元に付いた血を、右腕でふき取りながら体制を整える。どうやら、僕の蹴りが顎の辺りをかすめるように入ったようだ。
「このっ‼」
予想外の僕の抵抗に、教室中がまた静まり返った。
五十嵐君は、僕を睨み続けている。
僕も、五十嵐君を睨み返す。
初めて、人に対してこんなにも攻撃的な態度をとった。
母さんにも、こんな態度をとった事はない。
〝勇気を出す〟というのとは、また違う感情のような気もした。
しかし、そんな僕を五十嵐君は馬鹿にしたように鼻で笑うと、また僕の前にしゃがみ、こう言った。
「なぁ、お前って何で生きてんの?」
刃物で突き刺されるより、深く深く奥まで貫かれるようだった。
言われた通り。
その通りだと思ってしまったからだ。
それを皮切りに、消えろコールが鳴り響く。
その場にいた全員が、それに合わせて拍子をとっていく。
こんなになっても、僕から傷つく心が消えてくれる事は無い。
僕だって消えたい。消せるものなら…。
だけど、この世界はいつだって、僕だけを取り残して、置いて行ってしまうんだ。
廊下で誰かが、「先生来たっぽい!」と叫んだ。たぶん、村上先生が来たのだろう。
それを聞いて、他のクラスの子達も皆、一斉に自分の席に戻っていく。
僕は、金子君達の腕がひるんだ隙に、たまらず教室を抜け出した。
まだ、学校はこれから始まったばかりで、授業も受けていない。
廊下で村上先生とすれ違い、何かを言われたような気がしたけど、無視して全力で走り去った。
階段を駆け下りた先の、誰もいない通路。
そこまで行くと、急いで服を着替え、一心不乱に校舎を駆け抜けた。
ランドセルも持たず、裸足でコンクリートのアスファルトの上を歩く。
真夏の太陽の日差しで、焼け付く道路の上を裸足で歩いた。僕の足は、既に限界だ。
でも今は、そんな事を思う余裕さえ無い。
半袖・半ズボンでは、隠し切れないマッキーペンの落書きの跡と、未だ涙の跡が残る頬。
通行人の大人の人達が、ぎょっとした顔で僕に気づき、道路の端へ避けていった。
仕事で家を出ている母さんが、帰って来るまでの時間でいい。
僕に、もう一度だけ、海と会うチャンスを下さい。
もう一度、その境目を超える力を下さい。
神様でもない、誰に祈るわけでもなく、ただそれだけを祈るように歩いた。




