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鏡張りの部屋  作者: 市川滝
7/10

境目


朝、学校に行くと、僕の机の上には花瓶が置いてあった。

黒板には、〝死ね〟と大きな文字が、チョークで書かれていた。

一時、用具室の事件で、ほとぼりが冷めたかのように思われたいじめは、どうやら嵐の前の静けさだったようだ。

五十嵐君は、机に置かれた花瓶の水を、ランドセルを背負ったままの僕に頭からかけてこう言った。

「花瓶ってさ、置いとくだけじゃマジでベタだろ?」

そして、仲間の四人とクラスの皆を、いつものように煽る。

度胸試しなどと称して、これを機にいじめはまた、再開した。

でも、いつものように、金子君達四人は乗って来なかった。

この前の事が相当堪えたのか、あまり乗り気ではないらしい。

クラス中を含め、遠巻きに見ている四人。

それを五十嵐君は、大声で怒鳴りながら睨み付けた。

「おい‼お前らぁ‼これくらいで、ビビってんじゃねえよ‼」

怒鳴り声に、静まり返る教室。

黒板を目掛けて、花瓶を力一杯投げつける五十嵐君。今日の五十嵐君は、また一段と荒ぶっている。

見事、命中した花瓶は、音を立てて粉々に割れた。床には、無残な花とガラスが水に流れて散らばっている。

その音に、クラス中が怯える中、四人が渋々教卓の前に集まって来た。


もう、他のクラスの子達もちらほら集まって来てしまっている。

もはや、金子君達でさえ、五十嵐君には逆らえないのだ。

それを見た五十嵐君は、ニヤッと笑うと、僕に向き直り、僕の首元を掴んだ。

「お前、正体現わせよ‼皆だって、こいつの正体見たいよなぁ!」

それを聞いた他のクラスの子達が、手を叩いてそれに賛同した。

クラス全員と、他のクラスの子達も含めた沢山のギャラリー。 

朝のホームルームにはまだ早く、先生達が来ない時間を確実に狙う。

格好の舞台で、今までで一番のゲームをするつもりなのだ。

きっと、これも五十嵐君には計算済みだ。 

五十嵐君には、ぬかりなんて無い。

周りの大人にバレない方法も熟知している。僕にもこういう要領の良さがあれば、母さんにもっと愛されていたのかもしれないと、そんな馬鹿げた事をふと思った。

五十嵐君は、首元を掴んでいた腕を、遠心力で離すと、体重の軽い僕は、あっけなく教卓にぶつかって、床に倒れこんでしまった。

倒れこんだ僕に、ギャラリーの歓声は、拍手と共に高まった。

皆どこか他人事で、誰も他人事じゃないこの状況を、楽しんでいるのだ。

それに気を良くした五十嵐君は、倒れたままの僕に、しゃがみこんで言った。

「なぁ、検証しようぜ。お前が本当に、変な力が使えるのか。」

四人にあごで合図すると、金子君達は僕の体を押さえつけ、僕はまた身動きが取れなくなってしまった。


体育用具室の時と、同じ状況。

僕が、検証の意味を理解した時は遅かった。

「ここで、この前と同じ事しようぜ。なぁ、楽しいだろ?森本!」

嘘だと思った。

あれ以上なんて無いと思っていたのに。

僕が、何をしたって言うんだ。

「やめてぇ‼やめてぇっ‼‼」

大声で泣き叫びながら抵抗する僕に、五十嵐君は、全く表情を変えずに言った。

「やめて欲しかったら、あん時の変な力を出してみろよ。」

口を塞がれ、沢山のギャラリーの前で、パンツを脱がされる僕。

時が止まったみたいだった。

これが、現実なのかも分からず、呆然と目の前を眺めた。

でも、夢だってこんな残酷な事は思いつかない。

ギャラリーの中の傍観していた子達が、"公開処刑"だと言って笑っていた。

五十嵐君は手当たり次第、その何人かの子達にマッキーペンを手渡している。

考えたくはないけど、そうゆう事だ。


これは遊び。単なる悪ふざけ。

だから、みんな迷わず僕のおちんちんに落書きをする。みんな、笑っている。

誰も、助けてはくれない。

ホームルーム前の壮絶な光景。

これに、気分を悪くした数人の女子達が、教室を出ていった。

裸にされ、全身に落書きされた後、用具室の時同様、使い捨てカメラで何枚も写真を撮られた。

一緒に写った何人かは、皆満面の笑みでピースサインをしている。

「森本。お前この後、何されるんだっけ?」

五十嵐君がそう言うと、僕の周りに群がる人だかりは、自然とはける。

僕のお腹の辺りを、何度も蹴る五十嵐君と、何も言わず耐え続ける僕。けれど、五十嵐君の声は荒ぶるばかりだった。

「なぁ‼なぁ‼なぁ‼言えよ‼おらぁ‼ちんこ切ってくださいって言えよ‼」

これは、あの時の再現なのだ。五十嵐君は、あの時のようにすごんでいる。

そして、僕の前髪を掴み、力ずくで僕の顔を引き寄せた。

眉間にしわを寄せた五十嵐君の顔が、数センチの近さで止まる。

僕は、息を殺すので精一杯だ。

取り出されたカッターナイフが、僕に向かってくる…。僕は、一か八か五十嵐君を蹴り上げた。

「がっ‼」

五十嵐君は、少し後ろによろめき、口元に付いた血を、右腕でふき取りながら体制を整える。どうやら、僕の蹴りが顎の辺りをかすめるように入ったようだ。

「このっ‼」

予想外の僕の抵抗に、教室中がまた静まり返った。

五十嵐君は、僕を睨み続けている。

僕も、五十嵐君を睨み返す。

初めて、人に対してこんなにも攻撃的な態度をとった。

母さんにも、こんな態度をとった事はない。

〝勇気を出す〟というのとは、また違う感情のような気もした。

しかし、そんな僕を五十嵐君は馬鹿にしたように鼻で笑うと、また僕の前にしゃがみ、こう言った。

「なぁ、お前って何で生きてんの?」

刃物で突き刺されるより、深く深く奥まで貫かれるようだった。

言われた通り。

その通りだと思ってしまったからだ。


それを皮切りに、消えろコールが鳴り響く。

その場にいた全員が、それに合わせて拍子をとっていく。

こんなになっても、僕から傷つく心が消えてくれる事は無い。

僕だって消えたい。消せるものなら…。

だけど、この世界はいつだって、僕だけを取り残して、置いて行ってしまうんだ。


廊下で誰かが、「先生来たっぽい!」と叫んだ。たぶん、村上先生が来たのだろう。

それを聞いて、他のクラスの子達も皆、一斉に自分の席に戻っていく。

僕は、金子君達の腕がひるんだ隙に、たまらず教室を抜け出した。

まだ、学校はこれから始まったばかりで、授業も受けていない。

廊下で村上先生とすれ違い、何かを言われたような気がしたけど、無視して全力で走り去った。 

階段を駆け下りた先の、誰もいない通路。

そこまで行くと、急いで服を着替え、一心不乱に校舎を駆け抜けた。

ランドセルも持たず、裸足でコンクリートのアスファルトの上を歩く。

真夏の太陽の日差しで、焼け付く道路の上を裸足で歩いた。僕の足は、既に限界だ。

でも今は、そんな事を思う余裕さえ無い。

半袖・半ズボンでは、隠し切れないマッキーペンの落書きの跡と、未だ涙の跡が残る頬。

通行人の大人の人達が、ぎょっとした顔で僕に気づき、道路の端へ避けていった。


仕事で家を出ている母さんが、帰って来るまでの時間でいい。

僕に、もう一度だけ、海と会うチャンスを下さい。

もう一度、その境目を超える力を下さい。

神様でもない、誰に祈るわけでもなく、ただそれだけを祈るように歩いた。



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