恐れ
五時間目のチャイムが鳴り終わる頃。
先生から急な報告が入り、教室中が優勝パレードのような歓声で沸き立った。
お昼前に出ていた大きな入道雲は、給食の時間が終わり、間もなく暗雲に変わった。
学校の帰りが早まると、そう伝えに来た村上先生は、皆の歓声を少し疲れた顔でなだめていた。
予定していた六時間目の授業は、急きょ中止となり、僕達は今すぐ帰りの支度をしなくてはならなくなった。
突然の豪雨に、校内放送では、大雨洪水警報を告げている。
夜には嵐になるので、先生達も生徒を一刻も早く家に帰す為に、いつにも増して焦っているのだ。
しかし、僕はまだ知る由もなかった。
この日が、最も特別な日になる事を…。
僕は、すぐに思い知る事となる。
先生達に先導され、廊下で整列させられた僕達は、一組から四組の順に、体育館まで移動した。
体育館には、もうすでに高学年の子達や、一~二年生までの低学年の子達が、それぞれに保護者の人が来るのを待っていた。
人が密集している為か、体育館の中はザワザワとしていて、その音に呼応するかのように天井に振りつける雨の音も、一層うるさくなっていく。
その騒がしさに流されるかのように、皆は勝手に話し始め、先生の諦めの混じった注意なんて、あっという間にかき消えた。
徐々に、下級生の子達から、保護者の人達が続々と体育館に集まってくる。
―母さん、来てくれないかも知れない。―
ふと、脳裏に今日の朝の出来事がよぎった。
偶然、弟の秀は今日の朝、熱を出して学校に来ていない。
きっと家では、秀にかかりっきりの母さんがいるはずだ。
いらない子供の僕なんて、母さんがこんな嵐の日に、向かいに来るはずがない。
それに、理由はもう一つある。
最近の僕は、ボーっとしている事が多い。
日中も、昼か夜か分からない程、常に目は虚ろになった。
それもこれも、あの日を境に始まった事なのだ。そう…。
海に痛みを消して貰ったあの日だ。
そして、あの日から僕は、海と毎晩のように会うようになっていた。
会うのは、決まって夜。
その為か、昼間の授業中は、ずっと眠っていなければ、体が持たないようになってしまっていた。
それでも、海と会う時間だけは、削りたくは無い。
海に会える。そして、あの不思議な力で痛みを消して貰える。
それだけで、僕の日常は大きく変わった。
当然、母さんはそんな事を知る由もない。
ただ、どんな暴力にも、怒鳴り声にも泣きも喚きもしなくなった息子を、面白くなさそうに見ていた。
けれども、そんな僕を気に喰わないと思っていたのは、母さんだけでは無かった。
クラスのリーダー五十嵐君が、人混みに紛れて僕の方へ向かって来ると、誰にも気づかれないように、コソコソと耳打ちした。
「後で来なかったらどうなるか、分かってんだろうな。」
一段と低い声を出して、すごんで見せた五十嵐君は、先生達に見つからないように、体育用具室に来るよう僕に言った。
また新しい遊びでも思いついたのだろうが、この混乱に乗じて、計画を実行する所が、五十嵐君の用意周到さなのだ。
その計画に、逆らえない僕は、体育館の端の方を通り、用具室へと向かった。
用具室の扉を開けると、既に待っていた金子君達、いつもの四人組が、僕の体を全員で羽交い絞めにした。
冷たい用具室のマットレスの上で、訳も分からないまま、身動きの取れない僕。
そして、跳び箱台の裏から出て来た五十嵐君が、ドアに鍵を掛ける。退路は断たれた。
もう、逃げる事は出来ない。
「お前さ、最近何なんだよ。蹴っても殴っても、反応無しじゃ、やりがいないっての‼」
「…。」
「あぁ?」
語尾を強くして、五十嵐君は僕の前にしゃがむと、またすごんだ。
要は、つまらなくなった、と言いたいのだ。
「おら!何とか言えよ‼しらばっくれんじゃねぇぞ!森本‼」
僕の両腕を押さえていた、荒井君と高山君が五十嵐君のように、そう怒鳴った。
一呼吸着いた五十嵐君は、激しく舌打ちをすると、僕の足元スレスレの所を蹴り上げる。
今にも、僕に蹴りかかって来る勢いだ。
震えるしか出来ない自分に、いい加減怒りすら覚える。
「今まで散々、楽しんでやったのに。お前…もう本当にいらないや。」
ボソッと五十嵐君がそう言うと、体を押さえていた金子君が、その手で僕の口を塞いだ。
「声を出すなよ。」
金子君が耳元でそう言うと、体を絞める関口君の腕が更にきつくなる。
逃げ場の無い用具室で、キラッと光る刃物のような何かが見えた。
「ふぅー‼んーっ‼ん―‼」
僕は、口を塞がれたまま、言葉にならない声を出し続けた。
五十嵐君が取り出したのは、〝コンパスの針”だった。
「ははっ!これならどんな反応すっかな~。」
五十嵐君は、僕のズボンを脱がすと、太ももにコンパスの針を押し当てた。
「いいか。暴れんじゃねえぞ。それと、ちびんなよ。」
五十嵐君を含めた五人の低い笑い声が、用具室の中を、這うように響いた。
「んっ、んんーっふっんんっー‼」
必死の抵抗は、僕よりも一回りも二回りも、体格の良い四人組には敵わない。
振り下ろされたコンパスの針は、僕の太ももを深く突き刺した。
「んぁぁぁっーー‼んんっーー‼」
痙攣するように全身で暴れる僕に、四人は笑いながら言う。
「暴れんなって‼」
「お前、ざけんなよ!」
満足そうに五十嵐君は、僕に顔を近づけて言った。
「これだよ、これ‼何だよ!森本、お前出来んじゃん‼」
「ふぅ――――っ‼」
「はい!どんどん、いっきまっ~す‼」
コンパスの針の次は、カッターナイフ。
終いには、美術室から奪って来た彫刻刀。
僕の足や腕を次々に刺し、切っていく。
「ふーーうっ、ふぅーーっふー。」
塞がれた手の隙間と、鼻からありったけの空気を吸い込み、痛みを堪えようと息継ぎをした。
ぐったりとしている僕に、五十嵐君は僕の顎をグイッと持ち上げ、何か言いたそうな顔をした。
しかし、僕の目から涙が流れたのを見ると、チッと舌打ちをして、その手を乱暴に突き放した。
「泣いてんじゃねえよ。キメーな!」
その一言に、金子君達も、頭を垂れる僕の顔を、おもちゃのように触りまくった。
「ホントだ―‼こいつ、泣いてるよ!」
「気持ちわり~‼」
「痛かったんでちゅか~?」
ぎゃはははっと、無神経に笑った四人の声とは反対に、五十嵐君は笑わなかった。
ずっと苛々しているのか、腕組をし、その足は貧乏ゆすりが止まらなかった。
「うるっせぇぇ‼」
四人に言ったのか、僕に言ったのかは、誰も分からない。
微妙な沈黙が流れた瞬間、地鳴りのような雷鳴が聞こえた。
その音に、何人かがうわぁ!と驚き、雷の光は薄暗い用具室に、一瞬だけ光を入れた。
高山君と、関口君二人が、
「もう、やばいんじゃね?」
「誰もいなくなる前に、帰ろうぜ。」と、切り上げる事を匂わせたが、勿論僕を気遣っての事じゃない。
さっきの雷で、少し弱気になったのだ。
雨がこのまま止まないような気がした。
「まだだ…。」と小声で言った五十嵐君は、地面を睨み付けながら言った。
すると、仕切り直すように金子君が、
「はい!どんどん脱いでいきま~す!」と、五十嵐君が言ったセリフに合わせるように言った。
「いいねぇ~。」
左腕を掴んでいた高山君が、僕のパンツを脱がしていく。
吹き付ける風と雨は、益々強くなる。
歯止めが利かなくなった、五十嵐君達の遊びは、度を越すというよりかは、一線を越えた事で、終着点を見失っているようだった。
「こんなの、持ってまーっす!」
マッキーの油性ペンで、高山君達三人が、代わる代わる僕のおちんちんに落書きをする。
身勝手な興味の対象となった僕は、ただそこに息をしているだけだった。
最後に順番が回った金子君が、五十嵐君にもそれを勧めた。
もう押さえつけていなくても、何も抵抗する事のなくなった僕に、荒井君は使い捨てカメラで、僕の下半身の写真を何枚か撮った。
五十嵐君は、勧められたマッキーペンを払いのけると、金子君からの誘いを、不服そうに断った。
不機嫌な理由は、物足りなさだ。
だが、その不穏な感情は、やがて凶器へと変わっていく。
五十嵐君は、手当たり次第に掴んだカッターナイフで、僕のおちんちんを切ると言い出した。
「ちょっ‼五十嵐!」
「マジで言ってんのかよ~。」
「それは、ちょっとやり過ぎだって‼」
慌てて、高山君、荒井君の二人が止める。
関口君は、事の重大さに驚いて声も出ない。
金子君も、僕の体を押さえながら、何とか五十嵐君を止めようと、まくし立てるように言い放った。
「落ち着けって‼」
「俺らだって、ただじゃ済まないんだぞ!」
制止の言葉をよそに、五十嵐君の手はカッターナイフを離さない。
「そんなの、俺らがやったって決まんねぇーだろ…。」
何かを取っ払うかのように、ここから五十嵐君は攻撃的になり、凶器となった感情は荒ぶった。
「ビビってんじゃねえよ‼お前ら‼押さえてろ‼おらぁ‼」
刺される…。怖い…。
嫌だ…。嫌だ…。嫌だ…。嫌だ…‼
心の中で、繰り返し何度も強く思った。
荒井君の最後の制止を振り切り、カッターナイフが、ものすごい速さで振り下ろされる。
―やめてっーー‼―
そう思った瞬間だった…。
ドガアアアアアアアンッ‼
雷が用具室だけを目掛けて、直撃したような爆音。誰もが、何が起きたのか分からない。
けれども、恐れだけが、その場の空気を吞み込んでいった。
風なんて何もない所から、強烈な風圧が、用具室の頑丈な扉を吹っ飛ばしたのだ。
用具室の外、体育館の方では、大勢の人の悲鳴がし、鍵を掛けたはずのドアが転がっていた。
よく見ると、用具室の窓ガラスも割れてしまったのか、粉々になったガラスの破片が、いくつも落ちていた。
「はっ…?」
固まったままの五十嵐君を置いて、金子君達は、小さい子供に戻ったように、泣き叫びながら一目散に逃げていった。
「おい‼お前ら!待てよ‼」
カッターナイフを放り出し、五十嵐君は僕に目もくれず、四人を追いかけて行った。
マットレスに顔を押し当てて、泣いている僕に、村上先生や他の先生達が、騒然とした面持ちで走って来た。
恐怖よりも、悔しさや情けなさの方が先で、僕はその場から動こうとせず、泣き続けた。
「どうしたの?ねぇ‼何があったの?」
村上先生は、僕にそう問いただした。衝撃もあってか、先生の声は怒っているようにも聞こえた。
けれど、今の僕にはどうでもいい。
血の付いたマットレスと、下半身が丸出しの僕を見て、口に手を当て泣きそうになっている先生もいたけど、それも僕にはどうでもいい事だった。
その後、僕を家まで送ってくれたのは名前も知らない先生だった。正直、自分がどんな風に帰ったのかは覚えていない。
車に叩きつける雨の音と、車のウインカーの音。強い風の音と、強い口調の先生の声。
やっぱり、母さんが迎えに来なかった事。
そして、その雨と同じくらい声を出さずに泣いた事。
それだけが、その日の僕の全てだった。




