能力
母さんに一方が届いたのは、意外な人からのタレコミだった。
「今日、あんたの担任からプールに落ちたって連絡があったけど、あんた自分からふざけて落ちたんだって?」
お気に入りの鏡台の前で、帰ってくるなり強い口調で言う母さんは、髪の毛をセットしながら、鏡越しに言った。
母さんはもう、前から僕の名前をまともに呼んでいない。
タレコミの相手は、小泉先生ではなかった。担任の村上先生だ。もしかしたら、小泉先生は僕に気を遣ってくれたかもしれない。
だけど、相変わらず村上先生のおせっかいには、時々悪意すら感じる。
「たくっ、しょうもない事してんじゃないわよ。これだから、秀と違ってあんたは。」
会話の中に〝大丈夫だったか”、なんて言葉は一言もないまま、母さんは手早くどこかに行く準備をしている。
最近、父さんが帰って来なくなってから、母さんはずっと、この調子なのだ。
真っ赤な口紅と、魔女のように長く美しく伸びた爪。
キラキラしたラメがついたその爪では、もう料理なんてしていない。
「じゃああたし、秀連れて出かけるから、あんた家の事お願いね。」
いつもどこに行くかは、決まって言わない。
秀が黙って付いて行っている所を見ると、秀を塾にでも預けてから、どこかに出かけに行っているのだ。
たぶん、きっと。きっとそうだ。
秀の手を引いて、玄関の方へ向かうと、母さんは思い出したかのように言った。
「あっ!それと、お風呂の掃除。しておかなかったらしょうちしないから!」
人差し指を立てて、家事を言いつけるあの仕草は、いつもの事だ。
母さんは、僕の夕飯の事なんて、すっかり忘れている。
いってらっしゃいなんて聞く暇もないまま、バタバタと母さんは出かけて行った。
解放されたのか。置き去りにされたのか。
一人家に取り残された僕は、せっせとリビングの掃除と、お風呂の掃除を済ませた。
これも、母さんが帰って来る前に、絶対に済ませておかないとならない仕事なのだ。
そうじゃないと、翌朝、熱々の味噌汁を頭からかけられても、文句は言えない。
以前、一度だけ、僕がお風呂の掃除をさぼってしまった時に、これは体験済みだ。
だけど、機嫌によっては、何をしても効果の無い時なんていくらでもある。
苛々している時には、いつもこうだ。
いつかの、怒鳴られた日。
「どうして、キッチンの食器を洗っておかないのよ!」
要領の悪い僕は、食器の事は言われていなかった、と弁解した。
だけど母さんは、キッチンで僕の足を踏みつけて、また大きな声で叱る。
「そんなの、言われなくてもわかるでしょうが‼」
母さんはそう言う、便利のいい言葉をいくつも持っている。
お腹がすいて、ほとんど空の冷蔵庫から、総菜の残り物を食べる。
これは昨日夕飯で、秀が残した残り物のおかずだ。
だけど、冷蔵庫に食料が入っているなんて、今日は珍しい。
僕の主な食料源は、冷凍庫の冷凍食品とダイニングテーブルに乱雑に置かれている、大量のお菓子だ。
それでも、何も食べるものが無い時は、ごみ箱に捨ててある、残飯でも何でも手当たり次第に漁った。
躊躇していたのは最初だけ。
母さんの捨てた弁当の残り物。
とうの昔に賞味期限の切れた菓子パン。
生きてく為には、必死だった。
総菜を食べ終わり、キッチンで食器を片していると、二階の方で物音がした。
寝室の奥の方。窓の扉を開けるような音だった。
あの鏡張りの部屋だ。
もしかしたら、海が来たのかもしれない。
急いで、二階の階段を駆け上がった。
鏡の部屋のドアに耳を当てて、中の様子をひっそりと探る。
やっぱり、何かの音がする。海だ。
嬉しさで思わず焦って部屋のドアを開けた。
埃が勢いよく宙を舞い、差し込む僅かな光で埃はキラキラと落ちていった。
相変わらず、物が多くて薄暗いが、その中を裸足で小窓のある奥の方まで進む。
「よう。」
やっぱり海だ。本当に来てくれたんだ。
向かいから来る逆光に、海の髪が透明に光って見える。
「来るって言っただろ?」
さも当たり前かのように振る舞う海に、僕も分かりきった事を言う。
「玄関から入って来ても良かったのに。」
「バーカ、それじゃ秘密基地の意味がないだろ。」
二人の笑い声が、部屋の先の廊下の方まで響いた。
僕達は、母さん達がいないのを良い事に、大きな声で喋り、大きな足音を立ててはしゃいだ。
鬼ごっこをしたり、タンスや段ボールの陰に隠れて、かくれんぼをしたり。
汚れるのも気にせず、埃だらけの部屋を駆け回った。
特に海は、かくれんぼがとても上手で、音や気配すらしない。
海が隠れた場所は、何度部屋中を探しても、同じ所を回るばっかりで、絶対に見つけられないのだ。
「海~海~‼どこ~?」
「…。」
「ギブアップだってば~。」
心細くなった僕が海の名前を呼び続けると、ケラケラと笑った海が、いつも何処からか出てくる。
「もう、ギブアップかよ~。」
「だって、本当に分かんないんだもん。手加減してよ~。ねっ?お願い‼」
僕の子供じみたお願いに、海が笑いながら困った顔で茶化す。
これが、お決まりのパターンだった。
遊び疲れると、僕らはいつまでもお喋りをした。
近所に可笑しな吠え方をする犬がいる事や、
駄菓子屋のおばちゃんの髪型が、変わっている事…。
母さんの事、家族の事、学校の事。
話せば辛くなりそうな事だけは、話さなかった。
無意識かもしれないけど、僕達は自分自身の事をあまり話さない。
それは僕も。海も。
海も、僕の事は聞いてこない。
勝手に引いた境界線に、図々しく立ち入って来ないのは、互いがお互いを守り合っているからだと思っていた。
だけど、この日の海は違った。まるで、何かを決心したかのように切り出したのだ。
「お前さ、その傷どうしたんだよ。」
「え…?」
一瞬で笑顔の消える僕。
海の前では、笑って何でもないと嘘をつけるくらい、強くいたかった。
「この前より…増えてないか?」
視界が歪む。
海の顔が、望遠鏡の中にいるみたいだ。
大粒の涙が、行き場を失って、僕の頬を伝い落ちていった。
「おい、大丈夫か…?おい‼おいっ‼」
海は、何度かそう言って、震える僕の両肩をがっしりと掴んだ。
ぼやけた視界が、ゆっくりと晴れていく。
僕の乱れた呼吸と、目の前に見えたのは、心配する海の顔。
―心のどこかで、海になら…と思った。―
僕はおもむろに、Tシャツを脱いだ。
僕の上半身は、青い痣と小泉先生に張ってもらったガーゼだらけだ。
海は驚かなかった。
きっとある程度、予想はついていたのかもしれない。どうしようない現実を、客観的にただ黙って見ていた。
前々から思っていたけど、海はクラスメイトの子達とは、どこか違う。
まとっている雰囲気や、その性格も。
他の人には無い不思議な大人っぽさがある。
僕は海に全てを話した。
母さんと僕との事。
家族の事。
学校でのいじめの事。
今まで誰にも言えなかった全て。
海は冷静に受け止めた。
きっと、これからもこの状況が変わる事は、無いだろう。
明日になれば元通り。
僕はいじめられっ子で、母さんからは虐げられる普通の毎日。
だけどこの時、傷つく事に慣れすぎてしまった僕の心は、不思議と開いていった。
「それ…まだ痛むか…?」
そっと伸ばした海の手が、青くなった痣に触れる。その手は、作り物の陶器の様に冷たいような気もした。
「まだ…当たると、ちょっとね。」
へへへっと笑って誤魔化す僕と、一瞬、顔色の曇る海。部屋に、静けさが戻った。
すっかり、黙ってしまった海の後ろに、鋭い鏡の光がさしている。
やっぱり、いつまで経っても、嘘は上手につけない。
だからかもしれない。場を和ませようとしてくれたのか。
僕を、励まそうとしてくれたのか。
海は、こんな不思議な話をした。
「俺が何でも消せる力があるって言ったら、お前はどう思う?」
最初、それがどういう意味なのかは分からなかった。
「…どういう事?」
「俺は、何かを与える事は出来ないが、何でも奪い、消し去る事が出来るんだ。」
―何でも消せる?―
信じられない話ではあると思ったけど、疑う事もしなかった。海は、嘘なんてつかない。
そんな風には、どうしても思えない。
それに、いつになく真剣な海に、ただの思いつきだとも思えなかった。
「何なら今…その痣の痛みを消してやってもいい。」
「痛みを…消せるの?」
「ああ。」
今までの海とは、明らかに違う。
ゾクゾクと背筋から、冷たい風が背中を通り抜けるような感じがした。
恐る恐る右腕を、海の方へ差し出す。
それを見た海は、不敵な笑みを浮かべ、その瞳は、吸い込まれるような目をしている。
しかし、僕の心には何故か、怖さや迷いはなかった。
暗闇の中に、強い力で引き込んでいってしまうような目。
その目に、どこか惹かれている自分がいた。
たぶん今、目の前にいるのが、海だったからかもしれない。
一瞬だった。
海は僕の右腕に手をかざすと、まるで魔法のように、その痛みを消したのだ。
未だに半信半疑だ。
だけど、心はいつになく高揚した。
「すごい…。」
痣の青い色までは消えなかったが、もう痛みはない。
あまりの事に、呆気にとられていると、海は自慢げにこんな事を言った。
「こういうのも考えようさ。自分にとって、不要なものは消した方がいいだろ?」
笑いながら、何でもない事のように海は言った。
強い憧れと、ひとたび間違えれば、足元から崩れ去っていくような、危うい感覚。
説明の出来ない現象と、初めて出来た複雑な感情が、そこには確かにあった。
玄関の開く音がし、秀と母さんが帰って来たようだった。
ここで、僕達だけの時間は唐突に終わった。
それを境に、海は大急ぎで小窓を開け、帰る準備をし始めた。
「この事、秘密な。」
小窓から階段へ足をかける時、海はそれだけ言うと、夜の闇に消えていった。
せめて、返事を帰さなくてはと思い、窓の外を見たが、広がる暗闇に海の姿は分からなかった。
下で母さんが僕を呼ぶ声がする。
海に、明日も来るか聞けばよかったと、今更になって気が付いた。
そして、僕はいつまでも、海が走って行ったであろう方向を見つめていた。




