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鏡張りの部屋  作者: 市川滝
4/10

能力



母さんに一方が届いたのは、意外な人からのタレコミだった。

「今日、あんたの担任からプールに落ちたって連絡があったけど、あんた自分からふざけて落ちたんだって?」

お気に入りの鏡台の前で、帰ってくるなり強い口調で言う母さんは、髪の毛をセットしながら、鏡越しに言った。

母さんはもう、前から僕の名前をまともに呼んでいない。

タレコミの相手は、小泉先生ではなかった。担任の村上先生だ。もしかしたら、小泉先生は僕に気を遣ってくれたかもしれない。

だけど、相変わらず村上先生のおせっかいには、時々悪意すら感じる。

「たくっ、しょうもない事してんじゃないわよ。これだから、秀と違ってあんたは。」

会話の中に〝大丈夫だったか”、なんて言葉は一言もないまま、母さんは手早くどこかに行く準備をしている。

最近、父さんが帰って来なくなってから、母さんはずっと、この調子なのだ。


真っ赤な口紅と、魔女のように長く美しく伸びた爪。

キラキラしたラメがついたその爪では、もう料理なんてしていない。

「じゃああたし、秀連れて出かけるから、あんた家の事お願いね。」

いつもどこに行くかは、決まって言わない。

秀が黙って付いて行っている所を見ると、秀を塾にでも預けてから、どこかに出かけに行っているのだ。

たぶん、きっと。きっとそうだ。 

秀の手を引いて、玄関の方へ向かうと、母さんは思い出したかのように言った。

「あっ!それと、お風呂の掃除。しておかなかったらしょうちしないから!」

人差し指を立てて、家事を言いつけるあの仕草は、いつもの事だ。

母さんは、僕の夕飯の事なんて、すっかり忘れている。

いってらっしゃいなんて聞く暇もないまま、バタバタと母さんは出かけて行った。


解放されたのか。置き去りにされたのか。

一人家に取り残された僕は、せっせとリビングの掃除と、お風呂の掃除を済ませた。

これも、母さんが帰って来る前に、絶対に済ませておかないとならない仕事なのだ。


そうじゃないと、翌朝、熱々の味噌汁を頭からかけられても、文句は言えない。

以前、一度だけ、僕がお風呂の掃除をさぼってしまった時に、これは体験済みだ。

だけど、機嫌によっては、何をしても効果の無い時なんていくらでもある。

苛々している時には、いつもこうだ。


いつかの、怒鳴られた日。

「どうして、キッチンの食器を洗っておかないのよ!」

要領の悪い僕は、食器の事は言われていなかった、と弁解した。

だけど母さんは、キッチンで僕の足を踏みつけて、また大きな声で叱る。

「そんなの、言われなくてもわかるでしょうが‼」

母さんはそう言う、便利のいい言葉をいくつも持っている。



お腹がすいて、ほとんど空の冷蔵庫から、総菜の残り物を食べる。

これは昨日夕飯で、秀が残した残り物のおかずだ。

だけど、冷蔵庫に食料が入っているなんて、今日は珍しい。

僕の主な食料源は、冷凍庫の冷凍食品とダイニングテーブルに乱雑に置かれている、大量のお菓子だ。

それでも、何も食べるものが無い時は、ごみ箱に捨ててある、残飯でも何でも手当たり次第に漁った。

躊躇していたのは最初だけ。

母さんの捨てた弁当の残り物。

とうの昔に賞味期限の切れた菓子パン。

生きてく為には、必死だった。

総菜を食べ終わり、キッチンで食器を片していると、二階の方で物音がした。

寝室の奥の方。窓の扉を開けるような音だった。


あの鏡張りの部屋だ。

もしかしたら、海が来たのかもしれない。

急いで、二階の階段を駆け上がった。

鏡の部屋のドアに耳を当てて、中の様子をひっそりと探る。

やっぱり、何かの音がする。海だ。

嬉しさで思わず焦って部屋のドアを開けた。

埃が勢いよく宙を舞い、差し込む僅かな光で埃はキラキラと落ちていった。

相変わらず、物が多くて薄暗いが、その中を裸足で小窓のある奥の方まで進む。

「よう。」

やっぱり海だ。本当に来てくれたんだ。

向かいから来る逆光に、海の髪が透明に光って見える。

「来るって言っただろ?」

さも当たり前かのように振る舞う海に、僕も分かりきった事を言う。

「玄関から入って来ても良かったのに。」

「バーカ、それじゃ秘密基地の意味がないだろ。」

二人の笑い声が、部屋の先の廊下の方まで響いた。

僕達は、母さん達がいないのを良い事に、大きな声で喋り、大きな足音を立ててはしゃいだ。

鬼ごっこをしたり、タンスや段ボールの陰に隠れて、かくれんぼをしたり。

汚れるのも気にせず、埃だらけの部屋を駆け回った。


特に海は、かくれんぼがとても上手で、音や気配すらしない。

海が隠れた場所は、何度部屋中を探しても、同じ所を回るばっかりで、絶対に見つけられないのだ。

「海~海~‼どこ~?」

「…。」

「ギブアップだってば~。」

心細くなった僕が海の名前を呼び続けると、ケラケラと笑った海が、いつも何処からか出てくる。

「もう、ギブアップかよ~。」

「だって、本当に分かんないんだもん。手加減してよ~。ねっ?お願い‼」

僕の子供じみたお願いに、海が笑いながら困った顔で茶化す。

これが、お決まりのパターンだった。

遊び疲れると、僕らはいつまでもお喋りをした。

近所に可笑しな吠え方をする犬がいる事や、

駄菓子屋のおばちゃんの髪型が、変わっている事…。


母さんの事、家族の事、学校の事。

話せば辛くなりそうな事だけは、話さなかった。

無意識かもしれないけど、僕達は自分自身の事をあまり話さない。

それは僕も。海も。

海も、僕の事は聞いてこない。

勝手に引いた境界線に、図々しく立ち入って来ないのは、互いがお互いを守り合っているからだと思っていた。

だけど、この日の海は違った。まるで、何かを決心したかのように切り出したのだ。


「お前さ、その傷どうしたんだよ。」

「え…?」

一瞬で笑顔の消える僕。

海の前では、笑って何でもないと嘘をつけるくらい、強くいたかった。

「この前より…増えてないか?」

視界が歪む。

海の顔が、望遠鏡の中にいるみたいだ。

大粒の涙が、行き場を失って、僕の頬を伝い落ちていった。

「おい、大丈夫か…?おい‼おいっ‼」

海は、何度かそう言って、震える僕の両肩をがっしりと掴んだ。

ぼやけた視界が、ゆっくりと晴れていく。

僕の乱れた呼吸と、目の前に見えたのは、心配する海の顔。



―心のどこかで、海になら…と思った。―

僕はおもむろに、Tシャツを脱いだ。

僕の上半身は、青い痣と小泉先生に張ってもらったガーゼだらけだ。

海は驚かなかった。

きっとある程度、予想はついていたのかもしれない。どうしようない現実を、客観的にただ黙って見ていた。

前々から思っていたけど、海はクラスメイトの子達とは、どこか違う。

まとっている雰囲気や、その性格も。

他の人には無い不思議な大人っぽさがある。


僕は海に全てを話した。

母さんと僕との事。

家族の事。

学校でのいじめの事。

今まで誰にも言えなかった全て。

海は冷静に受け止めた。


きっと、これからもこの状況が変わる事は、無いだろう。

明日になれば元通り。

僕はいじめられっ子で、母さんからは虐げられる普通の毎日。

だけどこの時、傷つく事に慣れすぎてしまった僕の心は、不思議と開いていった。


「それ…まだ痛むか…?」

そっと伸ばした海の手が、青くなった痣に触れる。その手は、作り物の陶器の様に冷たいような気もした。

「まだ…当たると、ちょっとね。」

へへへっと笑って誤魔化す僕と、一瞬、顔色の曇る海。部屋に、静けさが戻った。

すっかり、黙ってしまった海の後ろに、鋭い鏡の光がさしている。

やっぱり、いつまで経っても、嘘は上手につけない。


だからかもしれない。場を和ませようとしてくれたのか。

僕を、励まそうとしてくれたのか。

海は、こんな不思議な話をした。

「俺が何でも消せる力があるって言ったら、お前はどう思う?」

最初、それがどういう意味なのかは分からなかった。

「…どういう事?」

「俺は、何かを与える事は出来ないが、何でも奪い、消し去る事が出来るんだ。」


―何でも消せる?―

信じられない話ではあると思ったけど、疑う事もしなかった。海は、嘘なんてつかない。

そんな風には、どうしても思えない。

それに、いつになく真剣な海に、ただの思いつきだとも思えなかった。

「何なら今…その痣の痛みを消してやってもいい。」

「痛みを…消せるの?」

「ああ。」

今までの海とは、明らかに違う。

ゾクゾクと背筋から、冷たい風が背中を通り抜けるような感じがした。

恐る恐る右腕を、海の方へ差し出す。

それを見た海は、不敵な笑みを浮かべ、その瞳は、吸い込まれるような目をしている。

しかし、僕の心には何故か、怖さや迷いはなかった。

暗闇の中に、強い力で引き込んでいってしまうような目。

その目に、どこか惹かれている自分がいた。

たぶん今、目の前にいるのが、海だったからかもしれない。


一瞬だった。

海は僕の右腕に手をかざすと、まるで魔法のように、その痛みを消したのだ。

未だに半信半疑だ。

だけど、心はいつになく高揚した。


「すごい…。」

痣の青い色までは消えなかったが、もう痛みはない。

あまりの事に、呆気にとられていると、海は自慢げにこんな事を言った。

「こういうのも考えようさ。自分にとって、不要なものは消した方がいいだろ?」

笑いながら、何でもない事のように海は言った。

強い憧れと、ひとたび間違えれば、足元から崩れ去っていくような、危うい感覚。

説明の出来ない現象と、初めて出来た複雑な感情が、そこには確かにあった。


玄関の開く音がし、秀と母さんが帰って来たようだった。

ここで、僕達だけの時間は唐突に終わった。

それを境に、海は大急ぎで小窓を開け、帰る準備をし始めた。

「この事、秘密な。」

小窓から階段へ足をかける時、海はそれだけ言うと、夜の闇に消えていった。

せめて、返事を帰さなくてはと思い、窓の外を見たが、広がる暗闇に海の姿は分からなかった。

下で母さんが僕を呼ぶ声がする。

海に、明日も来るか聞けばよかったと、今更になって気が付いた。

そして、僕はいつまでも、海が走って行ったであろう方向を見つめていた。



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