[過去]夢は冷たく終わる。
すこし、気分が落ち込むかもしれません。
今年の五月の頃だった。春の薫りが影を潜め、桜の木も深い緑色に染まっていた。ユリの妹であるアヤメは、元気そうな笑顔を浮かべ、ユリに絵を差し出した。
「見て~!お姉ちゃんが大好きなハルキゲニアっていうやつだよー!」
「…………なかなか似ているじゃない。ハルキゲニアのこのバランスの良い可愛さがよく描けているわ。」
アヤメが中学校に慣れた頃だった。色鉛筆を巧みに使って、見事な立体間と可愛さをきちんと表していた。
「アヤメは文化部でも運動部でもできそうね。本当に多才という言葉がぴったりだわ。」
「へへ。そうそうっ!私はお姉ちゃんの頭の良さとシズクさんの運動神経をあわせもっているんだもんね。」
向日葵のように明るく、可愛い笑顔。素直で真っ直ぐな心。そんな妹を見るだけで、ユリの心は和らいでいた。
そんな幸せの時間は、アヤメが貰ってきたたった一枚の紙に書いてある文章によって、突然の終わりを告げた。五月の半ばの頃、アヤメはいつものように帰ってきた。
「たーだいま!お姉ちゃ~ん!なんか内科検診でひっかかってきちゃったー!」
その声を聞いたユリはいつもより早足でアヤメのもとに近寄ると、アヤメは玄関で靴を脱いでいた。内科検診の結果が書いてある紙は、アヤメのすぐ側に置いてあった。ユリはそれを拾って内容を読むと、そこには目を疑うことが書いてあった。
「頭良いお姉ちゃんなら分かる?その意味。私さ、分かんないんだよねー。だから何って感じで………。」
「…………アヤメ、病院に行くわよ。」
ユリは紙を折り畳むと先程よりも早足で自分の部屋に財布を取りに歩いていった。
「え……?ちょっ、病院?!どういうことなの?」
ユリは足を止め、振り返った。玄関には驚いた顔をして佇むアヤメの姿があった。
「大変な病気かもしれないわ。とにかく、はやく病院に行く支度をしなさい。」
ドアの小さな窓から差し込んでいた夕焼けの光がアヤメの明るかった顔を深い影で染めていた。今はなにもわからず、運命に流されるだけの妹の姿を、嫌というほどユリの目に刻むように。
ユリとアヤメはバスにのって病院に向かった。その間、アヤメはずっとそとの景色を見ていた。赤い光に濡れた建物や人、植物達がゆっくりと流れていく。その温もりのあるはずの景色は、あの文によって無機質な物につくりかえられていた。
一方、ユリはアヤメの首をずっと見つめていた。よく見ると、アヤメの細かった首の喉仏より下のあたりが腫れていた。何故、気づいてあげられなかったのだろう、と思うほどに。そういえば最近、アヤメのようすも変だった。思い返せば、異常なことも沢山あった。
___あの紙に書いてある通り、アヤメには何か異常なことが起きている…………
甲状腺肥大、という名の異常が。
ユリは唇を噛んだ。頭にある病名が浮かんできた。テレビで前に見たことがあった。
急な体力の低下。息切れ。異常なほどの食欲。毎日の鼻血。手先の震え。集中力の無さ…………沢山思い浮かんだ。
しかし、今更悔いても遅い。確かに早期発見によって、苦しむ時間は減らせるかもしれない。だが、アヤメに襲いかかっている病は苦しむ時間がどうであれ、苦しいものには変わり無い。性格が変わるほど酷いものであることには変わり無い。
これから始まる悪夢は、心を蝕み、底の無いイライラ感にかられ、心がひとりぼっちになるものだなんて、二人は予想することさえ出来なかった。
病院に着くと、それほど待たずに順番がきた。すぐに内科の診察室に入り、一通り挨拶を済ませると、ユリは内科検診の結果を見せた。
それから、診察が始まり、医者はアヤメのこれまでの状態を聞いたり、首の肥大部を触ってそれが悪性のものではないか調べていた。診察が終わると、悪性のものではなかったので血液検査にうつった。それほど柔らかくない台の上に腕をのせると、医者は血管の太いところを探り、そこを消毒してから少し太めの針をさした。
アヤメはその様子をぼーっと見つめていた。これから襲いかかってくる悪夢のことなど今は分かるわけがないのだ。ただ、自分ではどうすることもできない理不尽な運命の波に飲まれていくのを、こうやって見ていることしかできない。
赤い液体が詰まった容器が抜かれると針も抜かれ、絆創膏がはられた。十分くらいそこを押さえていてください、と医者に告げられた後、ユリとアヤメは挨拶をしてから診察室から出た。
二人は近くにあった椅子に座った。それほど座り心地の良い椅子とは言えなかったが、今はそんなことを気にする余裕すらなかった。アヤメは小刻みに震える自分の手をじっと見ている。
「ねえ、お姉ちゃん……私、どうなってるの……?」
目線を下に落としたまま、アヤメは呟くように言った。ユリは一瞬、言葉がつまってしまった。何故なら、その答えは残酷なものだと知っていたからだ。しかし、ユリは覚悟を決め、拳を握りしめると、息を押し出すようにその答えを告げた。
「……おそらく、バセドウ病よ。前、テレビでやっていた__」
「ちょ、冗談言わないでよ!お姉ちゃん!」
アヤメは病名を聞くや否や、ユリの言葉をかき消すように言った。そして、ひきつった笑みを浮かべ、言葉を繋ぐ。
「あれでしょ?心臓がバクバクするやつでしょ?私、そんなのなって……なってなんか……」
思い当たる節があったのか、声はどんどん小さくなっていった。それと同時にアヤメの目にはどんどん絶望の色が広がっていく。ユリはアヤメにかける言葉を必死に探した。だが、運動が大好きだった妹に、運動ができなくなる病気がとりついているのかもしれないのだから、全ての励まそうとする台詞が彼女の心を潰してしまいそうだった。
そうやっているうちに、アヤメを呼ぶ声が聞こえた。とりあえずユリとアヤメは返事をしたが、絶望の色に染まった泥があふれでている診察室へ向かおうとしている足は、その泥にはまっているようで、暫く動くことはなかった。
太陽はその身を潜め、空には星の光が映えはじめていた。バスの窓から差し込む光は淡い青色に染まっており、アヤメの顔を照らしている。そのせいなのだろうか。深い闇を湛えている瞳をきわだたせるように、それなりに日にやけているはずのアヤメの顔を青白くしていた。
今は五月。春の暖かさがまだ少し残っている頃。それなのに、なんだか今日は寒い気がした。空気は盛んになっている葉たちの生き生きとした香りで満たされ、軽やかなものだったはず。だが、今では鉛のように重く、息苦しい。ところどころ消えているものがある道を照らす街灯は、二人の心を代弁しているかのように、儚い光を宿していた。バスの外の景色もなんだか寂しい。
医者から告げられた言葉は、二人が望まぬものだったのだ。
それからというもの、暗い毎日が続いた。勿論、薬は飲んでいる。しかし、皆が思うような、『薬を飲んだらもとの生活に戻れる』というものではない。病気は、そんなにあまいものではないのだ。薬は、ある範囲しか制御することができない。ただ単に、安静にしていれば心拍数は普通に人とだいたい同じくらい、というだけ。歩くだけで、恐怖が降りかかってくるのだ。
想像できるだろうか。床に足がついているのに宙に浮くような、地面が霞んで揺れる目眩を。心臓の音が生々しく聞こえる気持ち悪さを。血液がどこを通っているかわかるくらいに血液が巡る感触を。信じていた友達に病のことをわかってもらえず、突き放される寒さを。
ひとりぼっちになっていく、冷たさを。
自分の得意だったものを楽しそうにやってのける人の姿を見ていることしかできず、嫉妬の炎で心が焼かれる痛みを。
自分のことで悩み、悔やみ、歪んでいく大好きな人の顔を見る罪悪感を。
七月の暑い夜だった。アヤメの部屋の窓は網戸も開け放たれていた。涼しい夏風が、次々と流れる涙を撫でていく。
黒い、黒い空だった。そこに行けたなら……
らくになれるのかな。
アヤメは窓の下枠に腰かけた。この暑さと涼しい風が、溢れて止まらぬこの涙を乾かしてくれると信じて。真っ黒な空には、いつもなら銀の砂をちりばめたような星たちがいる。だが、今日は目の前が霞んでその美しい景色も揺らいで濁って見えてしまう。
なんだか背中に翼がはえたような気分だった。このまま飛び立っていけば、この黒い空に吸い込まれていく気がした。そんな考えを巡らせていると、部屋のドアが開く音がした。
「ちょ…!やめなさい!!アヤメ!!!!死んでしまったら___」
ユリの声が銃弾のごとくアヤメの耳を掠めていく。必死な声だった。だが、ユリは足が遅い。アヤメが飛び降りるのを止めることはできないだろう。アヤメはその虚ろな目で大好きな姉の姿を見た。ただでさえ勉強で忙しいのに病気のことを一生懸命調べてくれた姉。誰よりも、わかろうとしてくれた人。
でも____
『私のせいで 人が 不幸になる』
アヤメは宙に身を任せた。飛び立っていった体に風が突き刺さる。地面がぐんぐん迫ってきて、ユリの声が遠ざかっていった。
アヤメは目を閉じて、笑った。




