欠片と影
ユリの目から涙が溢れて止まらなかった。愛する妹が病院で寝たきりになってしまったあの日が胸に突き刺さる。指では拭いきれないくらいの涙は、心の深い傷を代弁するようだった。
シズクは急いで駆け寄り、心配そうな顔でユリの背中をさすった。ユウヤミはハンカチを取り出してそっとユリに差し出す。ユリはその行為にたいして礼を言いたかったが、声がつまってなにも言えなかった。
ヒササキはその様子をなにか懐かしいものを見つめるように眺めていた。そして、声を押し出すように呟く。
「……そうか。君も大切なものを失ったんだね……俺と一緒だ。その涙も、心も。」
ヒササキはユリの傍に来た。そして、優しくユリの頭に手をのせ、ゆっくりと撫でる。
ユリの心には、このとき異変がおきていた。心のどこかからなにかが沸き上がってくるのだ。それは心の殻を破ろうと、自分の脳の抵抗を圧し殺すように殻の内側から吹き出ようとしている。
「……心配いらないよ。俺は、もういなくなったりしないから。」
ヒササキの言葉が心の殻にひびをいれた。その途端、できた隙間から何かが吹き出た感じがした。それは、欠けていたパズルのピースを埋めて、始業式の朝から付きまとっていたモヤモヤを少し打ち払う。ユリはその感覚にハッとして、未だに止まらぬ涙の残る目をヒササキに向けた。
「……ごめんね。ユリ。今日はこのあたりでいいよ。すごく楽しかった。ありがとう。」
ヒササキはユリを気遣ってか、優しく微笑んでからその場を立ち去っていった。普通ならユリは去っていくヒササキを呼び止めるだろう。だが、ユリの体はどこかで見たことのあるあの優しい顔の記憶に縛りつけられていた。
「霙…………」
ユリは思い出した言葉を無意識に呟いた。
「ユリ?どうしたの?何で急にミゾレの名前を出すのさ?」
シズクは早口にそう言った。ユリはその言葉に引き戻され、ゆっくりと立ち上がった。
「いえ…………何でもないわ。思い出しただけよ。大丈夫……」
体育館には冷たい空気が漂っていた。まだ、暑さの残る季節だというのに。
その後、ユリは屋上にいた。夏の暑さが残る風がユリの頬に残った涙を優しく攫っていくようにふいている。空には橙色のベールがかかったように色づき、校庭で走る生徒たちも後片付けにおわれていた。そこにはめんどくさそうな者もいれば、てきぱき動く者もいる。この場にアヤメがいたなら……そう思うと、目の前が涙で霞んだ。ユリはその涙を拭うと、ため息をついた。
「……ユリ先輩、どうかなさったんですか?らしくないですよ?」
突然、少女の声が聞こえた。振り向くと、「ものすごいオレンジジュース」と書かれた缶ジュースを二本持った少女、シキミが立っていた。この少女は、アヤメの一番の友達である。彼女は女子のなかでは男の子っぽく、運動もでき、運動もできる噂の後輩である。アヤメも、シキミのことをよく家で話していた。
「お気遣いありがとう。でも、ジュースは学校には持ち込んじゃ駄目よ?」
シキミは困ったように微笑み、鼻の先に人差し指の先をあてた。てくてくとこちらに歩いてきて、缶ジュースを差し出す。
「疲れたときは甘いもの!何があったかは知りませんが、元気をだしてくださいな。ちょっとだけなら大丈夫ですよ。校庭のやつらにも先生にチクるなって言ってきましたし。」
ユリは礼を言って缶ジュースを受けとる。シキミと共に柵をせもたれにして座った。
「ものすごいって……どこがすごいのかは説明してないのね。」
シキミは缶ジュースの飲み口を開けると、とにかくすごいんじゃないですか?と言ってからジュースを飲んだ。ユリはそうね、と言って缶ジュースの飲み口を開けた。プシュッという涼しげな音と共にオレンジの甘い香りが鼻をくすぐる。中の液体を飲むと、甘酸っぱい味が口いっぱいにひろがり、冷たい感触が喉をはしりぬけていった。思っていたより喉が乾いていたらしく、ユリは砂漠の砂のようにジュースを飲み込んでいく。
シキミはもう飲み終わったのか、ぷはっと息をはくと、缶を潰し、傍に置いた。
「……どうして、差ってあるんでしょうね。」
突然、シキミが呟いた。ユリはジュースを飲みほし、缶を傍に置いた。
「あら、どうしたの?あなたもらしくないじゃない。」
「えへへ……そうですよね……なんか、ここから校庭のヒトを見てたら、アヤメはどうして…あんな風に自由に走ることが許されなくなってしまったんだろうって思って……」
風は先程よりも優しくふいていた。シキミの髪の毛は微かにゆれる。
「これはあくまで私の意見だけど……それはきっと、人が助け合うためだと思うの。勿論、皆は平等を目指している。平等こそが皆の幸せに近いものなのかもしれない。だけど、この世の中が本当に平等になって、平等が当たり前になってしまったら……人は助け合うことをしないとおもうの。
だって、明日食べる物が無い人がいるから、食べ物を分けてくれる人がいる。辛い境遇にたっている人がいなければ、その人の心に灯火を分けようとは思わない。
助け合いがなければ、人は人に恩を抱くことは少なくなってしまう。そして、自分のことだけを考えれば幸せになれる。そんなことになってしまったら、人の心にある暖かさは、差がある現在より冷めてしまうのではないかしら。……ある意味、助け合いを学ばせるために差というものを作らせたのではないかしら。」
シキミはその言葉を聞いた後、缶をつかんで立ち上がった。そしてユリに正対し、礼をする。
「なんだかボクが励まそうとしたのに、逆になっちゃいましたね!……ふふ、ありがとうございます。缶はボクが捨てておきますね!」
ユリは自分で捨てる、と言おうとしたが、その頃にはもうシキミは缶を二つ持っていた。彼女は屋上から手をふりながら去っていった。
ユリは立ち上がると、少し振り替えって校庭を見た。もう帰るようで、帰っていく生徒たちは校庭のなかから帰路へ流れていく。そこにアヤメの幻像を重ねる。笑顔が太陽のように眩しい彼女の影をいくら重ねても、ずっとベッドのうえで寝ていることは何を重ねても変えることはできない。ユリは早足で屋上から去っていった。
屋上には、風の薫りとドアの閉まる音だけが残っていた。
ユリは早足で廊下を歩いていた。どの教室にも人がいないのだろう。廊下にはユリの足音だけが響く。そういえば荷物は教室に置いていた。誰もいない教室に入るのは少し寂しいが、おそらくシズクが昇降口で待っている。早くせねば、タックルをくらうことになるだろう。
ユリは教室の戸を開けた。橙色の光が射し込む静寂の教室に、ガラッという音が湖面に石を投げ入れたように響く。そこにはもう、人などいないはずだった。
だが、ヒササキの席に逆光で黒く染まった人が佇んでいる。その黒い人はゆっくりとこちらに顔を向けた。その顔は、まるで黒いペンキで塗りつぶされたように黒かった。
目があったような気がした時、ユリの背筋が凍りついた。何故だか分からないが、この世のものではないと脳が告げていた。逃げようと思ったが、足は石になったように動かない。そうしているうちに、黒い人はこちらに向かって近づいてきている。
____殺される。
そう悟った。黒い人はもう目の前まできており、その黒い手をユリへと伸ばす。ユリは反射で目を瞑る。すると、急に意識が闇の中へと落ちていき、瞼ごしに届いていた橙色の光が姿を消した。




