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日常と

 窓の向こうの景色には雲一つ無い青い空と、静かに佇む大地が広がっている。洗浄された景色、という言葉がお似合いだった。それとは裏腹に自分の脳内はこの上なく淀んでおり、心の中は不快な気持ちでできた鉛の雲が渦巻いていた。

 そう、自分が始業式の日を、後輩の名前を忘れるはずがないのだ。それなのに何故…………考えれば考えるほど鉛の雲は癌細胞のように増殖し、脳に絡み付いていった。

 しかし、この状態は先生のある一言で一筋の光が差すことになった。その言葉の中に潜む魔物が、この先のユリの心を、記憶を掻き回すものだと教えるように。



「___明日、転校生が来る。」




 ユリの意識はその言葉によって現実に引き戻された。転校生という言葉が静かな水面であった心に何かを垂らし、波紋を生ませたのだ。ユリの視界はぼんやりとしたものから鮮明になり、耳は話に噛みつくように研ぎ澄まされた。目も心もすっかり話の方に向いている。クラスの生徒達は転校生のことについて聞き、先生は苦笑いを浮かべながら生徒たちの質問を受け流しているが、ユリにとってはそれはスローモーションで流れていくピントのずれた安い映像でしかなかった。

 心のなかで膨らんだ何かが、脳の奥の奥に閉じ込められた記憶を探していて、思い出せるようで思い出せない黒い渦に飲みこまれていた。

 ユリのこの不思議な時間は日直の起立という号令で断ち切られ、一斉に立つ音が聞こえると、ユリも続いて起立し、礼をした。




「どーしたのさぁ~ユリぃ~!なんかスープにつけすぎて残念な感触になったパンみたいだよ?」

 帰り道、意味のわからない喩えと共にシズクに思い切り背中を叩かれる。本人は軽く叩いているだろうが、これがユリでなかったら今ごろ呼吸困難になって地面とお友だちになっているだろう。

「ちょっ…………シ……ズクっ……痛いわよ…………何だか前より力が強くなってない?」

 自分の背中をそれでもボンボンと背を叩くシズクの手を軽く払い除けると、ユリはシズクに呆れた顔を向けた。シズクはそんなの御構い無しに態とらしくなよなよとしはじめた。

「ぇ~~ゎたしみたいなぁ、かよゎぃ~ぉとめがぁ、ちからつよぃとかぁ、まぢぁりぇなぃ~www」

「その言葉遣い、癇に障るわ。それに、あなたの生物に釜の中の魚のような体験をさせる怪力は、成人男性の力を軽く超すものなんだから、本当にか弱い乙女に失礼よ。そして、あなたがか弱かったら世界の人々は骨と皮でできていることになってしまうわ。」

「…………I don't know what you mean…………私の脳みその処理能力がゲンカイヲムカエマシタ。」

 それでも、シズクは機械が故障したときの比喩によく使われる黒煙が頭から出ているのではないかと思うくらいうんうんと唸り、こめかみに人差指をあててユリの言葉を理解しようと頑張っていた。そんな様子を眺めるユリの顔は小悪魔のような笑みで満ちており、どこか憎めない可愛らしい笑顔で、シズクの心をくすぐる。

 まだ明るい帰り道はそんな仲睦まじい二人の影を地面に縫い付けながら、平凡な幸せの記憶を、次々と過去になっていく時にひっそりと染み付け、流れる風はシズクの唸る声を滑らかに溶かし、網のように二人を包み込んでいる。

 ___この空間はまさしく、二人の幸せのためだけに存在していた。

「あっ、そうだソーダ!ユリ!今日はこっちの道通って帰ろうじぇ!」

 何時も通る道の方がはやく帰ることができるはずなのに、シズクは違う道を指差した。はやく帰りたい派であるユリにとっては好ましくない提案だが、シズクがそれをねじ曲げるように腕をブンブン振るものだから、ユリはその提案に乗らざるおえなかった。

「この道の途中にすごい人気のバーチャルアイドルのイタ車があるからさっ!それ見ようぜっ!ねっっ、いいでしょっ?!ユリぃいい!!ねっ!ねっ!!ねっ!!!」

「ああもう、うるさいわねっ!…………もう……良いわよ。イタ車でも見て、すごいクオリティだとかこれに乗ることによって変化する周りの人の目とか話し合いましょう。」

「…………そういうハイパースマート(←すごい頭良いと言いたいらしい)な話は無理っす……」

「それじゃあ、何のためにイタ車みるのよ…………まったく……。」 

 そう言った後、また呆れた顔を浮かべながらもシズクの指差した道の方へ歩いていくユリに対して少し笑顔になりながら、シズクは少し影のかかった何時もとは違う道を歩いていった。

 細く薄暗い道を歩きながら、ユリは考えていた。行きも帰りも一緒であるシズクが、何故いつもはいかない道にイタ車があるだなんて知っているのだろうか。友達に聞いたという可能性はあるが、それなら「バーチャルアイドルのイタ車があるらしい」と言うべきではないのか。

 ユリは脳に疑問という網が絡み付き始めているのを感じた。それが不快でたまらなかったのか、ユリはシズクの言葉遣いがおかしかっただけだと結論を無理矢理だして、自分の脳を納得させた。

「あっれ~~?イタ車がここにあったはずなんだけど…………」

 シズクは辺りをキョロキョロと見渡す。その目には薄暗いながらも僅かに差し込んでいる日光のせいだろうか、鈍い光が宿っており、獲物を探している獣のようだった。

「どうやらお目当てのイタ車は無いようね。」

 ユリがそう言うや否や肩を落とし、キョロキョロするのを止めた。

「やっぱり…………ここには居ないか……そんじゃあおとなしく帰ろ……」

 シズクとトボトボ歩いているとこの道がいつも通る道に繋がっていたため、ユリ達はいつもの道に出ることにした。薄暗い道をぬけると、一気にまばゆい日光が目に突き刺さるようにとびこみ、ユリは思わず目を細めてしまった。

 夏休み明けでも暑さの残るこの空気は、溶けた蝋のようなとろとろとした液体に変わってしまったかのように重い。其の上太陽の光は青い空を白く塗りつぶしてしまいそうなほど光っている。ユリはそんな夏があまり好きではなかった。何故か、心の奥で嫌だと言っているのだ。

「イタ車あると思ったのになぁ~~…………消失してるなんて~~~」

 空気の重さに圧迫されているように項垂れるシズクは、よほどイタ車が見たかったのか先程からイタ車イタ車とイタ車にでもとりつかれたのではないかと思うほどブツブツと呟いている。だが、その言葉も空気の重さのせいか、地面に落ちていって雪のようにとけていった。

「それにしても日差しが強いわね。日影は無いのかしら。」

 直射日光が肌にあたり、肌が焼けそうだった。ユリは日影を求め、周りを見渡すと道の隅に木陰があったのでそこまで駆けていった。

「ちょっ…………待ってッッ!!ユリ!!」

 シズクがそう叫んだときには、もう既にユリは木陰に溶けて見えなかった先客の姿に捕らわれていた。


 ___先客は、ひっそりと微笑んだ。


 ユリはその姿を目でとらえた瞬間、時間が止まったように感じた。日影に染められてもなお、長石のような白い肌に、ずっと奥まで黒い瞳。微かに吹く風に流されそうになっている黒く短い髪の毛は薄暗いこの空間の中に溶け込んでいた。

 やっと時が動いたと感じたときには、先客と目が合っていた。…………嗚呼、何故だろうか。この空間は影のなかであるはずなのに、真っ白な柔らかな光のなかに二人だけ閉じ込められたようだ。目を見つめれば見つめるほど、自分の魂が何処かに引きずり込まれていくようで____


「___日差し、強いですよね。」


 先客の声が今まで死んだように眠っていた耳の目を覚ました。ユリは少し遅れて言葉の意味を理解すると、自然と困ったような笑みが浮かんだ。

「本当……。焼かれてしまうんじゃないかって思うくらいに強いですよね。」

 先客も困ったような笑みを浮かべながら頷いた。その顔をよく見てみると、先客は自分より上か、同じくらいかの年齢の少年であった。

「ユーーーーーーリぃぃぃぃぃいいいぃい!!!!!!ひかげぼっこしてないでッッッはやく帰ろうよぉぉぉぉぉおおおおおおぉおお!!!!!!!!!!」

 ふと、声のした方に振り返ってみると、シズクが音速を越えるのではないかというくらいのはやさでこちらに向かってきていた。そんなシズクがよくやりそうなことを見ると、ユリの口からは相変わらず五月蝿いな、と言う代わりにため息が出た。

「ごめんなさい、もう少しあなたと話してみたかったけど、五月蝿い友達が来たから失礼するわ。」

 ユリが別れの挨拶の後に一礼すると、少年も礼を返して、

「そっか……。じゃあ、またね。」

 と、呟くようにいった。

 ユリは背負っていた鞄をおろし、少年の方を向きつつ自分の背後に迫ってきているであろうシズクのいる方向に鞄をおもいっきり投げる。そして、そのままの流れで踵を返した。

「シズク?もう少し声のボリュームを下げないとこのあたりの人たちにある女の子の爆音がすごく五月蝿いって訴えられるわよ。そうしたらあなたは被告になり、裁判で負け、ありとあらゆる人たちから爆音少女シズクちゃんと言われ、就職先からは『うわーこの人、爆音の人だ、五月蝿そうー』と言われ、あなたの人生お先真っ暗よ。」

 普通このあたりでシズクの反撃とは言えぬが反撃のようなものがくるのだが、ユリがこれだけ言ってもシズクは言い返すことができなかった。それはそうだ。鞄はシズクの顔面にクリーンヒットし、彼女はそのまま頭からひっくり返って地にうちあげられた魚のようにピクピクとしていたのだから。

 そんなシズクの様子を見て、ユリは吹き出さざるおえなかった。まさか、こんなにきれいに顔面クリーンヒットするとは思っていなかったのだ。

 シズクはむくっと起き上がると、叫びながら手足をバタバタさせた。

「ユリの鬼ぃぃぃぃぃいいいぃい!!!!!!サディストぉぉおおお!!!!!!!悪魔ぁぁあ!!うぁぁぁぁぁあああああああああああああああん!!!!!!!!!!!!!!」

 シズクのこの叫びは外に響くだけで、ユリの口からまた、ため息を出させることしかできなかった。

 ……その後、シズクはワーギャーワーギャーとしていたが、ユリがシズクの耳を引っ張り、少年に別れを告げることによって『シズクちゃん大騒ぎ事件』は幕を下ろした。

 それから暫く歩き、もうすぐ家に着くあたりでシズクはボソッと呟いた。

「ねぇ…………ユリ……あの男さ、何か嫌じゃない?何となく……」

 ついさっきまで騒いでいたシズクは疲れたのか、その声のトーンはやや低めであった。ユリは少し驚いた顔をして、首だけシズクの方に向ける。

「あら。あなたが人を嫌うだなんて珍しいわね。しかも、あなたらしくない嫌い方じゃない。」

「……私らしい嫌い方って何さ?」

 シズクが頭の上にクエスチョンマークを浮かべている。それを見たユリは仕方ない、といった感じの顔で説明をした。

「…………私が言いたいのは、あなたが人のことを理由もなく人を嫌うだなんて珍しいっていうこと。あなたが人を嫌うときは大抵何か理由があるのに。」

 シズクは幼い頃から人を嫌うだなんて滅多になかった。嫌うとすれば必ず理由があったのだ。絶対に彼女は『何となく』という曖昧な理由で人を嫌ったりする人間ではない。

 ユリが難しい顔をしていると、シズクは先程の言葉を補うように紡いだ。

「ほら、何て言うかな、生理的に嫌?あの感じが……」

 その言葉を聞いたユリはほっとした。が、それと同時に少し笑ってしまった。そう。生理的に嫌というのはなんとも複雑なものなのだ。

 一方、シズクはそんなユリの様子を見て、何がおかしいの?という顔をしていた。昔から、いつもこうである。ユリの方が学問の面では常に勝っており、難しい言葉や、ユリが、シズクでは推測できない表情をすると、決まってシズクはこんな顔をした。だが、遊ぶことに関しては常にシズクの方が勝っており、そのときだけその表情は逆転するのだった。

「シズク、それじゃああなたにはあの男の子と共通点があることになるわよ。」

「はあぁ!?何で?!?!」

 シズクは怒りの感情を露にして否定した。ユリはシズクの頭を軽くポンポンと叩いて宥め、おとなしくさせてから続きの言葉を紡いでいく。

「人にはね、人前で見せている自分、『ペルソナ』というのと、心の奥にある自分、『シャドウ』というものを持っているの。そして、『シャドウ』はいつもは抑圧されて、意識されていないのがほとんどなのよ。

 生理的に嫌、というのは、その『シャドウ』を相手の行動等に感じてしまうときなのではないか、と言われているの。それはそうよね。自分の短所を、自分の目を背けているところを見せつけられているんだもの。自然と不快な気持ちになってしまうわよね。」

 ユリは一気にいい終えると、改めてシズクの顔を見た。


 ___一瞬、目を疑った。


 シズクはいつもならここで、笑顔で頭にクエスチョンマークを浮かべて、考えるのを放棄しているはずだ。それなのに、今の彼女の顔は…………何かに怯え、焦っているような顔をしているのだ。そう思った瞬間、ユリはシズクに声をかけていた。

「どうしたの?シズク…………?」

 その声が耳に届いたのか、シズクははっとして、いつもの笑顔を作った。

「ははっ!考えすぎていたら頭だけじゃなくて顔までカオスになってたぜ!大丈夫、大丈夫!天才シズクちゃんはすべて理解している…………ほら、そのペルなんとかってのは有名なゲームのタイトルだろっ!ねっっ!」 

「…………心配して損をしたわ…………。」

 ユリが呆れた顔でシズクの先を足を早めて歩き去っていくと、シズクはあわてて後を追った。

 

 長髪の少女と、それを追いかける少女の影はつかの間の平和を象徴するように、その様子をひっそりと見ていた者の脳に焼き付いていた。


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