動 け
少しだけグロい表現があるかもしれません。
まぁ、この小説をここまで読んでるんだから、それについてはダイジョウブデショウ!
ユリが辛うじて持っていたペンライトが床に落ちる音がした。それと同時に、ペンライトの光が謎の肢体に染みついていた闇を暴く。途端、この世のものとは思えぬものがユリの視界いっぱいに広がった。
勿論、それが視界の先から先まであるような大きいものだったわけでは無い。況して、近くにいたわけでもない。只々、その姿が衝撃的だったのだ。
床にまで垂れて広がる、黒い髪の毛。それは顔の形さえ分からないほど長く、大量で、乱れていた。そして、腕と手は赤黒い血で染まっており、床を抉ってしまうのではないかというくらいに力み、小刻みに震えていた。しかも、ペンライトの光に濡れて、ねっとりとした光をこちらに返してくる小さなものが所々についているのだ。その正体はあの部屋の光景を思い出せば、すぐにわかることだった。
もう、音など耳に入ってこなかった。振り向いたことを後悔する暇も無く……いや、それどころか何も考えることが出来なくなったユリの身体は既に、動くということを忘れていた。只、髪と髪の隙間から光るあの目に目を合わせたままで止まっていることしかできない。ペンライトを落としたことすら忘れてしまっていた。
命をあっさり奪い去ってしまいそうな腕が、床を軋ませる。そう、四つん這いでユリの方へと向かっているのだ。ゆっくりと、小さな子どもが蝉を掴まえにいくときのように。蝉ならば、もしも蝉だったのなら、うまくいけばこんなとき、飛んで逃げてしまえるのだろう。夏に強く鳴く彼らは、そうやって人の手から逃げてきた。だが、ユリには羽は無い。助けを求める声は出ることを忘れている。奴の手は、目は、どんどん迫ってきている。
脂ののった、腕を、足を、腹を、
血がたっぷりと流れる首を、心臓を、
腹の皮を切れば、窮屈だった中から出てくる小腸を、大腸を、
髪で隠れ、どこにあるかわからない口いっぱいに頬張る為に。
目の光が湾曲した。笑っているのだ。動くこと無い獲物を目の前にして、笑っているのだ。床に涎がぼたぼたと垂れていく。赤黒く汚れた歯が髪の毛の間から光った。また、床が軋む。腕が、ユリを捕らえようと前へ、前へと進む。
この時、ユリはやっと我にかえった。ようやく恐怖が胸の奥から噴き出し、呼吸が忙しなくだが、できるようになった。焦りがバケツをひっくり返したように全身に降りかかる。はやくここから逃げねばならないと目を覚ました本能が叫んだ。
急いでドアノブをひねる。そして全力でドアを叩いて開けると、立ち上がると同時に走り出した。体育ではクラウチングスタートなんてあまりうまくいかなかったのに、命を守る為に身体は思うように動いてくれた。
気付けば、足は空気をきり、無駄に長い廊下を走っていた。生きてシズクに会うために、目はしっかりと前をとらえている。力が入るように、歯を強く食いしばっていた。腕が足を動かそうと素早く振れる。あれだけ長くかんじた廊下の景色が、あっという間に流れていった。




