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正体

 ドアの蝶番ちょうつがいの音が闇のなかに波打つ。月の光も入らない、空虚な空間が、一層恐怖と焦りを掻き立てる 。今までの廊下には窓なんて無かったから、その暗闇を理解できた。だが、この暗闇は、部屋であっても窓一つないことを密やかに教えている。本当に、この部屋を作った意味なんてあるのだろうか。


 ユリは深呼吸をした。乱れた心の水面の波がだんだんと鎮まっていく。恐怖は取り除けなくとも、焦りはだいぶおさまった。ペンライトを握りなおして、部屋の隅から隅まで闇を照らしながら探った。


 部屋のなかを見渡すと、左には勉強机と本のつまった棚があった。勉強机もそうであったが、本は子供向けの本が多い気がした。シズクが子供のころにでも使っていたのだろうか。

 次に、前方を照らすと、大きめのソファーがあり、その近くには窓があった。だが、その窓はチラシの裏に子供の落描きがしてあるものがびっしりと貼ってあり、何層にもなっているため、月の光を一切受け入れなくなっていた。

 

 子供の絵を見たとき、いつもはその年相応の可愛いさを感じるものである。そうであるはずなのに、この執拗に幾重にも貼り付けられているこれには、背筋をゾッとさせるような、冷たく鋭いものを感じた。寒気とともに、吐き気が込み上げてくる。いっそ、全て剥がしてしまおうと手が出かかったが、それらから発せられる、触れてはならないと呻くような、叫ぶような何かが、腕を掴んだ気がして、はっと我にかえった。


 ユリは改めて窓を照らした。光をいれないように群れた、子供の絵。のっぺりと擦り付けられたクレヨンの線が得体の知れない物の形を作っており、なかには文字のようなものもあった。黒いクレヨンで刻まれているそれは、目を凝らして読んでみると、『ひなげし ずっと だいすき』と書いてあるように見えた。


 …………雛罌粟ひなげし。花の名前である。幼いころのシズクはこの花が好きだったのだろうか。今では花のことなど一切話しに出てこないが。いや、幼いころから出てこなかった気がする。いつも動くことに夢中だったシズクの口から、花のことなど出たことなんて一度もなかった。

 シズクは、自分の好きなものを共有したくなるタイプだった。小学生のころなんて、どういうゲームにはまったのか知らないが、教室の戸をあける度に、「この扉の裏でずーーーっと待っていたぞ! こなかったらどうしようかと不安になっていたところだ!いくぞーーーっっ!」なんて言って、抱きつかれた記憶がある。そのあと必ずそのネタの出所を言ったりするのだ。これは今でも続いている。

 そんな彼女のことだから、好きな花があるなら、この花が好きなんだ、とか、この花見てーっ!とか言いそうである。いくら思い出してみようとしてみても、そんな言葉など見当たらなかった。それなら、その文字が示す意味は何なのだろうか。花の名前でないのだとすれば、それは何になるのだろうか。


 考えを巡らせる。何か手がかりはないかと、部屋の右側を照らしながら、文字の意味を考えた。そして、照らした先に、引き戸を見つけたとき、答えがふっと脳内に浮上した。ユリはそれをもう一度巡らせ、あの文字と重ね合わせる。途端、絡み合った糸のように解けずにいたもやもやとしたものが晴れてすっきりと消え、頭のなかが軽くなった。



 ―――彼女が何か隠しているなら。


 ―――大きな犠牲をはらってまでなにかを叶えたいというのなら。




 ユリの足は自然と引き戸の方に向かっていた。


 あの戸の向こうに、答えを具体化したものがあるのではないだろうか。そんな考えが脳に浮上し、こびりついた。


 雛罌粟。花の名前でないのなら……………………







 シズクが犠牲をはらってでもよみがえらせたい人の名前ではないだろうか。






 ユリはゆっくりと戸を開けた。引き戸独特のすれる音がやけに大きく聞こえる。そして、日常で感じることの無い何かが喉を焦がした。

 ―――いや、これはそんな言葉で表しきれるものでは無かった。鼻の奥から胸のあたりまでを焼くような生臭さが、一気に押し寄せてきた。更に、だいぶ遅れて吐き気がこみ上げてくる。思いがけず、ユリはその場に座り込んだ。



 何のにおいなのか、すでに脳では理解していた。だが、幼馴染みの家にそんなものがあるなんて、ユリの心は受け入れることができなかった。その真実と信じたいこととの分離で、まるで宙に浮いているような感覚に襲われる。





 ペンライトで照らされている床は、真っ赤に染まっていた。赤銅色と赤黒い色が重なり合った、奇妙な床。それはフローリングなのか、畳なのか、それともカーペットなのかすら分からなくなっていた。


 吐き気とめまいの中、ユリは立ち上がった。ここからでなければならない。脳の奥で、嫌な予感というものがそう言っていた。ふらふらとしながらも出口へ壁伝いに歩いていったが、案の定、足がもつれてしまい、すぐに転んでしまった。そのせいで大きな音が出てしまったが、今はそれを気にする暇など無い。力の入らない腕で上半身を起こし、這うようにして出口へ向かっていった。


 まったく運動などしなかったのが仇となっていた。ユリはもうこの時点で、かなり息があがっていたのだ。先程の事でパニックになったのもあるが、ここまでくる過程で、かなりの緊張状態にあったユリの体力は、本人が気づかないうちにかなり削られていた。息をするので精いっぱいな口から乾いた笑い声が漏れた。こんな状態なのに、こんなときにシズクのような体力と力があったらな、なんて思ってしまう。なんだかこんな自分に腹が立つような、嘲笑してしまうような………モヤモヤとしていて、何だか軽い、よく分からない気持ちに陥っていた。

 嗚呼、彼女のもとに帰ったら、すべてを話して、今までのことを謝り、そのあとどうしよう。嫌われてしまうかもしれない。今まで通りの日常はやはり壊れてしまうのだろうか。朝、家から出て少し歩いたら、笑顔でうるさいシズクとの待ち合わせ場所に着いて、車より速いスピードで走ってきたシズクにツッコミを入れて。駄弁りながら学校まで歩いて、笑って。学校での体育ではいつもとんでもない目に遭って。あんなにうるさいものだから、家に帰ったらやけに静かで落ち着かないこともあった。毎日、自分の真っ白で殺風景な心をいろんな色で染めてくれていた。もしも、それを今日失ったとしたら、自分はどうなってしまうのだろうか。彼女と目が合う度、意図的ながらも自然に目を背け合う毎日になってしまったらどうなるのだろうか。そう思ったとたん、胸の奥が急に冷たくなった。不安の炎がジリジリと心を炙っていく感じがする。急に失うかもしれない物の大きさに改めて気づいて、それを半分覚悟して、半分受け入れられない状態にあるのだ。まさに、何の知らせも無く勝手に自分のできること、これからの可能性を持っていかれてしまって、唖然としながらもそれを理解したバセドウ病の妹、アヤメのように。


 もうすぐ出口に着くころ、ユリの目からは涙があふれていた。シズクが何か抱え込んだ状態で毎日を過ごしていた理由がなんとなく分かった気がした。そして、妹の気持ちも少し分かった気がした。その痛み、辛さ、苦しさを彼女たちとは違うきっかけで味わった。涙で目の前が霞んだ中、必死で出口まで腕を、足を動かし、やっと出口までたどり着いたユリは、一度、涙を腕で拭ってからドアノブをつかんだ。これからの自分が壊してしまった日常を、自分の手で新しく紡いでいこう。見えていなかったことをしっかりと受け止めて、むかいあっていこう。そんな覚悟を心に刻んで。














 しかし、ユリのその気持ちを踏みにじるように、事は起きた。ユリは思わず、ドアノブをひねる手を止めて、ゆっくりと引き戸のある方に振り向く。息切れも、めまいも止まってしまった何の音も無いこの部屋に突如、獣のような息遣いと、何かが蠢くような音が現れたのだ。





 ―――開きっぱなしになっていた引き戸から、闇に染まった肢体がのぞいていた。真っ暗な部屋でもギラギラと光る目が、ジッとユリを見つめている。




 ユリの目は、その目とあってしまっていた。


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