瓦解
こんなに速く走ったのは初めてかもしれない。これが火事場の馬鹿力というやつなのだろうか。切っていく空気が氷のように冷たい。自然と足が力強く床を蹴って前に出る。速く走る為にやるべきことがすべて、まるで先天的に持っている物のような感覚で、更に言えば、無条件反射のようにできる。自分の命を守るために、自分の体は一生懸命に動いていた。
ユリは強く願っていた。もう一度シズクと会う事を。そして、隠していた真実を暴いて、絡みついていた泥色の糸を解いてみせると、改めて誓う。ここに私という人間がいるじゃないか。そう言えるように。
―――ユリの足が床を蹴る音だけがずっと響いていた。風の音も、虫の声も掻き消されているのか、飲み込まれているのか……その音だけがやけに響いている。それはユリの耳にも届いていたが、異常に研ぎ澄まされている今の状態のユリの耳にも、外の音は聞こえていなかった。というよりも、そんなことより走ることに精神を集中させていたため、気付けるはずがないというのが正解である。そう、今のユリには「そんなこと」だったのだ。その程度の情報だった。必要なかったのだ。自分の足音しか聞こえない情報なんて。
が、急に本能が耳からの情報を感じはじめた。突如、必要だと求めはじめたのだ。
―――ふと、胸の中心から弱い電気が走るような焦燥感が湧いてきた。その正体はすぐに悟ることが出来た。不安、という名前の付いた炎だ。弱い電気だったそれは、炎となって心を中心から焦がしていく。すべてがうまくいっているこの状況において、そぐわない感情である。ユリはそう思って初めて音に耳をかたむけた。
まるでハンマーで床を思い切りたたいているような音が、足音よりも大きく轟いていた。しかも、休みなくその音は連続的に発生している。それが分かった瞬間、何かを悟った気がしたが、絶対にそれに気づいてはいけないと本能が叫んでいた。しかし、それを悟ってしまった人間は、警告なんて簡単に無視できてしまう。どうしても振り向きたい。音の原因を知りたい……自分の命を守るためという口実で、本能の結論はくるりと覆った。
走る者は、例えすぐ後ろに対戦相手が迫ってきていても後ろを向いてはならない。走るという事に集中しなければならない。しかし、結論が覆った今、ユリの選択は誤らざるを得なかった。
ユリは、後ろへと首を回した。
すると―――
ユリを食おうとしていたあの怪物が、両手両足で走っており、凄まじい速さで迫ってきていた。
顔を隠していた髪の毛は風に流れて、姿を消していた。そのせいで、異常に充血して真っ赤になっている両目が、いっぱいに開かれている光景が恐怖を噴きあがらせ、耳まで裂けた口が涎をたらしながらニタっと歪んでいるその姿が体を凍りつかせた。
途端、ユリの足は縺れ、思い切り体が床に叩きつけられた。




