その9 『ごきげんよう、また会う日まで』
9.
メビウスはサヴィトリアでの10年を反芻していた。
10年間は、長いようで短かった。荷物をまとめると、大きな革かばんひとつにも満たない。
「休暇を差し上げましょう、メビウス。10年間、ご苦労様でした」
ミランダはあっさりとメビウスを手放した。まるで、戻ってくるのが分かっているかのようだった。
乗合馬車を捕まえたメビウスは、遠ざかる王都を眺めながら感慨にふけっている。
自分は戻ってくるのだろうか。正直言って、自分でもどう思っているのかわからない。アルテミアから言い渡されて、ただそれに従ったまでだ。
10年前。ソーマ王子の誘拐事件の最中、メビウスは賓客として城の一室にいた。待機命令は酷く退屈だった。正直、国家の存亡などはどうでも良かったのだ。国の命令とはいえ、アルテミアから体よく追い出され、飼い殺しにされているようなものだった。用立ててもらえないのなら、わざわざサヴィトリアでくすぶっている意味もない。
メビウスは、いっそ姿をくらましてやろうかとまで思っていた。あのころも厄介事の気配を察して、同じように荷づくりを済ませていたのだ。
メビウスが椅子に腰かけてまどろんでいると、ばしばしと頬に何かが当たる。ぼんやりとした心地で、首をひねると、椅子を引き倒されて床に頭を打ち付ける。なにごとかと思い目をかっ開くと、ミランダ王女が押しかかるようにして覆いかぶさっていた。
「メビウス」
「はあ? ……ミ、ミランダさま。 どうされましたか」
「よろしいですか、あなたは我がサヴィトリアに仕える魔術師です」
「どうされました。そんな恰好で」
ミランダは薄いネグリジェを着ていた。
「命令です。この場に、ソーマを呼びなさい」
「は?」
「ですから、ソーマを呼べと言っています」
メビウスは何も言えないでいると、唇に妙な感触があって、呆気にとられた。頬にぎこちなく手を添えられて、メビウスはだんだんと覚醒する。
「わかりませんか?」
「お、お待ちください、ミランダさま」
メビウスはやっとのことでミランダを押しとどめる。
「それでは、呼んでいただけると言う事ですか?」
「それは……国王さまの許可なくしては、無理です」
「わたくしが頼んでいるのですよ! それとも、わたくしでは足りないというの」
「いえ、そうでなく」
ミランダの眉尻が下がった。
「私では……魅力が足りないのでしょうか」
「……」
気まずい沈黙が満ちた。
「そういう意味でも」
王女とはいえ、10いくつかの
「今にも王子が殺されているかもしれないのよ! なんとか、しなさい!」
ミランダの目が、ぎりぎりとメビウスを睨みつける。泣いている。気が付いたのは、水滴が頬に当たったからだ。
「あのですね、……もっと普通に頼めないんですか」
「お金なら、いくらでもありますわ」
「いえ。……いや、分かりました」
「二言はないわね」
ミランダは、ふんと勝ち誇ったような表情になる。
不意にドアが開いた。
「メビウス殿、ソーマさまが発見なされたとのことです! ミランダさま、何をやってらっしゃるので?」
はっとして、ミランダはわなわなとふるえ、メビウスを睨んだ。悔しそうにぎりぎりと唇を噛みしめる。
メビウスがミランダが顔を真っ赤にしたのを見たのは、いまのところあれが最初で最後だ。
思わず笑ってしまったのは失策だった。ミランダは服の裾を摘まみあげると、物凄い駆け足で部屋から飛び出していく。
「いやなに、ソーマさまを呼べとのことだった」
「姉弟愛とは実に美しいものですな」
ワーロックはそろそろと扉を閉める。
「……私めはなにも見ておりません」
「ワーロック、何か誤解していないか」
「いえいえいえいえいえ……いやあ……」
ミランダがどう思ったかは知らないが、それをきっかけに、メビウスはしばらくいてやってもいいかという気になった。
もし。メビウスは考える。もしも、あの姫が、勅名ではなく、素直に助けを請うのであれは、応じるのもやぶさかではない。今回は不意を突かれて
見慣れたサヴィトリアの風景が、遠ざかってゆく。10年、長い年月だった。
手の平の中の金色のカギがきらりと光る。イーゼルマインのカギだった。
「サッフィール、メビウスは?」
「姫。今、乗合馬車に乗り込みました」
「よろしい」
最上階の物見台。そこから、城の面々はメビウスを見送っていた。
「しかし、王女さま。メビウスの奴は戻ってくるのでしょうか。いなくなったままそれっきり、ってことにはなりませんかな?」
ワーロックは眉間にしわをよせる。
奇妙なことに、自分以外の誰もがメビウスの帰還を確信しているようであるのだ。
「お前もまだまだだな」と、エスヴァダルは端を鳴らした。
ソーマ王子までもがきょとんとワーロックを見つめている始末である。
「……、理由をお聞かせ願えませんかな?」
「なんでって、叔父さん。世界中どこを探したって、このようにただっ広く、冬に雪が積もらず、大部分がまっ平らな国は他にはありません」
「はあ。……ええと? それで?」
サッフィールはふふんと鼻を鳴らした。
「近いうちに、メビウスは絶対に戻ってきます。あの偏屈があの妙な車を乗り回していられる国は、我がサヴィトリア以外にありません」
「ああ……はあ」
ワーロックはなんとも言えない顔をした。
「いつごろしびれを切らして帰ってくるのか、賭けましょうか」
ミランダがいたずらっぽく微笑んだ。
「いいですね、姫さま。私は来年の春で」
「夏に賭けます」
「秋かなあ?」
「いえいえ、もう、この老いぼれは完敗にございます」
ワーロックは帽子を脱いでひらひらと振った。
「あの変人には杖だのなんだのの忠誠より、車庫でもご用意差し上げたほうが喜ぶってものです、ミランダさま」
サッフィールがにやりと笑った。
「いっそピンクに塗ってやりましょう」
「帰ってきたときが楽しみですね」
ミランダは、小さくなっていく馬車を眺めていた。次第に、それは見えなくなる。イーゼルマインがある限り、彼は必ず戻ってくることだろう。青く広い空の下を、どこかでメビウスの乗った乗合馬車が駆けている。季節外れのバカンスを、彼は目いっぱい楽しんで帰ってくるに違いない。
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