令嬢、女給に化ける
ローズが初めてステージに立った夜、クラブ・ノクターンには、ここしばらくなかったほどの人の入りがあった。とはいえ、それは決して多いとは言えない数だったが、フレディはピアノの前で、久しぶりに前向きな顔をしていた。
「悪くない入りだな。噂が回るのは早い」
「新顔の歌手が入ったって話は、この手の街じゃすぐ広まるものさ」
ヴィンスはカウンターに寄りかかりながら、満足げに頷いた。舞台袖では、ローズが緊張した面持ちで開演を待っている。彼女の纏うドレスは、サムが古い倉庫から引っ張り出してきた年代物だったが、着こなしてみると案外様になっていた。栗色の髪は、同じ倉庫から出てきた黒い付け髪の下にすっかり押し込み、舞台用の濃い化粧も施してある。客席から見れば、昨日までの彼女とは別人だった。五つは年上に見える黒髪の女が鏡に映ったとき、ローズ本人が「どなたですか、この方」と真顔で聞いたほどだ。
「緊張しているのかい」
サムが声をかけると、ローズは小さく頷いた。
「人前で歌うのは、初めてなので」
「初めて? そうは見えなかったがね、昨日の様子は」
「あれは、必死だっただけです」
その答えに、サムは何も言わず、ただ軽くグラスを磨く手を止めた。長年の勘が、この若い娘の言葉の裏に、何か隠されたものがあることを告げていたが、サムはそれを言葉にはしなかった。
開演の合図とともに、ローズはステージに上がった。スポットライトを浴びた瞬間、彼女の表情から緊張が消え、代わりに、どこか凛とした佇まいが現れた。フレディの伴奏に合わせて紡がれる歌声に、客席は静まり返り、やがて惜しみない拍手に包まれた。
舞台袖で見守っていたヴィンスは、思わず口笛を吹きそうになるのを堪えた。
「上出来だ。この調子なら、一夜限りの公演も夢じゃない」
だが、その高揚も長くは続かなかった。
入り口の扉が開き、一人の男が入ってきたのは、ローズが二曲目を歌い始めた直後のことだった。仕立ての良いコートに身を包み、辺りを鋭く見回すその眼光は、明らかにこの店の客層とは異質だった。初老の、痩せて背筋の伸びた男だった。白髪交じりの髪をきっちりと撫でつけ、黒い革手袋を外そうとしない。帽子を取って胸に当てる仕草まで、どこか大きな屋敷の廊下で身につけたもののように見えた。
ステージの上、ローズの声がわずかに揺れた。一瞬だけ、彼女の視線がその男を捉え、そして、さっと逸れた。
「――どうした」
異変に気づいたフレディが、鍵盤を叩きながら小声で尋ねる。ローズは何とか歌を続けながらも、明らかに動揺していた。
舞台袖のヴィンスも、その男に目を留めていた。物腰、身なり、そして何より、その視線の配り方――まるで誰かを探しているかのような、執拗な観察の仕方だった。
「サム、あの男を知ってるか」
「見たことのない顔だ。だが、堅気の匂いはしないな。違う意味で、な」
サムの言葉に、ヴィンスは眉をひそめた。借金取りとも、ジョニーの手先とも違う種類の緊張感が、店の空気に混じり始めていた。
男はゆっくりと店内を進み、空いた席に腰を下ろすと、じっとステージの方を見つめ続けた。だが、その目は舞台の上の黒髪の歌手を素通りし、客席の女たちや袖の暗がりばかりを探っていた。ローズの歌は最後まで途切れることなく終わったが、袖に戻った彼女の顔は、蒼白になっていた。
「ローズさん、大丈夫か」
ヴィンスが声をかけると、ローズは震える声で答えた。
「あの人は……父の使いの者です。私を、連れ戻しに来たのだと思います」
その一言に、ヴィンスとフレディは顔を見合わせた。予感はあった。だが、こうもはっきりと突きつけられると、話は別だ。
「連れ戻すって、穏やかじゃないな。あんた、いったい何者なんだ」
フレディの問いに、ローズは唇を噛んだ。今すぐにでも全てを話してしまいたい衝動と、それでもまだ言えないという葛藤が、彼女の表情にありありと浮かんでいた。
「今は、まだ言えません。ですが、お願いです。今夜だけは、見つからないようにしていただけませんか」
その切実な頼みに、ヴィンスは一瞬だけ考え込んだ。だが、結論を出すのに、それほど時間はかからなかった。
「分かった。とりあえず、裏に隠れていてくれ。表のことは、こっちで何とかする」
「ですが……」
「事情はまだ聞かない。今は、困っている人間を放っておけないだけだ」
その言葉に、ローズは戸惑いながらも、こくりと頷いた。フレディが呆れたようにため息をつく。
「その台詞、王女様にでも使うつもりだったんじゃないだろうな」
「使い回しの何が悪い。効果があるなら、何度でも使うさ」
そう返しながらも、ヴィンスの頭は素早く回転していた。表の男の目を欺きながら、ローズを裏に逃がす。単純な話だが、実行するとなると、一筋縄ではいかない。
「サム、あの男の相手を頼めるか。時間を稼いでほしい」
「任せろ。酔わせるのは得意分野だ」
サムはそう言うと、グラス片手に、悠然とした足取りで男の席へと向かっていった。
「ローズさん、こっちだ」
ヴィンスはローズの手を引き、裏口へと続く狭い廊下へ急いだ。だが、廊下の途中で、運悪く客席から続く扉が開き、男の連れらしいもう一人の人物――先ほどの男よりも若い、細身の男が姿を現した。二十代半ばの撫で肩の男で、頭に対して一回り大きすぎる帽子をかぶっている。落ち着きのない目が、廊下の壁から天井までを、せわしなく行き来した。
「あなた、そこで何を」
鋭い声に、ヴィンスは咄嗟に動いた。ローズを自分の背に隠すようにして、笑顔を作る。
「これは失礼、通用口を探していただけですよ。ところで、お客様は今夜、何をお探しで?」
「人を探している。若い女性で、栗色の髪に――」
「栗色の髪の女性なら、三軒隣のキャバレーによく出入りしていますよ。この辺りじゃ、あの店が一番の人気ですからね」
息をつく間もなく口から出た出まかせに、ヴィンス自身も内心で舌を巻いた。若い男は訝しげな顔をしながらも、その情報に食いついた様子で、そのまま裏口の扉を押し開けて路地へ出ていった。扉の向こうで、男が煙草に火をつける音がした。
「……よく、とっさにそんな嘘が出てきますね」
「嘘をつくのも、この商売の一部でね。それより、まずいな。裏口は、あの男が一服し終わるまで使えない」
廊下の先は路地、後ろは客席。楽屋代わりの小部屋は、その真ん中で扉も閉まらない。ヴィンスは天井を見上げ、それから、壁の釘に掛かったサムの予備の前掛けに目を留めた。
「隠れる場所がないなら、隠れなければいい」
「はい?」
「表に出るんだ。女給として」
ローズが何か言うより早く、ヴィンスは前掛けを彼女の首に掛け、棚の上にあった給仕用の白い帽子を、黒い付け髪の上から目深にかぶせた。最後に、銀色の丸盆を一枚、両手に持たせる。
「あの男が見てるのは、舞台の上と、客席の女客と、袖の暗がりだ。客の間を盆を持って歩き回ってる女給の顔なんて、誰も見やしない」
「私、お盆を持って歩いたことがありません」
「持って歩く。それだけだ。笑顔はいらない。注文を聞いて、カウンターまで運ぶ」
「……分かりました。やります」
ローズは盆を胸の前に掲げ、深く息を吸った。その持ち方は、どう見ても女給というより、聖餐の杯を運ぶ侍者だった。
客席に戻ると、サムはすでに男の隣に腰を下ろし、すっかり打ち解けた様子で杯を重ねさせていた。三十年選手の話術は伊達ではなく、男は気づけば故郷の話まで語り始めている。
ローズはまず、手前のテーブルの常連客二人のところへ進み出た。背筋を伸ばし、盆を捧げ持ったまま、きっちりと腰を折る。
「ご注文を、承ってもよろしゅうございますか」
常連の二人は顔を見合わせた。この店で「よろしゅうございますか」と言われたのは、開店以来はじめてだろう。
「……ビールを」
「かしこまりました。お冷やしの具合は、いかがいたしましょう」
「冷えてりゃ、いい」
「承知いたしました。冷えているものを、お持ちいたします」
もう一度きっちりと礼をして去っていく背中を、常連客たちは口を半開きにして見送った。ピアノの前でそれを見ていたフレディが、肩を震わせて鍵盤の蓋に額を押しつけている。
そこへ、サムののんびりした声が飛んだ。
「おうい、こちらの旦那に、水割りをもう一杯」
ローズの足が止まった。ヴィンスの足も止まった。よりによって、四番テーブル――父の使いの男の席だった。
ヴィンスが目で「僕が行く」と合図するより早く、ローズは水割りのグラスを盆に載せ、まっすぐ四番テーブルへ歩き出していた。言い出したら聞かない人間の歩き方だった。
「お待たせいたしました。水割りでございます」
男は振り向きもしなかった。サムの話に夢中で、手だけをこちらへ伸ばす。
「――というわけで、旦那。この街で女を探すなら、まず酒場から当たるのが定石ですよ。ここいらは、そういう店ばかりですからな」
「酒場ねえ。こういう店か」
「こういう店です」
探している娘が、その男の肘の横に立って、水割りを差し出していた。ローズは盆を胸に戻すと、最後まで完璧な角度で一礼し、まっすぐに引き返してきた。カウンターの陰に滑り込むなり、その膝が、がくりと折れた。
「……水割りの水は、どちらの水でお作りすればよかったのでしょう」
「今、それを気にするのか、あんたは」
ヴィンスが小声で返すと、ローズは帽子の下で、ほんの少しだけ笑った。緊張の中にも、初めて見せる自然な表情だった。
「サムさん、あの人から、故郷の話を三度も聞き出していました。来た理由も、少しずつ」
ローズの言葉に、ヴィンスは軽く目を見張った。よく見ている、と思った。
「あんたも、なかなか人をよく見てるじゃないか」
「そうしないと、生きていけない場所にいたので」
ぽつりと漏れた一言に、ヴィンスは何かを聞き返そうとして、思いとどまった。今はまだ、その先を尋ねるべき時ではない。
やがて、男は上機嫌にグラスを空けると、名残惜しそうに席を立った。今夜のところは収穫なし、と判断したらしい。帰りがけ、出口の脇に立っていた白い帽子の女給に、男は軽く手を上げた。
「水割り、うまかったよ」
「恐れ入ります」
ローズはその背中に向かって、深々と頭を下げた。サムが扉の外まで見送り、扉が閉まりきったのを確かめてから、ヴィンスはようやく長い息を吐いた。サムがカウンターに戻りながら、肩をすくめる。
「まあ、今夜のところは帰らせたが、また来るだろうな。目つきからして、諦めのいい人間には見えなかった」
「厄介だな」
「厄介だが、時間は稼げた。あとは、あんた次第だ」
サムの視線が、ちらりとローズへ向く。ローズは深く頭を下げた。
「ありがとうございます。今夜だけでも、匿っていただけて」
「今夜だけ、と言わず、必要なだけ隠れていればいい。この店には、そのくらいの秘密を抱えておく余裕は、まだ残ってる」
ヴィンスがそう言うと、フレディが呆れたように口を挟んだ。
「経営難で三週間しかもたない店の台詞とは思えないな、それ」
「余裕がないからこそ、格好つけたくなるんだよ」
ローズは今度こそ声を立てて笑い、それから、まだ首に掛かったままの前掛けに気づいて、慌ててそれを外した。
「明日からも、女給のお仕事はいたしましょうか」
「やめてくれ。常連が二人、敬語が移って帰っていった」




