口約束は、契約書より重い
昨夜の一件から一夜明けても、クラブ・ノクターンの空気はどこか張り詰めたままだった。ヴィンスは事務室の机に肘をつき、開いたままの帳面を睨みつけていたが、数字はいくら睨んだところで動いてくれない。
「フレディ、正直に言ってくれ。今の状況、あとどれくらい持ちこたえられる」
「昨日と変わらず三週間、と言いたいところだけど、正直に言うなら、あと二週間ってところかな。ローズさんの分の食費と寝床代も、帳簿には地味に響いてる」
「彼女を追い出せって言いたいのか」
「そうは言ってない。ただ、事実を言っただけだ」
フレディの淡々とした物言いに、ヴィンスは何も言い返せなかった。人助けというのは、思っていたよりも金がかかる。分かってはいたが、改めて数字で突きつけられると、堪えるものがあった。
そこへ、ローズが控えめにノックをして入ってきた。昨夜の緊張の名残がまだ顔に浮かんでいるが、その手には、清掃道具の入った桶が握られていた。
「あの、お手伝いできることがあれば、何でも言ってください。歌う以外にも、掃除でも皿洗いでも」
「客が入ってから歌う分の稼ぎだけじゃ、あんたの居場所代には足りないって、フレディに聞いたのか」
「聞いていませんが、想像はつきます。ただで置いてもらえるほど、世の中は甘くないので」
その言い方に、ヴィンスは思わず苦笑した。世間知らずのお嬢様かと思いきや、案外現実的な物言いをする。
「分かった。じゃあ、開店前の掃除は頼む。ついでに、客席のグラス磨きもな」
「はい、喜んで」
「念のために聞くが、掃除のご経験は」
「見たことは、何度も」
「見たことは」
「女中たちが、とても手際よくやっていました。手順は覚えています」
覚えている、と言ったとおり、手順だけは正しかった。ただ、ローズは最初のグラス一つを、窓の光にかざしては磨き、かざしては磨き、気がつけば十分近く同じグラスを回し続けていた。
「ローズさん、そのグラス、もう向こうが透けて見えてる」
「まだ、ここに指の跡が」
「それは、あんたが今つけた跡だ」
ローズはグラスを見つめ、自分の指を見つめ、それから真顔のまま、二つ目のグラスに手を伸ばした。一つ目を置こうとはしなかった。
グラスと格闘を続けるローズを横目に、フレディが小声でヴィンスに耳打ちした。
「あの様子だと、本当に行くあてがないんだろうな」
「だろうな。だからこそ、放り出すわけにはいかない」
「そういう甘さが、この店を傾かせてる原因の一つだと思うけどね」
「甘さじゃない。義理堅さだ」
「都合のいい言い換えだ」
そう言いながらも、フレディの目には、ヴィンスのその「甘さ」を本気で咎める色はなかった。この幼なじみの、損得を度外視したところが、結局は店の看板でもあり、客を惹きつける理由の一つでもあることを、フレディ自身が一番よく知っている。
昼近くになって、店の扉が乱暴に開いた。今度はジョニーでも、昨夜の男たちでもない。借金の取り立てで顔なじみになりつつある、恰幅のいい男だった。丸い顔に小さな丸眼鏡、山高帽を脱いで小脇に抱え、靴の泥を入口で丁寧に落としてから入ってくる。扉の開け方は乱暴なのに、そのあとの仕草だけは、取り立て屋にしてはやけに礼儀正しかった。
「ヴィンスさん、今月分、そろそろいただきに来ましたよ」
「ああ、いつもご苦労さま。悪いんだが、今日はまだ準備が――」
「その台詞、先月も聞きましたね」
男は懐から帳面を取り出し、ぱらぱらとめくって見せた。ヴィンスの店の負債額が、几帳面な数字で記録されている。
「そろそろ、こちらとしても限界です。来週までに、まとまった額をご用意いただけないなら」
「分かってる、分かってるとも。もう少しだけ、待ってくれないか」
「同じ台詞を、もう何度聞いたことか」
男は皮肉めいた笑みを浮かべながらも、これ以上の強硬手段には出ず、小脇の山高帽をかぶり直し、そのつばに軽く触れて店を後にした。去り際、ちらりとローズの方へ視線を向けたのを、ヴィンスは見逃さなかった。
「今のは……」
「ただの偶然だろう。あの手の連中は、誰に対しても値踏みするような目をする」
そう言いながらも、ヴィンスの胸中には、小さな棘のような違和感が残った。
カウンターの奥で成り行きを見ていたサムが、グラスを磨きながら口を挟んだ。
「あの取り立て屋、昨日の男たちとは繋がっていないだろうな」
「考えすぎだ、サム。畑違いの連中だ」
「畑違いでも、金の匂いには敏感なもんだ。あの手の男たちは、誰かが弱っていると聞けば、どこからともなく寄ってくる」
サムの言葉に、フレディも渋い顔で相槌を打った。
「借金取り、ライバル、ローズさんの追手――どれもこれも、同じ二週間の中で相手にしなきゃいけないのか」
「贅沢な話じゃないか。退屈しなくて済む」
ヴィンスのその一言に、フレディはとうとう額に手を当ててため息をついた。それでも、その口元にはわずかな笑みが浮かんでいた。この状況で冗談を絶やさない男を、これまで何度も見てきたからこそ、その強がりの裏にある本気を信じられるのだ。
「それより、一夜限りの公演の話を詰めよう。日取りはどうする」
「二週間ぎりぎりだが、何とかなる範囲だ。一週間で仕込みを終わらせて、残りの一週間で客を呼び込む」
「呼び込むって、具体的にはどうやって」
「チラシを撒く。それから、街の顔役連中に、それとなく噂を流してもらう」
「顔役って、まさかジョニーのことじゃないだろうな」
「あいつに頼るくらいなら、店を畳んだ方がマシだ」
ヴィンスがきっぱりと言い切ると、フレディは安堵したように肩の力を抜いた。ジョニーの名前を出しただけで、この幼なじみがどれほど意固地になるかを、フレディは誰よりもよく知っている。だからこそ、今の一言で十分だった。それ以上、この話題を深追いする必要はない。
掃除を終えたローズが、桶を片付けながら口を開いた。
「本当に、あと二週間しかないんですか」
「フレディの計算だと、そうらしい」
「私のせいで、余計に厳しくなっているなら――」
「その話はもうやめてくれ。あんたが来る前から、この店はギリギリだったんだ。あんたのせいにするな」
きっぱりとした口調に、ローズは一瞬言葉を詰まらせたが、やがて小さく頷いた。
「分かりました。だったら、精一杯歌います。それが今の私にできる、一番の恩返しですから」
その言葉に、ヴィンスは表情を緩めた。
「頼りにしてる。一夜限りの公演、あんたの歌がなきゃ始まらない」
「必ず、期待に応えます」
二人のやり取りを、帳面片手のフレディが少し離れた場所から眺めていた。損得勘定だけなら、とうに切り捨てているべき状況だ。それでも、この店に妙な熱が戻りつつあることを、フレディ自身も否定できずにいた。
「――まあ、口約束だけは、この店の唯一の資産だからな」
フレディの呟きに、ヴィンスが片眉を上げた。
「聞こえてたのか、今の」
「聞こえてなくても分かる、あんたの考えることくらい」
サムがグラスを棚に戻しながら、二人のやり取りに割って入った。
「口約束で借金は返せんぞ」
「分かってる。分かってるが、口約束すら守れない男に、誰がついてくる」
その言葉に、サムは何も言わず、ただ小さく目を細めた。三十年、この店の隅からヴィンスを見てきた男にしか分からない、何かを見定めるような目だった。
「……まあ、いい。二週間で仕込むというなら、こっちも本腰を入れよう。酒の仕入れは任せてもらう」
「頼む」
ローズは桶を抱えたまま、その一連のやり取りをじっと見つめていた。損得ずくでは到底成り立たない、けれどどこか温かい絆のようなものが、この店には確かに流れている。それは、彼女が育った場所には決してなかったものだった。
「あの……私も、微力ながら」
「あんたは歌に集中しろ。それが一番の仕事だ。皿洗いなら、他にいくらでも人手はある」
「ですが、あの人たちも忙しそうにしていて」
「それでも、あんたの喉を潰されたら、公演そのものが成り立たなくなる。優先順位の問題だ」
ヴィンスの即答に、ローズは少し驚いたような顔をしてから、やがて素直に頷いた。
「はい。精一杯、歌います」
窓の外では、昼下がりの光が、色褪せた看板の隙間からわずかに差し込んでいた。二週間という数字の重さを抱えながらも、店の中には、昨日までとは違う、小さな灯りが確かに灯り始めていた。




