幼なじみの敵、上機嫌な訪問
翌日の昼過ぎ、まだ開店前のクラブ・ノクターンに、場違いなほど陽気な足音が響いた。
「やあやあ、景気はどうだい、ヴィンス」
仕立ての良すぎるクリーム色の三つ揃いを着た男が、断りもなく扉を開けて入ってくる。ポマードで光る金髪に、鉛筆で引いたような細い口ひげ。小指の金の指輪が、扉を押した拍子にきらりと光った。ジョニー。かつてこの店を、ヴィンスと二人三脚で切り盛りしていた男であり、今は道を挟んだ向かいで、より大きく、より派手なクラブを構えるライバルだった。
「景気なら絶好調だよ、ジョニー。見ての通り、客が並びすぎて困ってる」
ヴィンスは空っぽの客席を手で示しながら、皮肉たっぷりに答えた。ジョニーはそれを意に介した様子もなく、わざとらしく店内を見回した。
「相変わらず、口だけは絶好調のようだね」
「口だけでも、絶好調でいる方が精神衛生にいいんでね」
二人のやり取りに、カウンターの向こうでサムが小さく肩をすくめた。この応酬は、もう何年も変わらない、二人なりの挨拶のようなものだ。
ジョニーの背後から、もう一人の人影が続いた。長い脚をゆったりと運ぶ、目を引く女――ダイナだった。肩で切り揃えた黒髪に、切れ長の目と赤い口紅。昼間だというのに、ドレスの上から狐の襟巻きを掛けていて、埃っぽい店の空気の中で、そこだけ夜の匂いがした。ジョニーの店の看板ダンサーであり、店の顔でもある。彼女はヴィンスと目が合うと、どこか気まずそうに視線を逸らした。
「ダイナまで一緒とは、珍しいこともあるもんだ」
「たまたま、通りかかっただけよ」
素っ気ない返事に、ヴィンスは軽く肩をすくめただけで、深く追及はしなかった。だが、その「たまたま」という言葉にしては、ダイナの視線は店の隅々まで、やけに熱心に動いていた。壁に掛かった古い写真、色褪せたポスター、カウンターの傷――まるで、この店の様子を一つ残らず覚えておこうとするかのように。
「そんなに珍しいか、この店」
「べ、別に。懐かしいだけよ、昔はよくここで飲んでたし」
慌てたように付け加えるダイナに、ジョニーが横から茶々を入れた。
「おいおい、僕の店の酒の方が、よっぽど上等だろう」
「そういう話はしてないでしょ」
ぴしゃりと返すダイナに、ジョニーは苦笑いを浮かべた。彼女はそれ以上何も言わず、少し離れたテーブルの椅子に腰を下ろすと、腕を組んで窓の外を眺め始めた。会話に加わるつもりはない、という態度だったが、その耳は明らかに、ヴィンスとジョニーのやり取りに向けられていた。
フレディがカウンターの奥から、ジョニーに冷ややかな視線を送る。
「それで、今日は何の用だ。世間話のためだけに来る男じゃないだろう」
フレディの問いに、ジョニーは笑みを深くした。
「察しがいいな、フレディ。実はね、ヴィンス。この店を、僕に売る気はないかと思って」
その一言に、店内の空気が一瞬止まった。
「――売る?」
「ああ。悪い話じゃないはずだ。今の経営状況を考えれば、むしろ渡りに船だと思うがね」
ジョニーは懐から一枚の書類を取り出し、カウンターの上に置いた。そこに記された金額は、決して悪くない数字だった。悪くない、というより、今のヴィンスにとっては喉から手が出るほどの額だ。だが、それを一目見た瞬間、ヴィンスの中で何かが硬くなった。
「随分と、用意がいいじゃないか。今日来るって決めてから、慌てて書いたようには見えない」
「準備がいいのが、僕の取り柄でね」
ジョニーはそう言うと、書類の端を指先で軽く叩いた。その仕草には、余裕を装いながらも、どこか急いているような気配が滲んでいた。ヴィンスはその些細な違和感を、見逃さなかった。
「悪い話じゃない、ね」
「その様子だと、いい返事が聞けそうだ」
「残念だが、売る気はない」
迷いのない即答に、ジョニーはわずかに眉を上げた。
「強がりを言える立場かい? フレディの帳簿を見せてもらったわけじゃないが、噂は耳に入ってくる」
「強がりじゃない。この店には、まだやることが残ってる」
ヴィンスの脳裏に、昨晩のローズの歌声と、思いついたばかりの計画がよぎった。だが、それをこの場でジョニーに明かすつもりは毛頭ない。
「やることって、何だい。聞かせてもらおうか」
「企業秘密だ」
「ずいぶんと、勿体ぶるじゃないか」
軽い調子で応じるヴィンスに、ジョニーはしばらく探るような視線を向けていたが、やがて肩をすくめ、書類を懐に戻した。
「まあいい。気が変わったら、いつでも声をかけてくれ。この提示額は、そう長くは有効じゃないがね」
「覚えておくよ。忘れないうちに、忘れることにする」
軽口で締めくくると、ジョニーは愉快そうに笑った。
「相変わらず口の減らない男だ。昔からそうだった、僕らがまだ二人でこの店を回していた頃からね」
「昔の話をしても、勘定は減らないんだったな。誰かさんの受け売りだが」
「フレディの昔からの口癖じゃないか。あいつ、まだそれを言ってるのか。成長がないな、二人とも」
軽く笑い合う二人の間に、かつての相棒同士だった名残のようなものが、ほんの一瞬だけ滲んだ。だが、それも束の間のことだった。ジョニーは表情を商売用の笑顔に戻すと、帽子のつばに軽く触れた。
「そうそう、うちのネオン、昨日一本増やしたんだ。気づいたかい」
「昼間から点けてるのは、この通りでお前の店だけだ。嫌でも目に入る」
「それは何よりだ。目に入れるために増やしたんだからね」
ジョニーは満足げに頷いた。ヴィンスが呆れて天井を仰ぐと、カウンターの奥でサムが、グラスを磨く手を一瞬だけ止めた。笑いを噛み殺したらしい。
「じゃあな、ヴィンス。ダイナ、行くぞ」
「――ええ」
ダイナは踵を返しかけたところで、一瞬だけ足を止め、ヴィンスの方を振り返った。何か言いたげな表情だったが、結局その口から出たのは短い一言だけだった。
「あんまり、無茶しないでよ」
それだけ言うと、彼女はジョニーの後を追って店を出ていった。残されたヴィンスとフレディの間に、しばらく沈黙が流れた。
「――何だったんだ、今の」
フレディが呟くと、ヴィンスは腕を組んで扉の方を睨んだ。
「さあな。だが、あいつが本気でこの店を欲しがってるとしたら、それはそれで妙な話だ」
「妙って、どういう意味で」
「ジョニーは商売人だ。負債まみれの店を、わざわざ高値で買い取る理由がない。何か、別の狙いがあるはずだ」
フレディは帳面を胸に抱えたまま、深くため息をついた。
「借金取りだけでも手一杯だってのに、今度はライバルの思惑まで気にしなきゃいけないのか」
「面白くなってきたと思わないか」
「思わない。全然思わない」
その率直な返事に、ヴィンスは思わず声を出して笑った。だが、その笑いの奥で、ジョニーの提示した金額の数字が、いつまでも頭から離れなかった。
カウンターの奥で成り行きを見守っていたサムが、グラスを磨く手を止めずに口を挟んだ。
「あの二人が、揃ってわざわざ足を運んでくるのは珍しいことだ。金の話をするだけなら、電話一本で済ませられる話だろうに」
「サムから見ても、何か裏があると思うのか」
「思う、というより、確信してる。三十年もこの商売をやってりゃ、それくらいの勘は自然と身につくもんだ」
ヴィンスはカウンターに肘をつき、扉の外を見つめた。表の通りでは、一本増えたというジョニーの店のネオンが、昼の日差しの下で律儀に瞬いている。かつては自分もあの明かりの片側を担っていたはずなのに、今はもう、随分と遠い光のように感じられた。
「まあいい。相手の狙いが何であれ、こっちのやることは変わらないさ」
「一夜限りの公演、本気でやる気か」
「本気だとも。それ以外に、この店を救う手はなさそうだからな」
フレディは帳面を抱え直し、もう一度ため息をついた。それでも、その顔には、どこか覚悟を決めたような色も浮かんでいた。
「分かった。付き合うよ、最後まで」
「頼りにしてる」
ヴィンスは両手を打ち鳴らし、空っぽの客席に向かって声を張った。
「さて、諸君。開店まであと五時間。まずは、看板の電球を一つ、取り替えるところから始めようか」
「予備の電球なら、先月で尽きた」
サムの返事に、ヴィンスは打ち鳴らした手を、そのまま静かに下ろした。




