貼り紙は半年前から
初めまして、都 せあです。
昔書いて眠ったままの作品を気まぐれで放出中です。
ゆるく読んで下さい。
ネオンサインの裏路地、その奥まった扉の向こうにだけ、夜はまだ本物の顔をしていた。クラブ・ノクターン。看板の電球は三つに一つが切れたままだが、扉を開けた瞬間に流れ込むピアノの音色だけは、この街のどこよりも確かだった。
ステージの上、ヴィンスはスポットライトを浴びながら、客席に向かって軽く片目をつぶってみせた。背の高い、痩せた男だった。後ろへ撫でつけた黒髪から一房だけが額に落ち、灰色の目は、笑うと目尻に細い皺が寄る。袖口の擦り切れかけた紺のタキシードも、煙草の煙が青くたなびくスポットライトの下では、どうにか一張羅に見えた。
「今夜も、いらしていただいて光栄です。もっとも、来月もこの店があるかどうかは、僕自身にも分かりませんが」
冗談めかした一言に、客席から控えめな笑いが起きる。誰もそれを本気だとは思っていない。だが、その冗談は、ヴィンス自身にとっては誰よりも本気だった。
一曲を歌い終え、拍手の中で舞台袖に下がると、ヴィンスの笑顔は音もなく消えた。
「サム、あの二人はまだ帰ってないか」
バーカウンターの奥で黙々とグラスを磨いていた老バーテンダーのサムが、目線だけを上げた。六十を越えた大柄な男で、短く刈った白髪と、手入れの行き届いた白い口ひげをしている。白い上着に黒い蝶ネクタイ、分厚い手のひらの中では、ウイスキーのグラスが玩具のように小さく見えた。
「勘定書きを持った紳士方なら、四番テーブルで大人しく飲んでる。今夜は騒がないでくれてるだけ、感謝することだな」
「感謝はしてる。心の底から」
サムは磨き終えたグラスを棚に戻しながら、小さく肩をすくめた。
「先月は、閉店間際に胸ぐらを掴まれかけたんだ。今夜くらいの静けさなら、贅沢は言えん」
「胸ぐらの一つや二つ、僕の商売にはつきものさ」
「軽口で済ませられるのも、今のうちだと思うがね」
サムの言葉には、からかいとも忠告ともつかない重みがあった。この店で三十年近く働いてきた男の目には、ヴィンスの強がりの底が、誰よりもよく見えているのだろう。ヴィンスはそれ以上言い返さず、カウンターを軽く指で叩いてから裏へ向かった。
事務室に入り、ネクタイを緩める。机の上には、開けるのが怖くなるほど分厚い封筒の束が積まれている。その一番上を手に取り、中身を確かめるまでもなく、ヴィンスは深いため息をついた。
「フレディ、今月の入りは」
ピアノの椅子から立ち上がったフレディが、帳面を片手に事務室へ顔を出した。ヴィンスと同い年の、ずんぐりとした中背の男だ。赤毛の短髪に丸眼鏡、腕まくりしたシャツにサスペンダー、耳には削りかけの鉛筆が挟まっている。幼なじみらしい遠慮のなさで、ヴィンスの机に帳面を投げ出す。
「聞かない方がいいと思うけど、聞くなら答える。今のままじゃ、あと三週間ももたない」
「三週間か。案外、優しい数字を出してくるじゃないか」
「甘く見積もっただけだ。厳しく見積もれば、来週には看板の電球どころか、店の電気そのものが消える」
ヴィンスは椅子の背にもたれ、天井を見上げた。ペンキの剥げた天井には、この店が全盛期だった頃の名残――色褪せた星形の装飾が、今も申し訳程度にぶら下がっている。
「昔は、この店に人を入れるのに苦労したことなんてなかったのにな」
「昔の話をしても、勘定は減らないよ」
フレディの現実的な一言に、ヴィンスは肩をすくめた。
「分かってる。分かってるさ。何か、一発逆転の手を考えないと」
「一発逆転って、具体的には」
「まだ、ない」
フレディは帳面で自分の額を軽く叩いた。
「ないのに、あと三週間しかない話をしてるのか」
「三週間もあれば、大抵のことは何とかなる。僕らは何度もそうしてきただろう」
「何とかならなかった時のことは、覚えてないみたいだな」
「覚えていないんじゃない。忘れることにしているんだ」
軽口の応酬に、フレディは呆れながらも、どこか安心したような息を吐いた。ヴィンスがこの調子で軽口を叩いている間は、まだ本当に追い詰められてはいない――それが、幼なじみとして積み重ねてきた経験則だった。
とはいえ、釘を刺しておくのも幼なじみの役目だ。フレディは片眉を上げた。
「ないのに、あるみたいな顔で言うのはやめてくれ」
「顔だけでも自信ありげにしておかないと、誰もついてこないだろう」
その言葉に、フレディは何も言い返さなかった。長い付き合いの中で、彼はヴィンスのこの強がりが、単なる見栄ではないことを知っている。店が傾き始めてからというもの、ヴィンスは誰よりも先に笑い、誰よりも遅くまで一人で帳面と向き合っていた。
そのとき、事務室のドアが控えめにノックされた。
「あの、すみません」
顔を出したのは、見慣れない若い女だった。上等な生地のコートを着ているが、着慣れていないのか、袖の合わせ方がどこかぎこちない。小柄で、肩までの栗色の髪が、夜の湿気で少しうねっている。色の白い顔の中で、緑がかった褐色の目だけが、怯えながらも真っすぐにこちらを見ていた。手にした小さな旅行鞄を、まるで手放したら困るとでもいうように両手で抱えている。
「歌手を募集しているって、表に貼り紙が」
ヴィンスとフレディは、顔を見合わせた。あの貼り紙は、もう半年近く前に出したきり、誰からも反応がなかったものだ。
「募集は……まだしていますが」
ヴィンスが答えると、女はほっとしたように鞄を置いた。
「歌わせていただけますか。今すぐにでも」
「今すぐ、ですか」
「行くところが、他にないので」
その言い方に、ヴィンスは一瞬だけ言葉を探した。育ちの良さそうな言葉遣いと、行き場のなさを隠しきれない表情。その組み合わせに、何か引っかかるものを感じたが、今のヴィンスにそれを詮索する余裕はなかった。
「お名前は」
「ローズ、と呼んでください」
わずかな間があった。本名ではないと、誰の目にも明らかな間だった。だが、ヴィンスはそれ以上追及しなかった。
「分かりました、ローズさん。表の客は、もう引けたな。フレディ、ステージで一曲、ピアノに合わせて聞かせてもらえるか」
フレディが訝しげな顔をしながらも、表のピアノの椅子に戻る。客の引けたステージにローズが立ち、ヴィンスは客席の暗がりで腕を組んだ。正直なところ、あまり期待はしていなかった。だが、ローズが最初の一節を歌い出した瞬間、がらんとした店の空気が変わった。
澄んだ声だった。技巧に走らない、まっすぐな声。それでいて、どこか切実な影を帯びている。歌い終えたローズが、緊張した面持ちでヴィンスを見つめた。
「……いかがでしたか」
ヴィンスは、しばらく何も言わずに彼女を見つめ返した。それから、久しぶりに、心の底からの笑みを浮かべた。
「悪くない。悪くないどころか――今夜、僕がずっと探していたものかもしれない」
その一言に、フレディが驚いたように顔を上げた。
「ヴィンス、まさか」
「ああ。閃いた。一発逆転の手だ」
ヴィンスは手近なテーブルに身を乗り出し、目を輝かせた。
「一夜限りの特別公演をやる。この店に残された時間を全部注ぎ込んで、街中の噂になるような夜を作る。それができれば、投資家だろうと常連客だろうと、誰かしらが振り向いてくれるはずだ」
「思いつきで言ってないか、それ」
「思いつきだとも。だが、悪い思いつきじゃないだろう」
フレディは頭を抱えたが、その口元には、どこか諦めにも似た笑みが浮かんでいた。ヴィンスがこの調子で無茶を言い出すのは、今に始まったことではない。そして、その無茶が、これまで何度もこの店を土壇場で救ってきたことも。
「ローズさん、というわけで、早速なんですが」
ヴィンスは彼女に向き直った。
「今夜から、うちの看板歌手になっていただけませんか」
ローズは目を見開いた。行くあてもなく飛び込んだ店で、まさかこんな展開になるとは思っていなかったのだろう。それでも、少しの逡巡の後、彼女は静かに頷いた。
「よろしくお願いします」
差し出された小さな手を、ヴィンスは軽く握り返し、満足げに笑った。ローズがどれほど大きな秘密を抱えてこの店に流れ着いたのか――そして、ヴィンスもまた、彼女に劣らぬ秘密を胸の底にしまっていることを、この時点では、互いにまだ知る由もなかった。




