第三十三話 揺れる
きてくれてありがとうねー。
二月になった。
寒さが一番厳しい季節だった。朝、外に出ると、空気が刺さるように冷たかった。息が白くなって、すぐに消えた。
ルミナとの毎朝は、変わらず続いていた。
でも、少し前とは違っていた。ルミナが変わろうとしていた。それは、小さな変化だった。覗き込んでくることが減った。「早く帰ってきて」という言葉が減った。一人でいる時間を、少しだけ作るようになっていた。
その変化が、僕の中に何かを積み重ねていた。
積み重なったものが、何なのか、まだ分からなかった。
ある朝のことだった。
学校に向かう途中、分かれ道に差し掛かった。
今日も、まっすぐ進むはずだった。
でも、足が、少し止まった。
止まった理由が、自分でも分からなかった。ただ、止まった。
「どうしたの?」ルミナが気づいた。
「なんでもない」と言って、また歩き始めた。
まっすぐ進んだ。ルミナの家の方向に。
でも、分かれ道を過ぎてから、少し長く振り返った。
今日は、長く振り返った。
昼休み、一人でいる時間があった。
ルミナが最近、時々一人の時間を作るようになっていた。今日も、「少し一人でいてくる」と言って、どこかに行った。
一人で弁当を食べた。
窓の外を見た。空が青かった。冬の青空。
こういう時間が、最近少し増えていた。一人でいる時間。考える時間。
シエルのことを、考えた。
シエルと最後に会ったのは、冬休みの最終日だった。それから、もう一ヶ月近くが経っていた。
会いたい、という気持ちが、今日は少しはっきりしていた。
会いたい。
その感情が、自分の中にあることを、今日は隠さずに、そのまま感じていた。
ルミナが戻ってきた。
「どうだった?」とルミナが聞いた。
「静かだった」
「私も、静かだった」ルミナが席に着いた。「一人でいるの、少し慣れてきたかも」
「そう?」
「うん。最初はすごく不安だったけど、最近は少しだけ、大丈夫になってきた」ルミナが少し笑った。「アイルのおかげかもしれない」
「僕のおかげ?」
「正直に話してくれたから」ルミナが窓の外を見た。「アイルがいなくても大丈夫かもって、自分に言い聞かせてたら、少しずつ、そういう気がしてきた」
アイルがいなくても大丈夫かもしれない、と自分に言い聞かせてきた。
その言葉が、胸に落ちた。
ルミナが、一人でそういうことをしていた。誰にも言わずに。
「……すごいね、ルミナ」と言った。
「すごくないよ」ルミナが笑った。「ただ、変わりたかっただけだから」
放課後、ルミナの家への帰り道。
いつもの道を歩きながら、僕は少し、今日のことを考えていた。
分かれ道で足が止まったこと。会いたいという気持ちがはっきりしていたこと。ルミナが一人でも大丈夫になってきたこと。
色々なことが、今日積み重なっていた。
「ねえ、アイル」ルミナが言った。
「うん」
「今日、なんか考えてることある?」
「ある」
「言える?」
少し考えた。
「……シエルに会いたい、と思ってた」と言った。
ルミナが少し止まった。歩きながら、でも、少し止まった感じがした。
「そっか」ルミナが静かに言った。
「ごめん」
「謝らなくていい」ルミナが言った。「正直に言ってくれたんでしょ」
「うん」
また少し沈黙があった。
「……行ってきたら?」ルミナが言った。
驚いた。
「行ってきたら、って」
「今日、うちに来なくていいよ」ルミナが静かに言った。「シエルのところ、行ってきなよ」
「でも」
「でも、じゃなくて」ルミナが少し笑った。笑っていたが、少し無理をしているような笑顔だった。「私、変わろうとしてるから。アイルが会いたい人に会えないのは、変じゃん」
アイルが会いたい人に会えないのは、変じゃん。
その言葉が、静かに、胸に落ちた。
「本当に、いいの?」
「いいよ」ルミナが頷いた。「ただ、後で、連絡だけして」
「する」
「うん」ルミナが笑った。「行ってきな」
分かれ道に戻ってきた。
今日は、曲がった。
迷わずに、自分の家の方向に。
歩きながら、少し、胸が動いた。
ルミナが行ってきな、と言った。それが、本当に嬉しかった。ルミナが変わろうとしていることが、本当のことだと分かった。
でも同時に、ルミナが無理をしているかもしれない、という感覚もあった。
どちらも本当のことだった。
家に着いた。
玄関を開けた。いつもの匂いがした。
「おかえりなさい」シエルの声がした。
「ただいま」
リビングに入ると、シエルがいた。今日は本を持っていた。でも、ページを開いていなかった。
「今日は来ると思っていなかったです」シエルが言った。
「ルミナが、行ってきなって言ったから」
シエルが少し止まった。
「……ルミナさんが」
「うん」
シエルが少し目を細めた。何かを考えているような顔だった。
「どうぞ、座ってください」シエルが言った。
ソファに座った。シエルがお茶を淹れてくれた。
二人で、しばらく静かにいた。
「シエル」
「なんですか」
「会いたかった」と言った。
シエルが少し止まった。
今まで、そういうことを直接言ったことはなかった。会いに行く、とか、また来る、とかは言っていた。でも、会いたかった、という言葉は、今日が初めてだった。
「……そうですか」シエルが静かに言った。
「うん」
「僕も」シエルが少し間を置いてから、続けた。「会いたかったです」
その言葉が、今日は特別に、温かく胸に落ちた。
二人で、お茶を飲んだ。
窓の外は、寒そうだった。でも、部屋の中は温かかった。
こういう時間が、好きだった。
今日は、その気持ちを、言葉にしようと思った。
「シエル」
「なんですか」
「ここにいると、落ち着く」
シエルが少し止まった。
「……そうですか」シエルが静かに言った。「よかったです」
よかったです、という言葉が、今日は少し、照れているような感じがした。
シエルが照れることがあるのか、と思ったが、そうなのかもしれなかった。
「シエルは、落ち着く?」と聞いた。
「僕は」シエルが少し考えた。「アイルさんがいると、落ち着きます」
「いない時は?」
「……少し、そわそわします」
そわそわ、という言葉が、シエルから出てくるのが、少し意外だった。でも、そう言った。
「そわそわするんだ」
「はい」シエルが少し視線を逸らした。「あまり、言いたくなかったですが」
「なんで」
「……なんとなく」
なんとなく、と言って、シエルが窓の外を見た。
白い息が、窓の外でうっすら見えた。寒い日だった。
シエルがそわそわする、という言葉が、頭の中に残った。
シエルも、そういう感情があるのだ、と改めて思った。分かっていたが、改めて、思った。
夕飯を食べて、少し話して、夜になった。
今日は泊まらないつもりだった。ルミナに連絡する、と言っていたから。
「帰ります」と言った。
「そうですか」シエルが立ち上がった。
玄関で靴を履いた。シエルが見送った。
「ありがとう、今日」と言った。
「どういたしまして」シエルが言った。「また来てください」
「うん、また来る」
「約束ですよ」
「約束」
ドアを開けた。外は暗くて、冷たかった。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」シエルが言った。「気をつけて」
ドアを閉めた。
歩き始めた。
今日は、ルミナが行ってきな、と言った。シエルが会いたかった、と言った。
どちらも、本当のことだった。
ルミナの家に向かいながら、今日のことを全部持っていた。
シエルがそわそわする、という言葉を、特に、持っていた。
冬の夜の空気が、冷たかった。
でも、胸の中は、少し温かかった。
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