表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
32/35

第三十二話 静かな変化

きてくれてありがとうねー。

 その翌日から、ルミナが少し変わった。

 変わった、というのは、大きなことではなかった。ただ、少し、違った。

 たとえば、「早く帰ってきて」という言葉が、少し減った。以前は、僕が少し遅くなると言うたびに、必ず言っていた。それが、少し減った。

 たとえば、スマートフォンを覗き込んでくることが、少し減った。以前は、シエルからメッセージが来ると、すぐに「誰から?」と聞いていた。それが、少し減った。

 一個一個は、小さなことだった。でも、それが積み重なると、少し違う空気があった。

 ルミナが、何かを変えようとしているのかもしれない、と思った。

 あの夜の話が、何かを変えたのかもしれなかった。


 ある日の昼休み、ルミナが「今日、別々に食べてもいいか」と言った。

 驚いた。

「別々に?」

「うん。ちょっと、一人で考えたいことがあって」ルミナが笑った。「たまにはいいじゃん」

「……うん、いいけど」

「ありがとう」

 ルミナが自分の弁当を持って、別の場所に行った。

 久しぶりに、昼に一人になった。

 窓際の席で、一人で食べた。

 静かだった。

 以前は毎日こうだった。一人で食べて、誰も来なくて、それが普通だった。ルミナと付き合ってから、昼は必ず二人だった。

 今日、久しぶりに一人だった。

 おかしいとは思わなかった。ただ、静かだった。

 シエルの気配も、今日はなかった。本当に一人だった。

 弁当を食べながら、窓の外を見た。空が白かった。薄い雲だった。

 このまま、ここに座っていたい、と思った。

 どこにも行かずに、ただここにいたい。

 そういう気持ちが、少しだけ、あった。


 昼休みが終わる頃、ルミナが戻ってきた。

「どうだった、一人で食べるの?」とルミナが聞いた。

「静かだった」

「静かって、良い意味で?」

「……うん、たぶん」

 ルミナが少し目を細めた。「そっか」と言った。

「ルミナは、どうだった?」

「私も、静かだった」ルミナが少し笑った。「静かすぎて、アイルのこと考えてた」

「考えてたの?」

「うん。色々」ルミナが窓の外を見た。「アイルって、一人の時間が好きなのかな、って」

「好き、かどうか、よく分からないけど」

「でも、嫌いじゃなさそう」

「そうかも」

 ルミナが少し頷いた。

「私、一人が苦手なんだよね」ルミナが静かに言った。「一人でいると、色々考えちゃって。良くないことばかり考えちゃって」

「良くないこと?」

「うん。誰かに忘れられるとか、一人になるとか。そういうこと」ルミナが少し笑った。笑っていたが、目は少し暗かった。「アイルといると、そういうこと考えなくていいから、安心するんだよね」

 アイルといると、良くないことを考えなくていい。

 その言葉が、少し胸に引っかかった。

 僕がいることで、ルミナが安心できる。それは、良いことのように聞こえた。でも、ルミナが一人でいられない理由が、僕である、ということでもあった。

「ルミナ」と言った。

「うん」

「一人でいる時に考える、良くないこと。それは、いつからある?」

 ルミナが少し止まった。

「……小さい頃から、かな」ルミナがゆっくり言った。「昔から、一人が怖かった。誰かがそばにいてくれると、安心した」

「誰かがいれば、誰でも良かったの?」

「そういうわけじゃない」ルミナが少し首を振った。「ただ、アイルが一番安心できる」

「なんで?」

「なんで、って」ルミナが少し考えた。「アイルが、逃げないから、かな」

「逃げない?」

「うん。私が泣いても、変なことしても、逃げないじゃない。だから、安心できる」

 逃げないから、安心できる。

 その言葉が、静かに胸に落ちた。

 ルミナは、僕が逃げないから安心していた。でも、僕が逃げなかったのは、逃げ方を知らなかったからでもあった。どうすればいいか分からなくて、ただそこにいた。それが、ルミナには逃げないと見えていた。

「……そっか」と言った。

「アイルは、逃げないよね」ルミナが言った。確認するように。

「……逃げ方が、分からなかっただけかもしれない」と言った。

 ルミナが少し止まった。

「逃げ方が分からなかった、って」

「どうすればいいか、分からなくて、ただいた。それだけだったかもしれない」

 ルミナが黙った。

 長い沈黙だった。チャイムが鳴った。午後の授業が始まる音だった。

「……そっか」ルミナが静かに言った。「それでも、いてくれてたんだね」

「うん」

「ありがとう」ルミナが言った。「たとえ、逃げ方が分からなかっただけでも」

 その言葉が、少し、痛かった。

 ありがとう、と言われた。でも、ありがとうと言われることが、少し申し訳なかった。本当の意味でそこにいたわけではなかったから。

 授業が始まった。

 二人で、前を向いた。


 放課後、ルミナの家に向かう途中で、ルミナが言った。

「ねえ、アイル」

「うん」

「私、少し変わろうとしてるんだけど」

「変わろうと?」

「うん」ルミナが少し頷いた。「アイルに色々言われて、考えたんだよね。私、アイルに頼りすぎてたかもって」

「……そう思った?」

「うん。あの夜の話の後から、ずっと考えてた」ルミナが少し笑った。「一人で考えるのが苦手だけど、一人で考えた」

「どんなことを?」

「アイルがいなくても、大丈夫かもしれない、って」ルミナが静かに言った。「大丈夫、って言い切れないけど。でも、もしかしたら、大丈夫かもって」

 ルミナが、そう言った。

 自分からそう言ったのは、初めてだった。

「ルミナ」

「でもね」ルミナが続けた。「大丈夫かもしれないって思っても、やっぱりアイルにいてほしいんだよ」

「うん」

「それは、変わらない」ルミナが僕を見た。「アイルにいてほしい。ただ、前みたいに、アイルがいないと生きていけないとは思わないようにしたい」

 前みたいに、アイルがいないと生きていけないとは思わないようにしたい。

 その言葉が、静かに胸に落ちた。

 ルミナが、変わろうとしていた。

 それは、本当のことだった。本当に、変わろうとしていた。

「ルミナ」と言った。

「うん」

「それは、すごいことだと思う」

 ルミナが少し目を細めた。

「すごいこと、かな」

「うん」

「アイルにそう言ってもらえると、少し嬉しい」ルミナが笑った。「頑張れそうな気がする」

 頑張れそう、という言葉が、少し温かかった。


 その夜、ルミナが眠った後、シエルに送った。

『ルミナが、変わろうとしてる』

 少し間があってから、既読がついた。

『どういうことですか』

『僕がいないと生きていけない、とは思わないようにしたいって言った』

 また少し間があった。

『……そうですか』シエルが返した。『ルミナさんが、そう言ったんですか』

『うん。自分から』

『そうですか』シエルが返した。少し間があってから、続いた。『アイルさん、どう思いましたか』

『すごいと思った。変わろうとするのは、難しいから』

『そうですね』シエルが返した。それから、少し間があってから、続いた。『アイルさんも、変わっていますよ』

『僕が?』

『はい』シエルが返した。『少しずつ、でも、確かに』

『何が変わった?』

『正直に話せるようになってきた。自分の気持ちを、言葉にできるようになってきた』シエルが返した。『それは、すごいことだと思います』

 シエルも、すごいことだと言った。

 ルミナにも言った言葉を、シエルにも言われた。

『シエルに言われると、少し違う感じがする』と打った。

『どう違いますか』

『……より、信じられる気がする』

 少し間があった。

『そうですか』シエルが返した。声が、少し柔らかい感じがした。文字なのに。『ありがとうございます』

『なんでシエルがありがとうなの』

『信じてもらえるのが、嬉しいので』シエルが返した。

 信じてもらえるのが嬉しい。

 その言葉が、今夜は特別に、温かかった。

『おやすみ、シエル』

『おやすみなさい、アイルさん』シエルが返した。『今日も、よく頑張りました』

 画面が暗くなった。

 天井を見た。

 ルミナが変わろうとしていた。僕も、変わっていると、シエルが言った。

 変化が、少しずつ、積み重なっていた。

 どこに向かっているのか、まだ分からなかった。

 でも、止まっていなかった。

 それだけは、確かだった。

 目を閉じた。

 静かな夜が、続いていた。


面白かった人は続きも見てね〜!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ