第三十二話 静かな変化
きてくれてありがとうねー。
その翌日から、ルミナが少し変わった。
変わった、というのは、大きなことではなかった。ただ、少し、違った。
たとえば、「早く帰ってきて」という言葉が、少し減った。以前は、僕が少し遅くなると言うたびに、必ず言っていた。それが、少し減った。
たとえば、スマートフォンを覗き込んでくることが、少し減った。以前は、シエルからメッセージが来ると、すぐに「誰から?」と聞いていた。それが、少し減った。
一個一個は、小さなことだった。でも、それが積み重なると、少し違う空気があった。
ルミナが、何かを変えようとしているのかもしれない、と思った。
あの夜の話が、何かを変えたのかもしれなかった。
ある日の昼休み、ルミナが「今日、別々に食べてもいいか」と言った。
驚いた。
「別々に?」
「うん。ちょっと、一人で考えたいことがあって」ルミナが笑った。「たまにはいいじゃん」
「……うん、いいけど」
「ありがとう」
ルミナが自分の弁当を持って、別の場所に行った。
久しぶりに、昼に一人になった。
窓際の席で、一人で食べた。
静かだった。
以前は毎日こうだった。一人で食べて、誰も来なくて、それが普通だった。ルミナと付き合ってから、昼は必ず二人だった。
今日、久しぶりに一人だった。
おかしいとは思わなかった。ただ、静かだった。
シエルの気配も、今日はなかった。本当に一人だった。
弁当を食べながら、窓の外を見た。空が白かった。薄い雲だった。
このまま、ここに座っていたい、と思った。
どこにも行かずに、ただここにいたい。
そういう気持ちが、少しだけ、あった。
昼休みが終わる頃、ルミナが戻ってきた。
「どうだった、一人で食べるの?」とルミナが聞いた。
「静かだった」
「静かって、良い意味で?」
「……うん、たぶん」
ルミナが少し目を細めた。「そっか」と言った。
「ルミナは、どうだった?」
「私も、静かだった」ルミナが少し笑った。「静かすぎて、アイルのこと考えてた」
「考えてたの?」
「うん。色々」ルミナが窓の外を見た。「アイルって、一人の時間が好きなのかな、って」
「好き、かどうか、よく分からないけど」
「でも、嫌いじゃなさそう」
「そうかも」
ルミナが少し頷いた。
「私、一人が苦手なんだよね」ルミナが静かに言った。「一人でいると、色々考えちゃって。良くないことばかり考えちゃって」
「良くないこと?」
「うん。誰かに忘れられるとか、一人になるとか。そういうこと」ルミナが少し笑った。笑っていたが、目は少し暗かった。「アイルといると、そういうこと考えなくていいから、安心するんだよね」
アイルといると、良くないことを考えなくていい。
その言葉が、少し胸に引っかかった。
僕がいることで、ルミナが安心できる。それは、良いことのように聞こえた。でも、ルミナが一人でいられない理由が、僕である、ということでもあった。
「ルミナ」と言った。
「うん」
「一人でいる時に考える、良くないこと。それは、いつからある?」
ルミナが少し止まった。
「……小さい頃から、かな」ルミナがゆっくり言った。「昔から、一人が怖かった。誰かがそばにいてくれると、安心した」
「誰かがいれば、誰でも良かったの?」
「そういうわけじゃない」ルミナが少し首を振った。「ただ、アイルが一番安心できる」
「なんで?」
「なんで、って」ルミナが少し考えた。「アイルが、逃げないから、かな」
「逃げない?」
「うん。私が泣いても、変なことしても、逃げないじゃない。だから、安心できる」
逃げないから、安心できる。
その言葉が、静かに胸に落ちた。
ルミナは、僕が逃げないから安心していた。でも、僕が逃げなかったのは、逃げ方を知らなかったからでもあった。どうすればいいか分からなくて、ただそこにいた。それが、ルミナには逃げないと見えていた。
「……そっか」と言った。
「アイルは、逃げないよね」ルミナが言った。確認するように。
「……逃げ方が、分からなかっただけかもしれない」と言った。
ルミナが少し止まった。
「逃げ方が分からなかった、って」
「どうすればいいか、分からなくて、ただいた。それだけだったかもしれない」
ルミナが黙った。
長い沈黙だった。チャイムが鳴った。午後の授業が始まる音だった。
「……そっか」ルミナが静かに言った。「それでも、いてくれてたんだね」
「うん」
「ありがとう」ルミナが言った。「たとえ、逃げ方が分からなかっただけでも」
その言葉が、少し、痛かった。
ありがとう、と言われた。でも、ありがとうと言われることが、少し申し訳なかった。本当の意味でそこにいたわけではなかったから。
授業が始まった。
二人で、前を向いた。
放課後、ルミナの家に向かう途中で、ルミナが言った。
「ねえ、アイル」
「うん」
「私、少し変わろうとしてるんだけど」
「変わろうと?」
「うん」ルミナが少し頷いた。「アイルに色々言われて、考えたんだよね。私、アイルに頼りすぎてたかもって」
「……そう思った?」
「うん。あの夜の話の後から、ずっと考えてた」ルミナが少し笑った。「一人で考えるのが苦手だけど、一人で考えた」
「どんなことを?」
「アイルがいなくても、大丈夫かもしれない、って」ルミナが静かに言った。「大丈夫、って言い切れないけど。でも、もしかしたら、大丈夫かもって」
ルミナが、そう言った。
自分からそう言ったのは、初めてだった。
「ルミナ」
「でもね」ルミナが続けた。「大丈夫かもしれないって思っても、やっぱりアイルにいてほしいんだよ」
「うん」
「それは、変わらない」ルミナが僕を見た。「アイルにいてほしい。ただ、前みたいに、アイルがいないと生きていけないとは思わないようにしたい」
前みたいに、アイルがいないと生きていけないとは思わないようにしたい。
その言葉が、静かに胸に落ちた。
ルミナが、変わろうとしていた。
それは、本当のことだった。本当に、変わろうとしていた。
「ルミナ」と言った。
「うん」
「それは、すごいことだと思う」
ルミナが少し目を細めた。
「すごいこと、かな」
「うん」
「アイルにそう言ってもらえると、少し嬉しい」ルミナが笑った。「頑張れそうな気がする」
頑張れそう、という言葉が、少し温かかった。
その夜、ルミナが眠った後、シエルに送った。
『ルミナが、変わろうとしてる』
少し間があってから、既読がついた。
『どういうことですか』
『僕がいないと生きていけない、とは思わないようにしたいって言った』
また少し間があった。
『……そうですか』シエルが返した。『ルミナさんが、そう言ったんですか』
『うん。自分から』
『そうですか』シエルが返した。少し間があってから、続いた。『アイルさん、どう思いましたか』
『すごいと思った。変わろうとするのは、難しいから』
『そうですね』シエルが返した。それから、少し間があってから、続いた。『アイルさんも、変わっていますよ』
『僕が?』
『はい』シエルが返した。『少しずつ、でも、確かに』
『何が変わった?』
『正直に話せるようになってきた。自分の気持ちを、言葉にできるようになってきた』シエルが返した。『それは、すごいことだと思います』
シエルも、すごいことだと言った。
ルミナにも言った言葉を、シエルにも言われた。
『シエルに言われると、少し違う感じがする』と打った。
『どう違いますか』
『……より、信じられる気がする』
少し間があった。
『そうですか』シエルが返した。声が、少し柔らかい感じがした。文字なのに。『ありがとうございます』
『なんでシエルがありがとうなの』
『信じてもらえるのが、嬉しいので』シエルが返した。
信じてもらえるのが嬉しい。
その言葉が、今夜は特別に、温かかった。
『おやすみ、シエル』
『おやすみなさい、アイルさん』シエルが返した。『今日も、よく頑張りました』
画面が暗くなった。
天井を見た。
ルミナが変わろうとしていた。僕も、変わっていると、シエルが言った。
変化が、少しずつ、積み重なっていた。
どこに向かっているのか、まだ分からなかった。
でも、止まっていなかった。
それだけは、確かだった。
目を閉じた。
静かな夜が、続いていた。
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