第三十一話 ルミナの涙
きてくれてありがとうねー。
新学期が始まって、二週間が経った。
ルミナは、あの夜泣いた後、翌朝にはいつも通りに戻っていた。おはよう、と言って、笑っていた。何もなかったように。
でも、何もなかったわけではなかった。
ルミナが笑っていても、どこかが違った。目の奥が、少し違った。何かを考えているような目だった。
僕も、何かを考えていた。
二人で、それぞれ何かを考えながら、隣にいた。
ある昼休みのことだった。
ルミナが珍しく、「先に食べてて」と言って、一人でどこかに行った。トイレかと思ったが、なかなか戻ってこなかった。
一人で弁当を食べた。
久しぶりに、昼に一人でいた。シエルも来ていなかった。ただ、一人で弁当を食べた。
窓の外を見た。空が白かった。薄い雲が広がっていた。
静かだった。
一人でいることが、久しぶりで、少し新鮮だった。新鮮、というのが正しいかどうか分からなかった。ただ、静かだった。
こういう静けさを、以前は毎日感じていた。一人で弁当を食べて、誰も話しかけてこなくて、それが普通だった。
今は、ルミナがいることが普通になっていた。
どちらが自分にとって普通なのか、今日は少し分からなかった。
ルミナが戻ってきた。少し目が赤かった。
「どこ行ってたの」と聞いた。
「ちょっとね」ルミナが笑った。「なんでもない」
なんでもない、という言葉が、少し引っかかった。でも、聞かなかった。
ルミナが弁当を広げた。いつも通りに食べ始めた。
放課後、ルミナの家に向かう途中で、ルミナが言った。
「ねえ、アイル」
「うん」
「私、最近、怖いんだよね」
「何が」
「アイルが、いなくなりそうで」
またその言葉だった。付き合い始めてから、何度も聞いた言葉だった。いなくなりそうで。
以前は、その言葉を聞くたびに、いなくならないよ、と言っていた。反射的に、そう言っていた。
今日は、少し間を置いた。
「いなくなる、ってどういう意味?」と聞いた。
ルミナが少し止まった。
「どういう意味、って」
「いなくなるのが、どういうことを指しているのか、聞きたかった」
ルミナが考えた。
「……私のそばから、いなくなること」ルミナがゆっくり言った。「私と付き合うのをやめること。私を置いていくこと」
「それが怖い?」
「うん」
「なんで」
ルミナが少し止まった。なんで、と聞かれるとは思っていなかったのかもしれない。
「……アイルがいなくなったら、私、どうすればいいか分からないから」
「どうすればいいか分からない?」
「うん」ルミナが静かに言った。「アイルがいると、安心できる。アイルがいないと、不安になる。それだけ、アイルが大事なんだよ」
大事だから、不安になる。大事だから、いなくなってほしくない。
その気持ちは、分かった。でも、その気持ちが、どこかに向かっていくことが、少し怖かった。
「ルミナ」と言った。
「うん」
「ルミナが僕を大事に思ってくれてることは、分かってる」
「うん」
「でも」
少し間を置いた。
「でも?」とルミナが続きを待った。
「僕が、ルミナのそばにいることで、安心できるのは分かる。でも、僕がいなくても、ルミナは大丈夫だと思う」
ルミナが少し止まった。
「大丈夫じゃない」
「大丈夫だと思う」
「なんでそう思うの」
「……ルミナは、僕と付き合う前も、生きてたから」
ルミナが黙った。
長い沈黙だった。歩きながら、二人とも黙っていた。
「それって」ルミナがゆっくり言った。「私がいなくてもいいって言ってる?」
「そういうことじゃない」と言った。「ルミナがいることは、大事だよ。でも、ルミナがいないと生きていけない、ということはないと思って」
「私はそんな感じがするけど」ルミナが静かに言った。「アイルがいないと、どうすればいいか分からない」
「それは」
「それは、何?」
言葉を探した。
「……それは、ルミナが今そう感じているだけで、本当にそうかどうかは、違うと思う」
ルミナが止まった。
歩くのを止めて、立ち止まった。僕も止まった。
「アイルは」ルミナが静かに言った。「私の気持ちが、本当じゃないって言いたいの」
「本当じゃない、とは言ってない」
「でも、今そう感じているだけ、って言った」
「感じていることは本当だよ。でも、アイルがいないと生きていけない、ということは、本当じゃないと思って」
ルミナが黙った。
目が、また少し赤くなっていた。
「……傷ついた」ルミナが静かに言った。
「ごめん」
「謝らないで」ルミナが言った。「正直に言ってくれたんでしょ。ありがとう」
ありがとうと言いながら、涙が一粒落ちた。
僕は何も言えなかった。
ルミナが手の甲で涙を拭いた。「行こう」と言った。また歩き始めた。
僕も歩いた。
ルミナの隣で、歩いた。
何かが、今日、変わった気がした。
何が変わったのか、うまく言えなかった。でも、以前と違うことを言えた。以前なら、絶対に言えなかったことを、今日は言えた。
それが良かったのかどうか、まだ分からなかった。
でも、言えた、ということは確かだった。
ルミナの家に着いた。
いつも通り、中に入った。でも、今日は何か、空気が少し違った。ルミナがいつもより静かだった。
夕飯を食べた。ルミナの母が話しかけてきたが、ルミナはいつもより短く答えていた。
ルミナの母が、少し心配そうな顔をしていた。でも、何も聞かなかった。
夜、ルミナが眠る前に言った。
「アイル」
「うん」
「今日、色々言ってくれてありがとう」
「ごめん」
「謝らなくていい」ルミナが横を向いた。暗くて、顔がよく見えなかった。「ただ、アイルに聞きたいんだけど」
「うん」
「アイルは、私と一緒にいて、しんどくない?」
しんどい、という言葉が、空気の中に落ちた。
しんどいか、どうか。
しんどい、という感覚が、あったかどうか。眠れない夜が続いていたことは、しんどかったのかもしれない。帰れない、という感覚は、しんどかったのかもしれない。でも、それをしんどいと呼んでいいのか、分からなかった。
「……分からない」と答えた。
「分からないって、しんどくないってこと?」
「しんどいかどうか、判断できない」
ルミナが少し黙った。
「私が、しんどくさせてたかもしれない」ルミナが静かに言った。
「そういうつもりで言ったわけじゃない」
「でも、そうかもしれない」ルミナが続けた。「私、アイルに色々、してほしいことがあって。一緒にいてほしいとか、帰ってきてほしいとか、連絡してほしいとか。それが、しんどかったかもしれない」
ルミナが、自分から言った。
今まで、ルミナが自分のしていることを、こんな風に言ったことはなかった。
「ルミナ」
「ごめんね」ルミナが言った。「気づかなかった。アイルがしんどそうにしてても、気づかなかった」
「ルミナが悪いわけじゃない」
「でも」
「でも、じゃなくて」と言った。「ルミナは、僕のことを好きで、そばにいてほしかっただけで」
「それが、しんどくさせてたかもしれないんだよ」ルミナが静かに言った。
静かだった。
ルミナが、自分のことを少し、外から見ようとしている感じがした。それは、今まであまりなかったことだった。
「……ルミナ」と言った。
「うん」
「今日、話せてよかった」
ルミナが少し黙った。
「……私も」ルミナが静かに言った。「怖かったけど、話せてよかった」
それだけだった。
それから、二人とも黙った。
しばらくして、ルミナの寝息が聞こえてきた。
眠れたらしかった。
僕は天井を見ていた。
今日、色々なことを言えた。以前なら言えなかったことを。ルミナも、以前なら言わなかったことを言った。
何かが、少しずつ、動いていた。
どこに向かっているのか、まだ分からなかった。
でも、動いていた。
シエルに送ろうとして、今夜はやめた。
今夜は、今日のことを自分の中で抱えたまま、眠ろうと思った。
目を閉じた。
しばらくして、眠れた。
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