第二十六話 朝と、帰る前に
きてくれてありがとうねー。
翌朝、目が覚めた。
自分の部屋の天井だった。
しばらく、そのまま見ていた。慣れた染みと、慣れた傷。昨夜も見た天井。でも、朝に見ると少し違って見えた。光の入り方が違うから、かもしれなかった。
静かだった。
ルミナの家の朝とは、違う静けさだった。誰かが起きているかどうか確かめなくていい。誰かを起こさないように気をつけなくていい。ただ、静かだった。
起き上がった。
廊下に出ると、キッチンから音がした。シエルが朝食を作っていた。
「おはようございます」シエルが言った。こちらを向かずに、鍋を混ぜながら。
「おはよう」
「よく眠れましたか」
「うん。久しぶりに、ちゃんと眠れた」
シエルが少し手を止めた。それから、また動かした。
「そうですか」シエルが静かに言った。「よかったです」
朝食は、お粥だった。
白くて、温かくて、シンプルなお粥。梅干しが添えてあった。
「なんでお粥?」
「冬は、温かいものがいいと思って」シエルが答えた。「それに」少し間があった。「アイルさん、最近ちゃんと食べていましたか」
「食べてたけど」
「そうですか」シエルが視線を落とした。「顔が、少し細くなった気がして」
細くなった。
言われるまで気づかなかった。自分の顔をあまり見ていなかった。ルミナの家には大きな鏡がなかった。
「そうかな」
「そう思います」シエルが言った。「食べてください、ちゃんと」
「うん」
お粥を食べた。温かかった。胃に染み込むような温かさだった。梅干しの酸っぱさが、口の中に広がった。
美味しかった。
ルミナの家で食べる朝食も悪くなかった。でも、今朝のお粥は、少し違う美味しさがあった。
何が違うのか、うまく言えなかった。
食後、二人でリビングにいた。
シエルがお茶を淹れてくれた。温かいお茶だった。両手で持つと、手のひらが温まった。
窓の外を見ると、昨夜のうちに雪が少し積もっていた。うっすらと、庭が白くなっていた。
「雪、積もってた」
「夜中に降ったようです」シエルが言った。「アイルさんが眠っている間に」
眠っている間に。
その言葉が、なんとなく、温かかった。僕が眠っている間、シエルは起きていた。雪が降るのを見ていたかもしれない。
「シエルは、夜中に何してたの」
「本を読んでいました」シエルが答えた。「それから、雪が降り始めたので、少し見ていました」
「一人で?」
「はい」
一人で、雪を見ていた。
この前の雪の日に、シエルと別々に雪を見た。今回も、別々に見た。でも、今回は同じ家にいた。同じ屋根の下で、僕は眠っていて、シエルは雪を見ていた。
「起こしてくれればよかったのに」
シエルが少し止まった。
「……起こしていいんですか」
「いいよ。一緒に見たかった」
シエルがまた止まった。今度は少し長かった。
「次は、起こします」シエルが静かに言った。
「うん、そうして」
シエルがお茶を一口飲んだ。窓の外の白い庭を見た。
二人で、しばらく庭を見ていた。
会話はなかった。でも、静かで、悪くなかった。
こういう時間が、好きだった。
好きだった、という感情が、今朝は特に、はっきりしていた。
午前中が過ぎていった。
特に何もしなかった。シエルが掃除をしていた。僕は本棚から本を取り出して、少し読んでいた。自分の本棚にある本を手に取ったのが、久しぶりだった。どんな本があるか、少し忘れていた。
昼食は、シエルがうどんを作ってくれた。温かかった。
食べながら、ルミナのことを少し考えた。今頃、家で一人でいるだろう。寂しいと思っているだろう。早く帰ってきて、と思っているだろう。
今日中に帰る、と言った。
帰らなければいけなかった。
でも、帰りたくない、という気持ちが、今日は少しはっきりしていた。
帰りたくない。
その感情が自分の中にあることを、認めるのが怖かった。認めてしまったら、何かが変わってしまうから。
うどんを食べ終えた。
午後、シエルと並んでリビングにいた。
シエルが本を読んでいた。今日もページが進んでいた。
僕は窓の外を見ていた。雪が少し溶け始めていた。白かった庭が、少しずつ地面の色が見え始めていた。
「シエル」
「なんですか」
「一つ、聞いていい?」
シエルが本から顔を上げた。「どうぞ」と言った。
「僕が帰ってこない間、シエルはどうしてた。本当のことを」
シエルが少し間を置いた。
「本当のこと、ですか」
「うん。大丈夫とか、普通とか、じゃなくて」
シエルがゆっくりと本を閉じた。膝の上に置いた。
窓の外を見た。溶けかけの雪を見ながら、少し考えているようだった。
「……寂しかったです」シエルが言った。「毎日、少しずつ。積み重なる感じで」
「うん」
「アイルさんがいた頃の当たり前が、なくなっていきました。朝に話すことも、夕飯を一緒に食べることも、夜にここにいることも。一個一個は小さいことでしたが、全部なくなると、随分と違いました」
シエルが少し息を吐いた。
「何度か、会いに行こうと思いました」
「そうなの?」
「はい」シエルが頷いた。「でも、行けなかった」
「なんで」
「……ルミナさんがいるから、というのもありました」シエルが静かに言った。「でも、それだけではなかったです」
「それだけじゃない?」
「アイルさんが、自分で選んでいると思っていたので」シエルが言った。「そこに、僕が踏み込むのは、違う気がして」
自分で選んでいると思っていた。
その言葉が、少し痛かった。自分で選んでいたのか、流されていたのか、今でもよく分からなかった。でも、シエルはそう思っていた。
「踏み込んでくれてよかったのに」と言った。
シエルが少し目を見開いた。
「……そうですか」
「うん。シエルが来てくれたら、少し違ったかもしれない」
シエルが黙った。長い沈黙だった。
「それは」シエルがゆっくり言った。「後悔、ですか」
「後悔というか」僕は少し考えた。「シエルに来てほしかったな、と思って」
シエルの目が、少し揺れた。揺れた、というのが正確かどうか分からなかった。でも、何かが動いたような気がした。
「……次は、行きます」シエルが静かに言った。
「次は、シエルが来なくていい場所にいるようにする」
シエルが少し止まった。
「……それは、どういう意味ですか」
「来なくていい、というのは」僕は少し言葉を探した。「来てほしくない、ということじゃなくて。ただ、シエルがいつもそばにいる場所にいたい、ということ」
シエルが黙っていた。
僕も黙っていた。
自分が言ったことの意味を、言いながら気づいていた。
シエルが来なくていい場所。それは、シエルがそばにいられる場所、ということだった。
シエルのそばに、いたい。
その考えが、今日は、隠さずに、頭の中にあった。
夕方になった。
帰らなければいけない時間が、近づいていた。
シエルが夕飯を作ろうとしていた。「食べていきますか」と聞いた。
「……食べていく」と答えた。
少しだけ、帰る時間を遅らせた。
夕飯を食べた。シエルと向かい合って、静かに食べた。会話は少なかったが、悪くなかった。
食べ終えてから、荷物を持った。
玄関で靴を履いた。シエルが玄関まで来た。
「気をつけて」シエルが言った。
「うん」
「また、来てください」
「来る」と言った。「今度は、もう少し早く来る」
シエルが小さく頷いた。
「待っています」
ドアを開けた。外は寒かった。雪はほとんど溶けていた。夜の空気が冷たかった。
振り返ると、シエルが玄関に立っていた。
「行ってきます」と言った。
シエルが少し間を置いた。
「……行ってらっしゃい」シエルが言った。
その言葉が、今夜は特別に、胸に響いた。
ドアを閉めた。
歩き始めた。
ルミナの家の方向に向かって。
でも、歩きながら、今日のことを全部持っていた。シエルの声を、お粥の温かさを、雪の白い庭を、行ってらっしゃいという言葉を。
全部、持っていた。
忘れないようにしようと思った。
今日の帰り道は、今までより少し、長く歩きたかった。
急がなくていい。
ゆっくり歩いた。冬の夜の空気の中を、ゆっくり。
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