第二十五話 帰る日
きてくれてありがとうねー。
冬休みが残り三日になった朝、僕は決めた。
今日、帰ろう。
特別なことがあったわけではなかった。ルミナがいつも通り目を覚まして、いつも通り僕を見て、いつも通りほっとした顔をした。朝食を食べて、いつも通りの朝だった。
でも、今日帰ろう、と思った。
必ず行く、と言った。冬休みが終わる前に帰ろうと思った。残り三日だった。今日でなければ、明日か明後日になる。明日も明後日も、また何か理由ができて帰れなくなるかもしれない。
だから、今日にした。
どうやってルミナに言うか、朝食を食べながら考えた。
午前中、ルミナと部屋にいた。
ルミナがスマートフォンを見ていた。僕は窓の外を見ていた。
曇っていた。雪が降りそうな空だった。
「ねえ」と言った。
「うん?」ルミナがスマートフォンから顔を上げた。
「今日、家に帰ろうと思う」
静かだった。
ルミナが、少し表情を止めた。止まった、というのが正確で、笑顔が固まったような。
「帰るって、自分の家に?」
「うん」
「なんで」
なんで、という問いに、正直に答えようとして、止まった。シエルに会いたいから、とは言えなかった。シエルのことをルミナに話すと、いつも不安にさせてしまうから。
「久しぶりだから」と答えた。
「久しぶりって」ルミナが少し笑った。笑っていたが、目は笑っていなかった。「前に帰ったのいつだっけ」
「十二月の頭くらい」
「そんなに経ってたんだ」ルミナが視線を落とした。「泊まるの?」
「たぶん」
「たぶん、じゃなくて」ルミナが顔を上げた。「泊まるの、泊まらないの」
「……泊まると思う」
ルミナが黙った。
少し長い沈黙だった。窓の外で、風が動く音がした。
「一人でいるの、嫌だな」ルミナが静かに言った。
「一人じゃない。お母さんがいるじゃない」
「そういうことじゃなくて」ルミナが俯いた。「アイルがいないのが、嫌なんだよ」
分かっていた。そういうことだと、分かっていた。
でも、今日は引かないようにしようと思っていた。
必ず行く、と言った。今日にしようと決めた。
「一日だけ」と言った。「明日には戻る」
「一日だけ?」
「うん」
ルミナが少し間を置いた。
「……シエルに会いに行くの」
直接聞いてきた。
「会いに行く」と答えた。今日は、誤魔化さなかった。
ルミナが黙った。今度はもっと長かった。
鞄に手が伸びるかもしれない、と思った。身構えた。
でも、ルミナは鞄に手を伸ばさなかった。
ただ、俯いたまま、静かにしていた。
「……一日だけ?」ルミナがもう一度聞いた。
「うん。一日だけ」
「明日には戻ってくる?」
「戻ってくる」
ルミナが少し息を吐いた。
「……分かった」ルミナが言った。「一日だけなら」
思っていたより、すんなりと言った。拍子抜けするくらい、すんなりと。
「ありがとう」と言った。
「ありがとうって言わないでよ」ルミナが少し苦笑いした。「なんか、変な感じがする」
「ごめん」
「謝らなくていいよ」ルミナが顔を上げた。目が少し赤かった。泣いていたわけではなかったが、泣く手前のような目だった。「ただ、早く帰ってきてね」
「うん」
午後、荷物をまとめた。
まとめる、といっても、大した荷物はなかった。着替えと、教科書と、スマートフォンの充電器。それだけだった。
ルミナが部屋のドアのところで、見ていた。
「行ってらっしゃい」とルミナが言った。
「行ってきます」
「シエルによろしく言っといて」ルミナが言った。少し、皮肉めいた言い方だったが、本気で怒っている感じではなかった。
「言っておく」
玄関を出た。
外は寒かった。曇っていた。雪はまだ降っていなかった。
歩き始めた。
久しぶりの道だった。ルミナの家から自分の家へ向かう道。以前は毎日歩いていた道。今は、ほとんど歩かなくなっていた。
分かれ道に来た。
今日は、迷わず曲がった。
自分の家の方向に。
家が見えてきた。
変わっていなかった。外観は、まったく同じだった。当たり前だったが、何か変わっているような気がしていたから、同じであることに少し安心した。
玄関のドアを開けた。
匂いがした。
木と、埃と、シエルのお茶の匂い。変わっていなかった。この匂いが、ずっと同じだった。
「おかえりなさい」
シエルの声がした。リビングから。
靴を脱いで、上がった。リビングに入ると、シエルがいた。
いつも通りの場所に、いつも通りの格好で、立っていた。白い髪。暗い赤の目。
目が合った。
シエルが、少し目を見開いた。驚いたような顔だった。
「……本当に来ましたね」シエルが静かに言った。
「来るって言ったから」
「はい」シエルが小さく頷いた。「待っていました」
待っていました。
その言葉を、今日は直接、目の前で聞いた。文字ではなく、声で。
胸の中で、何かが動いた。
「ただいま」と言った。
シエルが少し間を置いた。
「……おかえりなさい」シエルが言った。さっきより、少し低い声で。
それだけだった。
でも、それだけで、十分だった。
夕飯を食べた。
シエルが作ってくれた。豚汁と、白米と、焼き魚だった。シンプルだったが、温かかった。
二人でテーブルを挟んで食べた。
久しぶりだった。この食卓が、久しぶりだった。向かい合って、静かに食べる。会話は少なかった。でも、静かで、悪くなかった。
「美味しい」と言った。
「ありがとうございます」シエルが言った。「久しぶりに作れました」
久しぶりに作れました。
その言葉が、少し胸に刺さった。久しぶりに、というのは、僕がいなかったから作れなかった、ということだろう。一人分のために作ることは、しなかったのだろうか。
「一人の時は、ご飯食べてた?」
シエルが少し止まった。
「……適当に」シエルが答えた。「あまり、食欲がなかったので」
「食欲がなかったの?」
「はい」
「なんで」
シエルが視線を落とした。
「……理由は、うまく言えないです」シエルが静かに言った。「ただ、食べる気があまりしなかった」
理由は言えない、と言った。でも、なんとなく分かった。
何も言わなかった。豚汁を一口飲んだ。温かかった。
食後、リビングでしばらく過ごした。
シエルが本を読んでいた。今日はページが進んでいた。
僕はソファに横になって、天井を見ていた。
自分の家の天井だった。慣れた染みと、慣れた傷がある天井。
これが、自分の天井だった。
「シエル」
「なんですか」
「来てよかった」
シエルが本から顔を上げた。
何かを言おうとして、止まった。また言おうとして、止まった。
それから、静かに言った。
「……僕も、よかったです」
その声が、いつもより少し低かった。
僕は天井を見たまま、その声を聞いていた。
シエルが本に視線を戻した。ページが、また進んでいた。
窓の外から、微かに風の音がした。
雪が降り始めたかもしれなかった。
この家の静けさが、好きだった。
好きだった、とまた気づいた。
今日は、その気づきを、忘れないようにしようと思った。
夜、自分の部屋で横になっていた。
シエルが「おやすみなさい」と言って部屋を出た。ドアが閉まった。
静かだった。
ルミナの家の静けさとは、違う静けさだった。自分の部屋の静けさ。
スマートフォンを見た。ルミナからメッセージが来ていた。
『寂しい。早く帰ってきて』
返信した。『明日帰る』と。
既読がついて、『待ってる』と来た。
スマートフォンを置いた。
天井を見た。
明日帰る、と言った。明日、またルミナの家に戻る。今日帰ってきたことは、一日だけの話だった。
それが、正しいのかどうか。
まだ分からなかった。
でも、今夜は考えないことにした。
今夜は、この部屋で、この静けさの中で、眠ろうと思った。
シエルが隣の部屋にいる気配がした。
その気配が、今夜は特別に、安心できる気がした。
目を閉じた。
すぐに、眠れた。
面白かった人は続きも見てね〜!




